9-4
「諂った演技ってどういうこと?」
美登理は、少し低い声でそう問うた。単純に意味が解らないというわけでなく、その真意が読めなかった。
「そのままの意味だ」
トキの確言に、眉宇が逆弧を描く。
「……え?」
顔は早苗の方を、無意識的に向いた。まだ、何も言われていないのと同じ状態であるにも関わらず、心臓の鼓動がいつもより精密に捉えられた。期待ではなく、不安から込み上げる音。
「早苗……?」
震えた声が、蒸し暑い室内に、ひと際響いた。
――反論してよ。何か言ってよ。
――首を振るだけでもいいから。否定を。
――私じゃないと。私はやってないって。
――言ってよ!
そんな願いを余所に、早苗の口元が、不気味に伸びていく。
「まさか、そうくるとは…思いませんでした」
悪びれた声。つり上がった眉。希薄から、濃い暗闇を足したような瞳。
「……っ!」
美登理の願いは、呆気もなく、断たれた。
「早苗……」
唖然とした美登理は、バッとトキの方を向く。
「嘘…嘘だよね。私を驚かそうとして、…だから、嘘だよね!?」
捻り出した様な笑みの下、詰め寄られたトキの心臓は、ズキンズキンと悲鳴を上げた。まるで、悪いモノが念仏を唱えられ、苦しんでいるような、そんな、罪悪感を乗せていた。
「……」
トキは胡坐を組んだまま、精悍な態度を保つ。
これを崩せば、お互いに亀裂が走りそうで、何としてでもと、耐え忍んだ。
「鳥子。ウサギを殺したのは、早苗だ」
ここで。
ここで、おどけてみせてくれれば、どんなに美登理は救われたか。
だが、しかし、救われたとしても、それは、張りぼての様な関係が続いていくのと同じこと。
いずれ崩壊しかねない、導火線に火の点いた毎日が待っているだけである。
トキは、そんな酷を美登理の荷に詰めたくなかった。
――何故なら、
〝信用たる人物って?〝
〝あんたのこと〝
信用されているから――。
告げるべきか、告げぬべきか。
信頼されている者が、嘘を固めてどうする。
結論は、容易く出た。
美登理は、頭でどれほど否定的に言葉を捉えようとしても、出来ずにいた。当たり前だ。トキが、その眼で収めてきた、『真実』なのだから。
真実に対して、嘘はあまりに効力を持たない。
張り巡らされた早苗を想う気持ちが、ガラスを叩きつけたかのように、崩れていった。同様に、美登理の身体から、力が消え――欠けた。
美登理は、残りカスのような力で、己を動かした。
「なんでよ……なんでこんな事を……ッ!」
悲しみを纏った目と声。対して、早苗は薄く笑う。
「復讐」
端的な一言。
理解を得ようつもりなど微塵も無い。そんな心中が、投影されていた。
「……」
混乱に満ちた美登理の代わりに、トキが問う。
「どういう事だ。ウサギが何かしたっていうのか?」
「あはは。ウサギは単なる道具ですよ」
「…道具?」
「ウサギを殺したのは、付加価値を得たかったからです」
「……」
「分かりませんか。イジメですよ。イジメ」
トキの眉が曲がる。目的がまるで見えてこない。
「イジメを誘発して、何がしたいんだ」
「私を中心にイジメが起これば、率先垂範に庇おうとする人がいますよね」
あくどく細まった糸目に、美登理が映る。が、そこまで導かれても、何も見えてこない。
「……分からんな」
半透明にさえ見えない心中。肯綮を中てることが、まるで出来ない。
沈黙に陥った場。ピリピリと空気に静電気のようなものが走っている錯覚が起こる。
早苗は、諦めた息を一つ吐くと、本心を披瀝し始めた。
「最初に言っておきます。私がしている、しようとしていた事は、途轍もなく、自分勝手で自己中心的なものです」
「……そこまで分かっていながら、何故、実行に移すんだ」
「そうしなければ、抑え切れなかったからです」
トキは、思った。こいつもまた、驕り昂ぶった思想の持ち主なのか…と。
軽蔑感のある視線を浴びながら、早苗は冷めた口調で話し始めた。
「私の家庭は、貧乏で、先々、今よりもっと安いアパートに移り住むことになりました。お金が無い。というだけで、私が積み上げて来た学校生活が一変するんです」
引越しによる、転校。新たな学校で、一から自分を築き上げなければならない不安は、尋常ではない。
「私は、親友であった美登理ちゃんに、この事を相談するかどうか、少し迷った時期がありました。でも、私の口からは到底言えるような内容ではありませんでした。出来ることなら、美登理ちゃんが気付いてくれて、話を振ってきてくれることを、期待していました」
「身勝手だな」
「臆病なんですよ。人を頼ることに」
「とんだ自尊心だ……。つまるところ、美登理が何も気付かなかったことに腹を立てたということだろう」
