9-3
「お人好しめ」
トキはそう呟き、やれやれと云った面持ちで、現場へ向かった。
見回りの教員が居ることを教えられていたため、その動きは何とも怪しいものだった。木造のウサギ小屋から10mほど離れた木の陰に隠れ、ひっそりと窺う。その前に、目からの情報よりも早く、音が先に耳を介した。
その音は、生々しかった。
肉を刻む音。骨を押し切る音。
ザシュッ――
パタパタ、ポタポタと寝藁に垂れて鳴る、重みのある水音。
トキの背筋に悪寒が走る。居た堪れない思いが募り、下唇が僅かに噛まれた。ウサギでよかったと残酷ながらも思ってしまう。こんな沈痛を招く音の中に、悲鳴でも聞こえようものなら、この身を裂いてでも、犯人を止めに行きたくなってしまう。
トキは木の陰から犯人を視界に入れる。
暗くてよく見えないが、犯人はウサギ小屋の網を破り、中のウサギを裁縫バサミで切り刻んでいた。
人と云うのは、ここまで残酷になれるモノなのかと、トキは思った。
行為としては、人殺し、虐殺よりも軽いモノかもしれない。が、その現場、その現行を見る者の目には、在り得ぬ光景、あまりに劣悪で、あまりに非道な行為に映る。
遠目から、画面越しに、噂、耳にしただけ。
そんなモノでは、単なる悲哀や同情という感情しか芽生えない。
目の前にすれば、必ずと言ってよいほど、憤りが、焦りが、息の詰まるような嘆きが、奥底に眠っている心の中から、飛び出してくるのだ。
トキは青ざめた顔つきで目を細める。まだ夜目が利かぬ状態。ほとんど影のような、シルエットでしか目に映らない。が、ある特徴的なものが、トキの目を強制的に開かせた。
(……おさげ?)
トキの表情から、信じられないと全面に出た。
まさか、まさかと、切迫した心から捻り出される。
その時、スーっと視界が晴れたように、周りのモノが見え始めた。
トキの考えを全て裏切り、夜目が利きはじめた目が、真実を捉える。
「………っ」
そこには、不気味な笑みを浮かべ、ウサギを狂喜交じりに刻む、今市 早苗の姿があった。
ダラリと、トキの全身から力が抜けた。一瞬だけ、宙に浮く感覚に見舞われる。首がうまく据わらない。視界が揺らぐ。心臓部に、熱いようで冷たいような膜が張られる。
学校で起きた早苗を中心としたイジメは、単なるイジメではなかった。
言うなれば非難。糾弾を迫るようなものだったのだ。
イジメを行なっている者が、この事実を知っているのかは甚だ疑問のあることだが、対象としては、何も間違いではなかった。早苗本人が、ウサギ殺害の犯人なのだから。
間違っていたのは、美登理の方。庇い立てをした、美登理の方。
友人がイジメを受けているのが許せなかった。そんな人間ではないと信じていた。だが、この現実は、あまりにも、残酷極まりない。
顔面蒼白になる、トキ。奥歯が欠けるのではないかと思うほど、噛み締められていた。そんな時。
「何をしている!」
という、大音声が学校の敷地内全土に響き渡った。
「……!!」
突然の怒号に、トキの全身の毛が逆立つように反応した。
加速した心臓の鼓動を鎮め、慌てず、そっと木陰から状況を把握する。
発したのは見回りの教員で、早苗はそれを合図としたように、走っていっていた。
トキは早苗の後ろ姿を見て、何故、何故、どうしてと、訴えかけるように目を細めた。
「待て!」
教員は、潜んでいるトキに気付くことなく、早苗の後を追っていった。
足音が完全に途絶えたのを機に、トキは木陰から身を出し、ウサギ小屋に近づいた。
前にして、表情は芳しくないものになる。
ウサギの死体。ざっと3羽。
一羽は首をハサミで刺され、血を噴出しきり、息絶えていた。一羽は、両足を切断され、出血多量で死していた。一羽は、先程まで卑劣を受けていた身で、両耳を切られ、腹を抉られていて、ひっそりと内臓らしきものが腹部から窺える。
手足の先が、ピリピリと痺れだす。腹部にずんとした圧迫感が込み上げる。
「何故……こんなことを……」
あまりに酷い始末。
