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鳶渡の時  作者: 春日戸
第捌話【魂の床】
36/44

8-4

 病院に向かう道すがら、翔平は語った。


 母親の麻衣子が、一緒にお風呂に入ってくれなかったこと。

 プールや海に連れて行ってくれなかったこと。

 身体を見せることを極端に嫌い、自分から距離を置いていることを。


『分かってるんだ。母さんが僕を傷付けたくないから、見せないように気を使ってることはさ』


 トキは溜め息混じりに言う。


「……言っとくがな、逆子ってのはどうしようもない現象なんだぞ」


『それも分かってる。でも、僕が母さんを傷付けたのは事実でしょ』


「そういう捉え方は、あまりにも乱暴すぎるぞ」


 翔平は頭を横に振るった。


『そんなことないよ。母さんの暗い顔は何度も見てるんだ』


 物悲しく目が地面を捉える。トキは目を閉じて顔を上げた。


「じゃ……お前は恨まれて当然だと思ってんな」


『恨むまではいかないと思うけど、憎いとは思ってそう』


 暗い声。認めるのが、怖いといっているよう。


「……そか。なら、見に行くのは良いことかもな」


 嫌々ながらに進んでいた気持ちが、翔平と同調する。


『僕の罪が無くなっている世界だもんね』


「んなこと言っちゃいねぇよ。子を産んだ母親の顔を見るのが良いことだと言ってんのさ」


 少し棘のある言葉に、翔平は俯いた。


『……分からない。お兄さんの記憶にあるお母さんは……』


 言い切る前に口や喉の感覚がトキに奪い返された。


「だから…! その記憶に入るんじゃねぇよ」


 怒気と共に放たれ、翔平は驚いた表情になると、細く謝罪した。


『……ごめんなさい』


「三度目は本気で怒るぞ」


 トキは肩を上下させ、不満の息を豪快に鼻から噴出した。すると、トキの表情はムッとした顔になった。


『でも、仕方ないじゃん。お兄さんの記憶の中で、一番強く残ってるんだもん』


 翔平の言い分に、トキは諦めたように軽い息を吐いた。


「……分かった。視るのは勝手にしろ。ただ、その話を口に出すな」


 それはまるで、自分の口から言わせるなと云っているようなものであった。

 翔平は萎縮したように、目を伏せ、口を尖らせた。


『……気をつけるよ』


「…いくぞ」


 トキの身体は、いつの間にか病院の前まで着ていた。



『そういえば、お母さんの部屋の場所、知ってるの?』


 自動ドアを抜けると、翔平はトキにそう尋ねた。しかし、脳を共有している時点で、その回答は分かりきっていることである。


「分からんから、ちと、信濃の名前を出す」


 そう答えられ、翔平は脳内に探りを入れた。


『なるほど』


 相槌が打たれる。


「あいつは、長時間を遡れるが、ズレが酷い。最高で3日もズレるっつーんだからな。手前だと事が済んじまった後ってことはザラだ。だから、アイツはわざと更に奥へと飛ぶ。そのため、事が起こるまでに余暇が出来ちまう。その時間をあいつは、町をブラついたりして潰してるせいか、幅利きでな」


『鳶人の事は記憶に残るもんね』


「そう。そして、この病院の医師にも顔が利くようだ」


『シズクさんが、信濃さんがお母さんに逆子のことを教えたって言ってるね。先生にもその事を告げたみたいだし』


「なかなか、手馴れてきたな」


 トキは翔平の順応の早さに感心した。


『深い記憶はまだ難しいけどね』


「ま、あんまり視ないようにすることだな。ろくでもないモンが色々ある」


『真っ黒な記憶みたいなの?』


「ん……其れもあるな」


 その記憶は、トキが黒穴へと落ちた時のものであった。あまり好んで思い出そうとはしないため、妙な空気が流れた。トキは頬を掻いて、受付に足を運んだ。



 信濃の名を出すと、受付の者は愛宕 麻衣子の病室を快く教えてくれた。何でも、信濃が逆子運動を提案してくれたおかげで、帝王切開という手段を使わずに済んだという。

 子は無事に出産され、元気に産声を上げたようだ。


 トキは、麻衣子の病室の前に居た。


「どうする? 信濃の知り合いだと言えば、面会として入れるが」


『……見るだけで、いいや』


「こんなところまで来て、怯えんなよ」


『怯えてないよ』


 顔を逸らす翔平に対し、トキはニッと悪く頬を持ち上げ、ドアの引き手に手を掛けようとする。が、寸でのところでピタリと動きが止まる。翔平に抵抗されているようだ。


「おい。見るだけじゃ何も分からんだろ」


『見るだけでいいって言ってたじゃないか!』


「見に行くのは、とは言ったが、見るだけとは言ってねーよ」


『それは屁理屈だよ』


「お前もだろ」


『これは僕の問題だから、僕の自由にさせてよ!』


 反発しあう身体の動きの一つが、抵抗をやめた。


「……ま、一理あるな」


 トキは納得し、翔平に自由を与える。ふーっと安堵の息が漏れる。


「しかし、何故会いたくないんだ?」


『話をするのが嫌だから』


「なんでだよ?」


『だって、僕であって、僕じゃないもん』


 魂や意思は自分であっても、この身体は無代 トキという男のもの。麻衣子から見れば、赤の他人。超えることの出来ない隔たりが存在する。そんな壁越しに、肉親であり、血の繋がった家族の者が会話をするのは、精神的な苦痛に他ならない。