「……不満の原因はそうですね」
「復讐というのは、鳥子に対して……か?」
「……」
無言の答。
それから、早苗は細々と、語り始めた。
手口、方法は、あまりに簡単で、あまりに〝えげつ〝なものであった。
第一に早苗が行なったのは、曖昧な犯人像を誰かに目撃させること。さらに、疑いが自分に向くように、情報操作を行い、イジメを誘発。
教室内に強烈な空気を作り出し、伴うように現れる、一触即発ともいえる美登理を作り出した。
その後、お互いが親友同士ということを公言するかのように、行動を共にし、他者に植え付ける。土台はこれで完成。
後は、髪を切り、もう一度、ウサギを殺害し、同じように後ろ姿を目撃させるだけ。
――美登理のような、後ろ姿を。
早苗は引越しと云う名目の下、雲隠れ。
イジメの対象として向かっていた皆の目は、美登理に向かうことになる。
実行されていれば、美登理は避けることが出来なかったであろう。
何故なら、謹慎処分を受けた身だから。
屋上の鍵を盗み出し、煙草を吸っていたという容疑。確かに、その事件の後、美登理を見る他者の目は変わった。悪しき者。不良。法律を守らない不適合者。そこに、さらに、ウサギを殺害したという疑い。有耶無耶なはずの出来事が、凝固し、皆の考えが確固たるものへと様変わりする。
「酷いもんだ」
訊き終えた感想は、それ以外に見当たらなかった。
「手前の始末を、得手勝手に押し付けるなんざ、人道的じゃないな」
トキは睨むように早苗を見る。スッと顔が逸れ、『自分でも分かっている』と、暗に告げられる。
一方で、美登理は。
「鳥子……」
静かに立ち上がり、震える口元を、腕を使い隠して、靴も履かずに裸足のまま、トキの部屋から走り去っていった。
足音が途絶えると、扉が勢いよく閉じられ、室内に爆音が響いた。
悲しみに暮れた果てに、烈火のような怒りが、美登理を襲っているのだろう。と、トキは思い耽る中、煙草を取り出し、煙を宙に舞わした。
「……謝らないのか?」
トキは、煙に尋ねた。
そうすると、ポツリと、「……今更」と舌打たれた。
「…ま、そうだな。今更かもしれんな。未遂だが、鳥子を陥れようとしたのは事実で、鳥子の気持ちを踏みにじり、裏切ったのも事実だ」
早苗は、顔を背けたまま、目を閉じた。
「お前が関係を断ちたいと思っているのなら、謝罪する義理はないだろう。到底、もう、顔も会わさない、薄い関係になっちまうんだからな」
「そのつもりで行動していたのだから、いちいち言う必要はないんじゃないですか?」
「お前は。だろ。鳥子はそうじゃねぇかもしれんだろ」
不満げに煙草が口から噴出され、すぐに勢いを失い立ち昇る。対して、早苗の逸れた顔は、元に戻り、力のある目が、トキを捉えた。
「私は、人の関係というのは握手のようなものだと思っています。握る力が強いほど、お互いが信頼していること。でも、一人がその力を完全に解けば、関係は途絶えるんですよ」
眉間に、シワが集まる。
「だから、私が力を解いた瞬間、美登理ちゃんとの関係は終わっているんです」
「そいつは乱暴な考えだな」
「え?」
「握手だってんなら、片方が力を抜いたとしても、片方が思いっきり握っている限り、抜けることはできんだろ」
揚げ足を取られた早苗は、踵を返すように、溜息を一つした。
「もう、美登理ちゃんの方も、手を離していますよ」
自嘲するような笑み。もうこれで、この話の全ては終焉を迎えたと、言っているようなものだった。
――が、ある音が、トキの部屋に迫ってきた。
それは、ペタペタと、裸足で地面を踏むような音であった。
数合も経たぬ内に、玄関扉は開き、重たそうなアタッシュケースを両手でしっかりと握り締めている、美登理が入ってきた。
影が降り立ち、シルエットでしかその姿は捉えられないが、トキは、ある既視感に襲われた。
美登理は、戻ってきたことに驚きを隠せず、静止し、固唾を飲む早苗に向かって、走り出した。部屋自体が広くないため、距離としては僅か4m強。
近づく最中に、美登理はアタッシュケースの重量を利用し、グンッと身体を右に捻る。まるでハンマー投げの要領で、「まさか」と、トキは頬に汗を垂らして次の行動をいち早く察する。
畳の部屋へとその足を踏み入れた美登理の影は消え、表情が明るみになった。
トキはその表情を一言で表す言葉を知っていた。――怒髪天を衝く。
容赦を欠片も見せないような、美登理の憤怒の表情。
「ひっ!」
驚愕で硬直を見せる早苗に、風切り音をすら発生させるほどの回転を駆使したアタッシュケースの一撃が、側頭部を貫いた。
ズガァアン!
