10-1
第拾話【幻の藁】(マボロシノワラ)では、残酷な表現が用いられます。不快に感じる方、苦手な方は閲覧をお控え下さい。
「――咲!! 咲っ――!!!」
薄暗い闇の中、酷く重い泥の濁流に飲まれていく、白く細い手を、男は掴めなかった。
山々に囲まれた自然溢れる、ある村に、大災害が起きた。
突然の豪雨により、大池が増水し氾濫を起こし、山の土砂が崩れ、土石流となって村を飲み込んでいった。
死者は村人全122名の内、実に121名と推定されている。全て土砂の中に埋もれているためか、121名が行方不明状態なのだ。専門家に生存確率を訊くと、無言で首を横に振る反応しか、示さなかった。
只一人の生存者。『花房 孝治』という若い男は、運よく土石流の荒波に耐えている電柱にしがみ付いていたという。
* * * *
夏も鎮まり、夜が長く感じられるようになった、秋。
敷地内に植えられている木々が地面に色をつけているアパートの一室から、若い男性の声が、響いていた。それは、とても切迫していて、尚且つ、人の感情を昂ぶらせる声であった。
「お願いします……!」
畳の上に躓き、手を付け、深く頭を下げた姿。それは、願望実現、謝罪の極まり等を主張する、土下座であった。
対面に座する、茶か金か、どちらにも見える明るい髪に、黒い瞳の三白眼の男、トキは、「止してくれ」と訴えた。
それでも尚、男は深々と頭を下げる。
「お願いします!」
トキは目を瞑って、参った顔をする。
「……花房 孝治といったな。あんたの居た村で起こった惨事は、概ね知っている。俺が協力できることなら無償で引き受けようとは思うが、事これに関しては、姿勢は表せんな」
「……」
「シズク…という仲介人を経ているのなら、耳に入れたろ。死んだ人間は蘇らせることが出来ない。……分かってくれ」
トキは、強烈な罪悪感に苛まれていた。死人にムチを打つような言動を、非情にも告げなければならない。
この、孝治という男は、妻である、『咲』を生き返らせて欲しいと、頼み込んだ。大事なモノを失った者が、一番に願うこと。それこそ、修復、修正、蘇り。
痛いほど、トキには理解できる。しかし、世の理は許さない。鳶渡の力をどう行使しようとも、死者が死者である事実は動かない。受け入れてもらう他に手立ては微塵もない。
「でしたら……」
孝治は、大腿に置いた両手を握り締めた。
「でしたら、咲の遺体を見つけて頂く事は……出来ませんか?」
改められた要求に、トキは少しだけ間を置いた。意味を理解するのに手間取ったのだ。
「遺体を…?」
鸚鵡返しをすると、孝治は「はい」と頷いて話を盛る。
「土砂に埋もれて、居所不明な状態がずっと続いているんです。しかし、無代さんが鳶渡の力で、咲の行方を追ってくれれば、見つけることは可能なんじゃないかと」
トキは喉の奥で「ん」と音を出した後、神妙な顔つきをした。
「それなら出来なくはないが……。しかし、遺体を見つけてどうしようというんだ」
「咲が好きだった花を、飾ってやりたいんです」
孝治は目を伏せて、薄っすらと笑みを浮かべた。恐ろしく不気味で、霊光な笑みを、浮かべた。
途端に、トキはゾッとする何かに襲われた。心臓が針で突かれたような傷みに似た、異様な感覚。
目の前に座す孝治から放たれる、覚悟という威圧が発生源なのか。それとも。
(……まさか。……いや。……どうする)
無駄な程に回転を始めた脳内を、トキは一瞬だけ恨めしくなった。
怪訝に目を細めるトキを見て、孝治はまた額を畳みにつける程に頭を下げて願いいった。
「お願いします……!」
「……」
必死な頼み事。恐らく、それが孝治にとって、この世にいるために必要な綱のようなものなのだろう。愛と云う言葉が具現したかのような、そんな錯覚さえ感じざる得ない姿勢に、トキは、断りの返事を持つことが出来なかった。
「……分かった」
孝治は、スッと面を上げてから、顔を潰して、もう一度下げた。
「ありがとう…ございます」
承諾してからの行動は迅速に行なわれ、ものの10分程度で、トキは孝治の鳶螺を渡った。
訊いたことは、何処に居れば安全で、咲の行方を終えるかという事だけ。用意したモノは特に無く、違いといえば、履物が滑り止めの付いた茶系のスニーカーという点だけである。
豪雨という情報は知ってはいるが、合羽を羽織る気はないようだった。動きづらいという点を考慮した結果である。
「……」
膨大な情報が幾重にも流れる鳶螺の管を渡る中、七色の光に包まれているトキは、思慮を深めていた。
