8-3
「さて、気を取り直して、真面目にするか」
トキはまだ違和感の残る腹を優しく撫でながら、居直りつつ、促した。
「舌は出さなくていいんだよね」
「おう」
トキはそうして美登理の前まで行く。
そして、壷を持つかのように美登理の側頭部辺りに両の手のひらを翳す。「ジッとしてろよ」
「う、うん」
トキは目を瞑り、両の手のひらの奥の奥、名状し難い圧のようなモノに神経を注ぐ。美登理は何をしているのか、眼球運動を駆使して捉えようとするが、変わったことは何も起こらない。疑問符を頭に浮かべ、前を見直すと、口の辺りに何かが浮いているのを発見する。
「あ」
その光景は、あまりに異質なモノだった。
何処からともなく薄い糸のようなものが絡まりあい、極小の繭となっているのだ。
「うし」
完了を告げる合図を置き、トキは手をゆっくりと引いていき、極小の繭を指先で摘まんだ。
「出来上がりだ」
自分の中から霞魂が現れた美登理は、ただただ唖然としていた。
「そんな驚くな。あん時食わせた霞魂を取り出しただけなんだからよ」
トキは薬籠の蓋を開けて、霞魂を入れると、ポケットに仕舞いこんだ。
シズクはその様を見て言った。
「トキも使えるようになっていたのね。その業」
「ん。まあ、探理の応用だからな。コツを掴めば簡単なもんだ」
「無代家は後継者に困らないわね」
「つっても、未だにジジイが山に霞魂作りにいってんだがな。ゲンが足に来るから止めろっていってんだが、これは自分の役目だと引かねーらしい。ホントに頑固ジジイだ」
トキはせせら笑った。
「元気な証拠じゃない」
「まあな。ま、何はともあれ、準備は出来た」
トキはそう言うと、拳を握り締め、改めて開いた。
「行ってくっかな」
翔平の前まで歩いていき、頭に手を近づける。そして額に触れる。
(確か、鳶螺は魂の存在する地点に通っていると言っていたな……)
静まり返った室内に、麻衣子の喉の鳴る音が伝わる。
「……成程」
トキは頬を持ち上げた。すると、身体がブレ、徐々に粒子へと様相を変えていった。繰り広げられる光景に、美登理は固唾を飲んだ。あの時と同じ。トキが七色の粒子となり、吸い込まれていくように、消えていく。
――鳶螺――
大量の情報が行き交う世界に浮遊しているトキは、精神を落ち着かせるために、深呼吸を何度も行う。目的地は7年前の世界。身体に掛かる負荷は尋常でない。おおよそ、4年を機に、鳶螺は抗体を作り始める。鳶人の身体を捻じ曲げるが如く、見えぬ圧のようなものに包み込まれるのだ。
「こんな長い距離を渡るのは久しぶりだな……」
トキはいつ襲ってくるのか判らない激痛に備え、身構えていた。他の介入の出来ない空間では面を繕う必要もなく、表情は怯えた犬のようであった。
恐ろしい、悍ましい。
身をもって体験してしまう、抗体との闘い。風邪のウイルス等が、薬によって消滅するのと近い感覚。
数分が経過し、トキの身体に変化が現れた。筋肉が、軋み始めた感覚が襲う。全身を何者かに掴まれ、徐々に力を入れられているよう。
歯を食いしばったトキは、気合を入れるべく、両頬を叩いた。
「ゥシッ…」
だが、左肩に鈍痛が。右手に締め上げられるような痛みが、走る。
「ぐっ…」
記憶の絵など見る余裕もなく、トキはそれらの苦痛に耐える。耐える。身体が悲鳴を上げるたびに、まだか、まだかと急ぐ。痛みに打ちひしがれ、身体が亀のように丸くなる。血管か、筋肉の繊維か、それらがまるで摘まれ、引き伸ばされているよう。
そして、身を粉にして、やっとの思いで鳶羅の終着点へ。やっと、光が差し込んできた。トキはその光を睨み据えながら、悪く笑みを作った。
目を閉じる。
瞼の裏が照らされる。
――――――
目を開く前に、トキの身体は仰向けに地面へ倒れた。大の字になって、平衡感覚が麻痺していることに気付く。息は絶え絶えしく、全身から発汗する様は、地獄からの生還者のようにさえ見える。
顔を横に倒すと、蒲公英が目に入った。現在の位置を知る上で欠かせない情報。今、蒲公英の丘にいる。
「……すまんな」
トキは下敷きになっている蒲公英に謝罪した。深く息を吸い、鼻孔に漂う香りを楽しんだ。トキは両手を柱に見立て、身体を起こした。
広がりを見せる一面の蒲公英。太陽に照らされ、生き生きとしている。立ち上がったトキは、辺りを見渡した。
「……」
傍らに居たのは、淡い青色をした、珠のような形の光であった。地面から90cmほど浮いている何とも不思議なそれは、見ているだけで魅了され、狂おしい程に欲したくなる。この世に在るとは思えぬほど、美しい姿であった。