まさに、ティーバッティングように、早苗の頭と云うボールが、打ち抜かれた。
あまりの衝撃と慣性の法則によって、早苗は横に放り出されるように倒れた。
「ハァ…ハァ…」
息を上げる美登理は、アタッシュケースを捨てるように手放し、早苗の近くに落とした。鍵は掛かっておらず、先程の衝撃と相俟ってか、アタッシュケースは落ちるや否や、パカリと開き、中身を露にする。敷き詰められていたのは、3千万円という大金であった。
アタッシュケースの重量は2500グラム。3千万円はおおよそ3000グラム。合わせて55000グラム、即ち5.5キロの重さによる殴打。トキは片頬を嫌に持ち上げ、横たわる早苗を労わるように見つめた。只では済まぬ、制裁とも云える一撃。
それを放った美登理は、全身に力を込めており、震えていた。しばらく経つと、両手を肩まで上げ、鬱憤を払拭するように、思い切り振り下ろした。そして、腰に片手を当て、精悍な態度で物言う。
「その金は、同情や憐れみからのものじゃないわ。我ながら、惚れるくらいにアンタの頭をぶっ叩たいたからね。バカにならないほどの治療費が発生するだろうし、慰謝料だって求められて当然よね。だから、諸々一切、今払うわ」
そう放っている間に、憤怒の形相は形を失い、徐々に弱弱しく、それでいて、強烈な意思を宿したものへと変わっていった。
「――だから、……だから! もう二度と、私の前に、悪人のアンタを連れてこないで!!」
美登理は、何者の返事も待たずに振り返り、無言のまま、玄関へと歩いていき、立ち止まる。が、それも5秒も経たぬ内に身体は動き出し、去っていった。
トキは、突風のような美登理の背を見送った後、立ち上がり、早苗の安否を確認するかのように、覗き込んだ。
激痛でのた打ち回ってもいないため、気絶しているかと思われたが、意外にも、早苗の顔は冷静なものであった。しかし、それはどこか、ぽっかりと穴が空いているような、放心状態に近しかった。
「……大丈夫か?」
「…………」
問い掛けに応えることもなく、無言のまま倒れている早苗であった。が、ポロポロと、涙を流し始めた。
傷みから、痛みから、後悔から、情けなさから、止め処なく、涙は分泌され、流れていく。
トキは頭を掻いた。
「…これでもう、お前と鳥子は対等じゃなくなったな」
「初めから、対等じゃ……っ」
吐き捨てながら、早苗は身体を起こした。衝撃のせいか、少し頭がふらつく。
「……金のことか」
トキは、丸テーブルに置いてある灰皿に煙草を押し当てる。
圧倒的なまでの、資産の差。早苗には、それが光と影のような、覆らない差に見えているのだろう。だが、美登理は、違う。
「じゃあ、訊くが。鳥子は金のことについて、話題に挙げたりしていたか? この鳶渡にだって、相応の金額は発生するんだが、その話は聞いたか? ……もう一度訊く。鳥子は、金のことを話題に挙げたことがあるか?」
釘を刺すような鋭い問いに、早苗は眉を尖らせ反論しようとした。が、
「…………っ」
その術を、記憶から抜き取り、列挙することが、出来なかった。
そう、美登理と早苗の日常の中に、金の話題など、一切、挙がらなかったのだ。だからこそ、美登理は気付くことも、感じることも出来なかった。当たり前のこと。無から有は生まれない。
トキは、戸惑う早苗を見て、僅かに口の線を伸ばした。
「ま、ないだろうな。あいつは、金なんかよりも、人の繋がりを大事にする奴だからな。…そのせいで、自殺まで考えようとするのは、ちと、やり過ぎだが……」
トキはそう告げるが、へたり込んでいる早苗には、もう、何も聞こえていないに等しかった。悔悟の感情が、脳内を埋め尽くしていた。
拳を握る早苗。トキは、そっと詞を落とした。
「早苗。お前は今、全てを砕かれ、消し炭みたいな姿で地の底にいる。だから、這い上がって来い。鳥子が積んだ、3千万を踏み台にしてな」
「……」
聞こえたかどうかは、知る由もない。しかし、届いてはいるだろう。
トキは天井を漠然と見上げて、背を伸ばす。
「さて、いっちょ、胸を貸しにいってくっかな」
張り切るように言うと、ゆっくりと玄関へ歩いていき、突っ掛けを履く。そして、背を向けたまま、手のひらを肩に置き、出て行く側だが、早苗を見送るかのように、こう落とした。
「今度は、善人の早苗を、連れてこいよ」
玄関が開き、光が差し込む。逆光の中、トキは最後に、囁くように言い残した。
「――鳥子は、待ってるぞ」
美登理と早苗の間に架かる橋。ほんの少しの緩みは出たが、尚、しっかりと繋がっている。
そこからさらに、緩めていくか、握り返すか。
早苗自身が、これから見極めていかなくてはならない。
美登理は、ただ、強く握り締めるだけ――