8-1
雨の予報に打ち勝って、太陽が顔を見せる、カラッと晴れた日。
駆け足気味に産声を上げる夏の虫たちの声を聞きながら、トキは自室でグッタリと横になって、団扇で風を起こしていた。
「あっちぃなぁ。これならいっそ、雨でも降ってコンクリ冷やしてくれた方がまあしじゃねぇか」
時刻は正午を回った頃合。太陽が頂上へと辿り着く一歩手前。日照りが激しさを増す。うな垂れながらも身体を起こし、トキは冷蔵庫を開けて麦茶のペットボトルを取り出す。喉を鳴らして一気に飲み干す。
「っかーっ! こんな日は何にもしたくねぇなぁ」
喉に潤いを取り戻し、口元を拭う。
そんな時、玄関から音がする。
コンコン
「……」
トキは黙ってそれを聞き入れ、ポリポリと頬を掻いた。その表情は、芳しくないもの。次の音が鳴らぬことを祈っていた。だが、それは許されなかった。
コンコンコン
トキは愕然と頭に手を置いて、呻ったあと、「……はいよ」と応対する。すぐさま玄関扉は開き、人影がトキの部屋に伸びた。
「トキ、こんにちは」
入ってきたのは、トキにとっては見慣れた人物。鳶渡の力を他に紹介し、報酬を得ている人物。
「……シズクか」
シズクの装はいつも通りのスーツ姿で、暑くないのかとトキは心配する。が、シズクの表情は涼しげなものであった。
トキはペットボトルのラベルを剥がしながら、頼むように言う。
「悪いが今日は勘弁してくれねぇかな。こう暑くちゃやる気が起きん」
「そうは言ってられないわ」
シズクは参った顔をするトキの脇を通り、奥の居間に足をつき、座布団を取り出して座った。
トキはその姿を見て、顔の部位を中央に集めてしかめっ面をしつつ、ペットボトルをゴミ袋の中に放り投げた。
「少し、厄介なことになっているの」
トキが対面上に座ると、シズクはすぐに打ち明けた。トキは大腿に肘を付き、丸い姿勢で頬杖を付いてその手を丸めて顎を置く。
「依頼主がか?」
鳶渡が関連する事案と云うことは、最初から理解しているため、わざわざ1から訊くことはしない。飛ばし気味な会話だが、シズクは慣れたように顔を横に振った。
「依頼主の息子の方に問題があるの」
「……ほう、聞かせてもらおうか」
「先に踏まえておくことがあるから、そちらを先に言うわ」
トキの眉が顰まる。シズクは続ける。
「事の発端は、依頼主である、愛宕 麻衣子という女性が、鳶渡の依頼をしてきたことから始まるわ。依頼の内容はどうでも良いものに聞こえるかもしれないけれど、遡る時間が長かったため、信濃さんにお願いしたわ」
「依頼ってのはどんなものだったんだ?」
「現在、7歳になる息子さんを産んだ時。産み始めて気付いたようで、実は逆子で難産だったのよ。助産師は急遽帝王切開に切り替え、無事に息子さんは産まれたのだけれど。その時に出来た腹部の傷が、麻衣子さんにとってはとても辛いもののようで、それを無くして欲しいという依頼だったわ」
「腹の傷云々で1度きりの鳶渡を使うとは、大胆だな」
あまり分かりかねない使い方だとトキは言う。シズクは顔を崩さす冷静に、淡々と話す。
「…女にとっては癒えぬ傷として残るものよ。まあ、それでその依頼は上手く完遂することが出来たのだけれど、ある問題が起きたわ」
トキは丸めていた手を開いて顎を掴むように持ち、人差し指をピンと伸ばした。
「手術痕を無くすために別の出産形式を取ったとすれば、息子の方に何かしろの問題が発生する可能性はあるな」
「いえ、そういうことではなかったわ。信濃さんは気付かなかったようだけれど、その子、意識が戻らないの」
「意識が戻らない? どういうこった?」
「それを貴方に視て欲しいの」
トキは顎を隠していた手の位置を変え、口を隠すように持っていった。その中で考えを募らせる。
「……確かに、厄介なことになっているかもしれんな。いいだろう。案内してくれ」
シズクは無言で頷くと立ち上がる。
「場所はここから車で40分ほどにある赤見ヶ丘と云う町よ」
トキも立ち上がり、鞄を畳みの上に置くと開き、中を確認した後に、手に持った。
「うし。行くか」
「ええ」
シズクが先陣を切り、玄関を開ける。
すると、バッタリ出会った女の子。
「あ、シズクさん」
このアパートに居ても何ら疑問の沸かない人物。宮路 美登理が半袖短パンというラフな格好で財布を片手に立っていた。
「……こんにちは」
「ん。鳥子か」
トキは鍵を閉めながらにそう言った。
「どっかいくの?」
「ん。まあそうだな」
トキが鞄を一度揺らす。
「仕事よ。急を要するの」
シズクは冷めたように言い、ポケットから車の鍵を取り出した。逼迫した状況なのだと、訴えかけているようであった。
「そうなんですか…」
美登理は自分は用無しだと暗に言明されていることに気付き、一歩引く。しかし、トキはシズクの意向を無視し、「鳥子も着いて来るか?」と尋ねた。
シズクの口から静かに「また…」と漏れる。
燦々と降り注ぐ太陽の光の下、美登理は土のように乾いた笑みで、「いい」と否定の言葉を呟いた。負か、闇か、よろしくないモノの残滓が窺える言い方。
そんな姿に、トキは目を丸くした。そして、口の端を持ち上げる。
「遠慮すんな。今度のは近いからな」
そう言って、シズクに「な?」と清清しく求める。
シズクは見えぬように落胆の息を吐いた。
「……そうね」
美登理は視線を右往左往させると、一度だけ俯いてから、ギコチない笑顔で答えた。
「じゃあ、お邪魔させてもらいます」
3名を乗せた車は順調に進み、赤見ヶ丘に差し掛かった。
「わあ」
美登理が目を輝かせた。
映るのは、小高い丘一面に咲いた蒲公英の花。頂上を走るトキたちには、その丘の下にある町並が、まるで蒲公英の雪崩に飲まれているように見える。
「こりゃ、絶景だな」
トキは笑い零れる。
シズクは二人を見て、こう説明する。
「丁度、この時期が一番の見頃ね。赤見ヶ丘の由来とされる現象の一つ。夕方に差し掛かると、一面の蒲公英が赤く染まり、綿毛がまるで火の粉のように飛び交うのよ」
「ほぉ。そりゃ、是非とも見て見たいな。しかし、蒲公英つったら3月から5月くらいまでしか見れないんじゃないのか?」
「この町の土の性質が他と違うとか何とかという話は聞いたことがあるけれど、私はその道の人じゃないから、詳しくは分からないわ」
「そうか。いや、しかし絶景だな」
トキたちを乗せた車は回るように坂を下りていった。