7-3
ザッパーン
用を済ませたトキは、「まさかジジイが洋式を取り入れるとは……時代だねぇ」と呟きながら、煙草を取り出した。箱をトントンと叩き、飛び出した1本を口に挟もうとした中、前にいる人影に気付く。
「おう」
通せん坊をせんとばかりに中央に立つ男は、加室であった。
「旦那もトイレか?」
「いや、そういう訳じゃない」
加室は含んだ笑みを見せた。何やらいやな雰囲気がトキに流れる。
「ちょっと、話さねぇか?」
そういって親指で指されたのは縁側であった。トキは火の点いていない煙草を持った手で頭を少し掻くと、「ん」とだけ言い、縁側に腰を下ろした。
そしてライターを取り出し、火を点しつつ、加室に問い掛ける。
「話ってのは、無料タクシーのことで?」
「あー…まあ、それも訊こうか」
別の用件があると取れる言葉に、トキは怪しい目をしつつ煙草をふかす。
「あの件は、鳶渡を使わないといけない程、何かあったのか?」
「…まあ、結果的に使っただけであって、大それたモノじゃない」
「そうか。ならいい。正直、過去無しである俺らは改変の変化に気付くが、他は気付かないからな。無料タクシーの件は綺麗さっぱり耳に入らなくなったから、問題がないなら、もう関係ない」
「……じゃあ、旦那が俺に訊きたいことを訊こうか」
すぐに話を切り終え、移行する。駆け足気味な話題の変化に、加室は空を見上げるという間を空ける。
「トキ。お前、黒穴に入ったんだってな」
呟くように問われた内容に、トキは少々の固まりを経て、顔を逸らし、「ゲンか……」と舌打った。それから、諦めたかのように息を一つ置く。
「……随分、前の話だけどな」
「どうだったんだ?」
「旦那。今後入る予定があるなら、やめといた方がいい」
「入らねーよ。あんな得体の知れないモノの中になんてな。訊くのは好奇心からだ」
加室がそう言ってのけると、トキは前を向き、煙を深く吸い込む。そして、煙草の箱を取り出して、1本を加室に突きつけた。
「旦那も一本吸うかい?」
「……煙草くせーと女に嫌われるから、あんま吸わないようにしてんだがな」
「ははっ。無駄な努力ですな」
「うるせぇ」
加室は1本を摘まんだ。同時に、トキはライターに火を点した。
お互い、白く靡く煙の糸を天に伸ばしつつ、間を置いた。
そして、トキがおもむろに感慨深い表情で、話を始めた。
「……この世には多様な色がある。この煙も白と云う色がある。しかし、黒穴の中は、どういうワケか、何も無かった」
加室は眉を顰める。
「何も無い?」
「まあ、真は分からない。が、俺が見たのは、感じたのは、真っ暗闇を当てもなく落ち続けているということだけだった。あの中は、ただただ黒か、或いは闇で埋め尽くされていた。光が朧も無いあの空間には、恐怖を感じたね」
「本当に何も無かったのか?」
「……そうだな。何かあったとすれば、それは俺自身だった。視覚は機能を失い、自身の輪郭すらなぞれなくなった。次には、耳がおかしくなった。声を出そうにも、何も聞こえなかった。そして、触覚さえも、おかしくなった。まるでミミズが大量に身を這っているような、ざわざわとした感覚が襲ってきた。頭がおかしくなりそうだった」
闇が身を蝕み、まるで水位が上がってゆき、息が絶え絶えしくせんとばかりだったと、トキは言う。それは、闇の波に飲まれたようだという。そして、簡素な息をした。
「いや…、既に頭は、黒穴に入る時にはおかしくなってたのかもしれない」
トキは気がふれてたよ。と付け加え、自嘲するように笑みを浮かべた。
「……それでよく、戻ってこれたな」
「ま、全身全霊が危険だと騒ぎ出したからな」
トキの目は、虚ろなものになっていた。まるで何かを思い返し、悔いるよう。
ぽっかりと空いた、過去世界に存在する黒い穴。得も知れぬその中に、己から足を踏み入れるとすれば、どのような心中を抱くとするか。勇気か、好奇心か。そんな安いモノではない。悍ましいほどの闇夜に似た、心の穴が無ければならない。
加室は、恐る恐る口を開き、声を出した。
「……お前。何で入ったんだ?」
聞いてはいけないような内容に決して思えぬその問い。口にした加室は、頬に一つ、汗を垂らしていた。まるで、龍の逆鱗に触れるかのような、そんな緊張感が漂っていた。トキは眼球だけを動かして、加室を睨むように見てから、嘲笑った。
「そりゃ…求めてるモンが、そこにあるような気がしたから」
答えに、加室は目を細めた。
「……何も無くて、残念だったか?」
問われ、トキは煙草を縁側近くの適当な石に擦りつけ、火を消した。
「……残念だった。いや、でも、もしかしたら、俺が怯えなければ、その先に何かあったのかもしれない」
「トキ」
加室が強く発すると、トキは「ああ」と言う。そして、立ち上がる。
「もう、入らんよ」
歩いていくその背を見て、加室は鼻から不満の息を出した。ボリボリと髪を無造作に掻き毟り、「トキ」と呼び止める。
「ん?」
振り返ったトキは、既に普段通りの空気を纏っていた。
加室は訊く。
「その髪。黒穴に入った恐怖でそんな色になったのか?」
立ち止まったトキは、ゆっくりと顔を前へ向きなおし、手をパタパタと気だるそうに振るう。
「さーね。どうだか」
あしらい、廊下を突き進んでいくトキを、加室は止めず、大きな鼻息を漏らした。そして、煙草を一吸いし、煙と共に、言葉を吐いた。
「まだ……想ってんのか」
空しく煙が宙を舞う。
トキは、加室の視界から消えて間もなく、前髪を一束摘まんで伸ばし、視界に入れつつ、こう漏らした。
「……ファッション……なんだけどな…」
うーん…。と悩ましい顔をしつつ、トキは皆の集まる場所へと戻っていった。