 いつもならば、感じない。

 いつもでないから、感じられる。

 ハッキリとした、隔たり。

 拒絶に似た、壁。


 そんな折。


――――――――


 トキの中に、ある強烈な言葉が過ぎった。

 一瞬だけ目が見開かれ、直ぐに戻る。


「……そうか」


 呟いたトキは、「すまんな」ともう一つ落とした。


「じゃ、覗き見する感じでいいか?」


『うん』


 トキはゆっくりと退き手に振れ、そろりと扉を引く。顔の半分、片目だけで中を視認する。

 そこに居たのは、幸せに満ちた笑顔で我が子を抱く、麻衣子の姿。


 微笑ましい光景に、トキは口の線を広げた。が、バッと顔が勢いよく逸れた。首の付け根辺りから軋む音が鳴る。


「……なんだよ」


 トキは痛みの走る場所を擦った。


『ごめん…何か驚いちゃって』


 翔平は挙動不審のように、そわそわとしていた。それは何処か、恥ずかしそうに見える。


「嬉しいのか」


 トキはその心中を的確に読み取った。翔平は目を丸くさせた後、ゆっくり、小さく微笑んだ。


『…うん。でも、ちょっと哀しいかな』


「なんでだよ」


『前のお母さんは――…』


 翔平が目を伏せつつ、言い切る前に。


「――してたさ」


 と、トキが口の感覚を奪い、そう放った。

 その言葉に、翔平は震えた。指先が、肩が、顎が、そして、視界が。震えた。揺らいだ。


『そう…かな』


 込み上げてくるものを抑え付け、堪えたような声から発せられた問いに、トキはニッと笑った。


「当たり前だろ。今も昔も、同じように、麻衣子は――」


 ポトリと、涙が落ちた。



「笑ってただろう――」




 憎むべきものは何も無い。

 産まれて来てくれた。それだけで、幸せなのだ。

 たとえどんな形であろうと。望む子が、元気に泣き、元気に笑っている姿は、愛おしい。

 憎むべきものは何も無い。

 後ろめたさ。蟠り。呵責。

 そんな些細な事など、気にすることもなし。



 トキたちが病院から出ると、辺りは茜色に染まっていた。ふいに蒲公英の丘を見上げる。

 そこには、シズクが言っていた通り、一面が燃え盛っているのではないかと思える程、赤々しく、其れでいて美しい、火の粉が飛んでいた。


「すっげぇな」


 トキは驚いた顔で言った。


『そうかなー』


 見慣れている翔平は興味なさ気にそう呟いた。


「贅沢なやつだな」


 トキはそう言って煙草を取り出し、口に銜えて火を点した。煙を吸い込むと同時に、煙草を挟んでいる右手をあられもない方向に投げ出されるように激しく動いた。


『にっが! まっず! けむい!』


 苦味という刺激を介し、距離を置くために用いる条件反射。

 トキは目を細め、ひゅーっと放り出された煙草を眺めて、こう呟いた。


「そろそろ……帰るか。やっぱこの身体は餓鬼には合わんだろ」


『面白いけど、早く帰らないとだもんね』


「ま、もう少し居たいっていうんなら居てもいいが」


 まだ猶予はあると取れる言葉。楽しむなら今のうちだとトキは暗に告げた。しかし、翔平は「ううん」と首を横に振った。そして、蒲公英の丘を眺めながら、力強く言う。


『帰ろう。お母さんが心配してるだろうしさ』


 同じ眺めを共有しあった短い中。トキは翔平の成長を正に肌で感じ取った。


「……いい、答えだ」


 トキはポケットから薬籠を取り出し、霞魂を口の中に放り込んだ。



 これまで、トキの身体を介して体験した事柄を、翔平は一切合財、忘却することとなる。

 トキはその事を知っていた。勿論、身体を共有していた翔平も知っていた。

 しかし、共々、ある考えがあった。

 記憶上では忘れていて、思い出すことは到底不可能であったとしても。

 魂に刻まれた軌跡は、在り続けていくだろう――と。


 無事、帰還した翔平の魂は、とこについた。



*   *   *   *



 事を終え、シズクが運転する車の中で、トキは勘付き、至った。


「…鳶症に掛かったのは、ツバキ……か」


 ボソリと何かが聞こえ、シズクは「え?」とトキを見た。

 トキはドアに頬杖を付いていて、知らぬ顔で欠伸を一つした。



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