あの場で、訊きたかった事が、もう一つあったのだ。しかし、それを口にすることに怯え、紡いでしまった。
トキは強く頭を掻いた。
深層の事。孝治から流れる負のシコリ。
「……あいつ、本当に……?」
頭が横に振られた。
勝手な決めつけだと否定するが、胸のざわつきは一向に退こうとしない。
闇雲な訴えは、どんどんと巨大になっていく。
孝治は、咲の遺体が発見されれば、その時点で生きる意味を失い、――自殺を図る気なのでは。
危険極まりない気配をひしひしと感じ取ったトキは、その考えに至る他なかった。
訊いていれば、話をしていれば、相談に乗っていれば、孝治の足を地にしっかりと留めて置くことが出来たかもしれない。
「いや、何を考えているんだ。決まったことじゃない」
惑乱に近い悩みを大きく吸い込んだ息と共に吹き払い、トキは目を瞑った。
瞼の裏が、照らされた。
――――――――
「……」
目を開くと、まず、山が見えた。視線を左右に振っても山は消えず、此処が山間の場所なのだと理解する。
一歩進むと、しゃりっと草を踏む音がした。自身が立っている場所すらも、山の一部分のようなところで、少し小高い坂の上であった。そこから俯瞰する、村の景色は、正に絶景であった。
時刻は早朝。燦々と降り注ぐ太陽の光が白みを生み、透き通る風が透明感を作る。その中に点在する古びた家々に、広がりを見せる田園。車の通りもなく、脚を用いて行き交う人々の姿。時間軸を大幅に間違えたかと思えるような、近代に取り残された場所に、何時の時代だ。という感想が落ちる。
トキは足元に落ちている若葉を一枚掴んだ。
「間違ってはいないようだな」
意味深に落とし、近くの木を仰ぎ見る。秋口を過ぎた頃なためか、葉桜にポツポツと紅葉が見られる。あの大惨事が起きた日にも、同じような木が見られ、証明の役割となっていた。
トキは視界を下に戻すと、手前に家が建っていることに気付いた。
「ん」
孝治の鳶螺を渡ってきたのだから、当然、孝治から近い場所に降り立つ。一番近い民家は、トキが現在、視界に捉えている場所であるため、ここが花房家で間違いない。
注視していると、玄関の開く音が聞こえ、中から人影が二つ、出てきた。
スポーツ刈りに爽やかな笑顔の似合う好青年は孝治であった。畑仕事に行くようで、肩には鍬を引っ提げている。そして、三つ編みを1本、首元から伸ばしている淡い桃色の服を着た女性が咲だった。夫婦である二人から、幸せそうな雰囲気が漂っていて、トキは自然と顔を朗らかなものに。
二名は、空をゆっくりと見上げた。
「すっかり涼しくなったなー」
「そうね。もう、タオル要らないかしら」
「いや、貰うよ」
そういって、孝治は頭を少しだけ下げる。咲は予め手に持っていたタオルを首に掛けてやる。
「頑張ってね」
「ああ」
そうして、互いに手を振って、「行ってくる」と、「いってらっしゃい」と言い合った。
姿を見ていたトキは、孝治の背を咲と同じように追ってから、ふいに空を漠然と見た。
穏やかで、時間の進みが遅く感じられる地に、根を下ろした若夫婦。
偕老同穴を約束されたような、満ち満ちた二人の間を、何とも荒々しく引き裂くのは、土砂の大群。
「……そりゃ、ここしか思い出せんよな」
トキは、孝治の鳶螺を渡ってきた。孝治の意識がある内は、過想という、改変したい時間を己で定めることが出来る。要求は『咲の行方を追う』というものであるがため、災害の発生直後か、少し前に鳶螺を通すのが基本となる。が、それが出来なかった。
咲との最期のやり取り以外に強く想える場所がなかったのだ。
豪雨の始まりは昼の14時頃。今からおおよそ7時間後のこと。ただ待つだけの身からすれば、途方もない時間の余りではあるが、トキは少し安堵していた。
「覚悟を決めるにゃ、打って付けだよな」
そういって、トキは坂を上って人目に付かないところで頭の後ろで手を組んで地面に仰向けに転がる。
下部から上部へとズクズクと込み上げる想いが、トキにはあった。
今から強いられる役目は、『人が死ぬ往く様を見届ける』だけである。
その『だけ』が、あまりにも凶悪なのだ。
無意識が、許さないと声を荒げるのだ。罪悪感、本質、道徳。それらを抑えつければつけるほどに、トキの表情に余裕はなくなり、芳しいものへとなる。
他の奴ならどうするだろうか。そんな細い逃避で紛らわせる。
「……」
トキはおもむろに煙草を咥えて火を点した。すぅっと一呼吸する。すると、溜息交じりに煙が吹かれると、煙草を地面に擦った。
「ダメだ。空気が美味すぎる。煙草が不味い」
一息も、一服も入れらないまま、時間は過ぎていった。