「翔平か」
トキは直ぐにその正体を見破った。歩み寄り、その光を片手で救い上げる。
「何見てんだ? その姿じゃ、何も出来ないだろ」
話しかけても、光は無言を貫き通した。トキはほくそ笑む。
「仕方がない。俺の身体を貸してやろう。入りな」
促すと、光はゆっくりとトキの胸のほうへ進んでいき、まるで泡が弾けるかのように、接触すると破裂し、トキの中に取り込まれていった。
「どうだ? 声、出せるか?」
トキは自分に問うた。
『あ…あーあー』
そうすると、トキの口から声がする。まごうこと無き、トキの声そのもの。だが、中身は別。中身は翔平であった。二人の人格、魂が、一個の身体に滞在しているのだ。
『すごい。頭の中が別物だ』
瞳は恍惚に輝いていた。
「そりゃそうだろう。ま、使い勝手は悪いとは思うがね」
『うん。言葉を引き出そうとしても、上手く出せない。記憶の遡り方もちょっと曖昧』
翔平は人差し指を眉間に立てた。頭に妙な、ズクズクとした鈍い感覚が走っていた。
「身体の具合はどうだ?」
『目線が高い』
翔平は感想を述べると、トキの身体を動かし始めた。指先を、腕を、肘を、膝を、ありとあらゆる方向に稼動させる。
「うお…きもちわりぃなこれ」
意思とは関係なく動かされる自分の身体。まるで操り人形のよう。トキは掣肘される感覚に、引き攣った顔をする。
『記憶、何かすごい』
慣れ始めたのか、翔平はトキの記憶を探り始めた。
「何かってなんだよ」
『色んな出来事が、流れてる』
トキの目が据わる。「……例えば?」
『見てるだけでこっちも笑顔になる、すごい笑顔をするおばあちゃんとか』
トキはニッと笑みを出した。
「そりゃ、俺の宝物だ」
翔平は眼球を右斜めに動かす。
『でも、この、「あんたの笑顔は、まさに100万ドルの笑顔だ」ってゆーのは何?』
「……」
トキの頬が、徐々に赤くなっていく。「うるせぇ…」
『ねぇ、これは?』
好奇心から詮索を過剰にし出す翔平。
「ん?」
『この、黒猫を抱いてる子』
翔平の言葉により、トキの目が見開いた。
その記憶は、決して瑣末なものではない。とても大切なモノ。例えるなら、侵されることがあってはならぬ、他の介入を許してはいけない、聖域のような記憶であった。
トキは翔平に邪推しかけたが、考えを直ぐに改める。そして、静かに求める。
「翔平。その記憶には入るな。それはお前のような関係のない者が入っちゃいけねぇもんだ」
『……どうして?』
「訊かなくても、感じ取れるだろ」
トキはめんどくさそうにそう言うと、不満の息を一つ吐いた。眉を曲げる翔平であったが、愚鈍ではなかった。察知する。その記憶の持つ、【意味】を。
『…ごめんなさい』
謝りを入れられ、トキは頭を掻いた。
「いや、この状態じゃ仕方のないことだ。すまんな、気にすんな」
『鳶渡って……悲しいね』
「まあな…」
虚ろな目で、トキは丘の下に広がる町を一望した。ふわりと綿毛が飛んでいき、根を下ろす。向こうから見れば、雪でも降っているのではないかと思えるのだろうか。
少々の時間が流れ、翔平の意思により、拳が握られた。
『よし、行こう』
「ん。そうだな。帰るか」
早々に帰った方が、翔平の身の為である。恐らく、その記憶を抽出し、進めてきたのだと予測された。しかし、そうではなかった。
『違うよ。母さんに会いに行くんだ』
予想外の答えに、トキは静止する。頭が考えることを拒否しているようであった。
「は?」
『ずっと母さんのところに行こうって思ってたんだ。でも、魂だけじゃ動けなくてさ。これなら行けるよ』
そうして、トキの身体が勝手に動き、進んでいく。引っ張られる感覚に苛まれ、トキは少し焦る。
「おいおい…何しにいくんだよ」
トキは辟易からだるそうな顔をする。一方、翔平の意思により、眉は持ち上がる。
『お母さんのお腹の傷、治ってるんでしょ?』
「ん。まあ、そうだな」
『その姿を見たいんだよ』
真剣な声。しかし、トキは顔を顰めさせた。
「……? 帰ったらいつでも見れるだろ」
『うん。でも、そうしたら僕は、傷のあった時の母さんのこと、忘れちゃうでしょ』
「……」
すぐに、翔平の考えていることを、少し理解する。
自分のせいで、母親である麻衣子に、深い傷を負わせてしまったという罪悪感が、根付いているのだろう。仕方のない事だといえる出来事であるが、当事者にとってすれば、それは忘れてはならないことに違いない。
『――見たいんだ。今の眼で』
トキの身体は、病院に向かっていった。
『』が翔平の台詞です