何の罪も持たない生き物を、残虐行為を以って殺害するなど、どのような意味があるのか。
「……」
しかし、それはいくら考えようとも、辿り着けぬ範疇のことであった。
生き方、思想、そういうものが別個の存在。トキにはない、回路を内包している者。同じ思考に、到達など出来るわけがない。
直接、本人に尋ねる他ない。
(……この事を、鳥子に告げるべきか…否か……)
そう思った次に、新たな疑問が浮上する。
(いや、待て。何故だ。何故、早苗は鳶渡を……)
その疑問は、恐らく最も扱いに困る代物。
何故、早苗は鳶渡を、――〝受け入れた〝のか。
鳶渡の説明を一頻り終えているのならば、解るはず。トキに己の姿を見られることを。この程度の予想など、容易に出来るはず。しかし、では何故、己が犯人だと、わざわざ公言するような真似をしたのか。
損はあるが、得をする部分など見当たらない。
美登理に勧められたから。――そんなモノ、信じられないと断れば済むこと。
受け入れた真意を、トキはこう考えた。いや、こう考える他に、何も思いつかなかった。
(俺が鳥子に、この真相を告げないと、〝核心〝していたから……?)
つまるところ、幾ら見られようとも、その事を誰かに話さなければ、それは闇のまま。
この闇を作るべき人間は、トキ。
トキが美登理に事のあらましを告げなければ、事態は何も進展しない。早苗に、損得すら発生しないのである。
トキは片奥歯を噛み締め、「なるほど…」と卑屈的に呟いた。
親友である者の残虐行為を、受け入れられる人間など、僅かな数。美登理は、確実を以って、受け入れられない側の人間。
トキは胸糞悪いと、大きな溜息の中で思った。
「安請け合いしちまったな。もし告げたとして、鳥子は耐えられるか……」
脳裏に浮かぶ、ベッドの上で、生命維持装置に命を委ねた有様の美登理の姿。
「……」
トキの目が希薄化する。更に、思い浮かべる。これまでの美登理の事を。
「………………」
目に、光が宿る。
トキは目を瞑り、そっと前頭部と後頭部に手を当てた。
――――――――
帰化したトキの目に、一番に飛び込んできたのは、期待に胸を膨らませた表情をした、美登理であった。
「どうだった!?」
帰還した者への挨拶もなく、美登理は畳みに正座をし、その両太腿に手を突き、ずいっと前のめりになった体勢で、足早に問い掛けてきた。トキは応えることなく、スッと早苗に視点を移動させる。
焦眉の急という顔つきをしているかと思っていたが、その表情は何とも涼しげであった。肝が据わっている。とトキは思う。
「ど、どうでした?」
早苗は顔を変え、怯えた表情を作った。芝居がかった声掛けに、目が細まる。
トキは何も言うことなく、畳の上に座した。
「……」
ポケットに手を入れ、煙草を取り出そうとするが、息を一つして、止める事にする。
「……?」
美登理の眉が顰まる。何故黙ったままなのか、不思議で仕方がなかった。
「ねぇ、誰が犯人だったの?」
「……」
「あ、そっか。誰って言われても名前、分からないもんね」
美登理はそーだったそーだったと納得したように頭を小刻みに上下させる。早苗の口元の線が、僅かに広がる。そして、平然と口を開く。
「犯人が私たちの学校の人だとしたら、全校生徒の顔写真を見てもらわないといけないね」
「生徒会になら写真つきの名簿とかあるかもねー」
「美登理ちゃん……生徒会に知り合いいるの?」
「うーん…いない!」
談笑を始めた二人。その間に、決定的な溝があることも知らず、美登理は気を許している。そして、早苗はそれを利用している。
――表面に出ることのない、歪んだ関係。
――少し突けば、酷く壊れやすい関係。
――壊れてしまえば、復元の困難な関係。
それでも――
「なぁ」
トキは、見るに耐えることが、出来なかった。
美登理がキョトンとした顔で。早苗が、頬に一筋の汗を垂らして。振り向く。
「やめねぇか。その、諂った演技はよ」
真剣身を帯びた声を聞いた早苗の瞳が、凝縮していく。