6-4
最短距離を駆け抜け、早々と千代の居る病院へ辿り着いた両名は、個室の扉を引いた。
トキの目に最初に飛び込んできたのは、ある人物とよく似た雰囲気を纏う、一人の女の子だった。ベッドの上で身体を起こし、ただ漫然と一点を見つめている姿は、風前の灯という言葉が思考の中で先行する。
トキの目には、重なるように、望む死を迎えた老女が見えていた。悲観に暮れた者――。目が細まる。
音に気付いた千代は、我に返ったように目を開かせ、すぐに表情を作り変えた。それは誰もが察することの出来る、繕った笑みだった。
「おじーちゃん」
と明るい声で呼ばれ、ズキン――と、卓臣の胸が痛みを訴えた。
悲しみを消すことは、出来なくはない。ただ、その方法は千差万別であり、適切な薬を見つけるのは困窮を極めること。
卓臣がしていることは、千代にとって救いではあったが、良薬ではなかった。それは薄々勘付いていたこと。どんなに楽しませようとも、全てはその場しのぎと云うに等しい些事なこと。
卓臣は思う。
(やはり…わしでは役不足なのか……)
子どもにとって、最も傍に居て欲しい者とは誰なのか。多かれ少なかれ、母親が一番を占めるだろう。
しかし、千代の母親は仕事の疲れやストレスのせいで、愛情が徐々に希薄化している。状態としては、既に卓臣よりも役がない。だが、子は求めてしまう。卓臣の枯れた手に、役は務まらない。
「おじーちゃん。その人、誰なの?」
千代は頭を倒した。彼女に出来る精一杯の身振りである。
「あ…ああ。無代 トキさんじゃ。え…っと、何と言えばいいのか…」
回答に困った卓臣は、当事者に救いを求める。トキは頬をポリポリと掻いた。
「ん。まあ、千代の病気を治しにきた、手品師かね」
「え…?」
千代の目が丸くなった。
「治る…の?」
疑問に満ちた表情。卓臣は千代と同じようにトキを見る。そして放たれる。
「ああ。治る」
躊躇なく断言され、聞き入れた者に名状し難い想いが募る。トキは千代の傍まで歩み寄り、丸椅子を引いて腰を下ろした。
「だが、一つ決めてもらわなきゃならんことがある」
トキの発言に、卓臣は駆け気味に近寄り、「何をですか…?」と問い掛けた。
「……先程も話した通り、鳶渡というのは過去を改変させ、現在に波及させる力だ。俺が千代の過去へ渡り、事故を回避したとすると、千代の身体は健康体になるだろう」
「なら、それで何の問題もないじゃないですか」
「ああ。千代にとってはな」
「……?」
卓臣に生まれる疑問。何が言いたいのか、察することが出来なかった。
トキは一つ息を吐く。
「あんたが面白い話を集め出したのは、千代がこの状態になったからだろ」
「……!」
気付く。そして、脳がくらりと揺れた感覚に見舞われる。
問題は、無料タクシーを使い、集めた話が、水泡に帰すこと。
卓臣にとって、もしもそれが特別なことだとすれば、――生き甲斐を一つ、失うことになる。
トキは病院に向かう中で、鳶渡の説明を終えている。
卓臣は、千代の身体が治ることが、何を意味するのかを理解した。
過去が改変され、健康体となった千代に、自分は何をするのか。その自問は、早急に導き出された。
――恐らく何もしないだろう。
人というものは、そういう生き物である。
事が起こってからでなければ、腰を上げないのだ。何故なら、どう動けばいいのか、分からないからだ。
そして、卓臣が導き出した答えは、どういったモノに変貌を遂げたのか。
千代の笑顔を、わしの声で、身振りで、話で咲かせるのは――
わしにとって、生き甲斐だった――
花が咲くほど、嬉しい、嬉しい。そういった感情が芽生え、芽生え――
人に欠かせない欲の中に、独占欲は確かにある。一個を手中に留めて置きたいその欲は、良くも悪くも、天秤のように傾くものである。
一個を手放す時、どのような感情に見舞われるのか。
一個に突き放された時、どのような感情に見舞われるのか。
一個を留めた結果が、どのようなモノを産み出すのか。
答えは、全て結果として回答される。そして、それを畏れる者は数知れない。
卓臣は拳を硬く握り締め、今のままが良いのかもしれないと、思っていた。それは千代を無視した、己の欲を押し通した考えであった。しかし、それでは本末転倒もよいところなのだ。
何故、卓臣が無料タクシーを走らせ、面白話を集めたのか。
千代に笑って欲しいからだ。
千代に、幸せになって欲しいからだ。
だったら――
「何を、迷うことがあるんじゃろうな」
いつの間にか、卓臣の拳は開かれていて、千代の頭を撫でていた。その手は震えていて、千代は直に、卓臣の胸中を察する。
「おじーちゃん……」
卓臣は微かに泣いていた。自分の汚い部分に、途轍もない嫌気が刺していた。妻が死に、その心の穴埋めに、孫を選び、独占しようとした。両親が参っている状況を利用した。だが、救いたかったのは、本心だ。
卓臣は目尻に溜まった悪行を潰すが如く、親指と人差し指で拭き取り、トキに確言する。
「これからわしは、千代の走り回る姿を見ることを、生き甲斐とする」
トキは当然のように、口の端を広げた。
「いい答えだな」
この答えは当然のこと。優しさに満ち満ちている者でなければ、人に笑顔を咲かせようなど、思わぬこと。そのために努力を惜しまぬ者が、幸せを踏みにじることなど、するはずもなし。
トキは続けて言う。
「……報酬について、どうするか決めなきゃな」
言葉に、卓臣の眉間にシワが寄る。
「報酬……?」
「不思議かな? 報酬は勿論頂戴する。人生を一つ買うような買い物だ。巨額か、それに見合う同等のモノを差し出してもらう」
「……ッ!」
放たれた言葉に、卓臣の顔から血の気が引く。考えてみれば、至極当然のこと。誰もタダで厄介ごとなどしようはずもない。善意溢れる医者でさえ、たかが診断に金を取る時代なのだ。治らぬ症状を完治させる力。それに見合う金。想像を逸していた。
「……わ、わしに払えるモノなら何でも払う」
重圧からか、卓臣の身体は震えていた。途中、千代に「おじーちゃん…そんな……」と止められるが、聞き入れることはしなかった。トキはその姿を見ても眉一つ動かさず、口だけを走らせる。
「何でも……ですか」
一拍置いて卓臣は、「……ああ」と答える。
「なら、先払いで頂戴したいものがある」
卓臣は生唾を飲んだ。
「……一体、それは」
トキの口の端は、悪びれたように持ち上がる。
「金で買えない貴重なもの――」
そして怯えた顔をする千代に優しい目を当て、求めた。卓臣だけが持つ、貴重なモノ。
改変されてしまえば、消えてしまうであろうモノ。
「――あんたが今まで聞き語ってきた、話をして欲しい」
笑顔の種。
「……え」
卓臣は唖然としていた。
「金で買えない話ってのは幾つもあるからな。この機会を逃す手はないだろ?」
トキはそう言い、ニッコリとした笑みを千代に向けた。
千代の凋落しきっていた顔は、パァっと明るいものになった。そして卓臣の方を向く。
「おじーちゃん。私も聞きたい!」
快活な言葉を機に、卓臣の目に澱みが交じる。微かを払った目尻から、溢れ出る涙に、頭は伏していった。片手で両目を押さえるものの、涙は垂れていく。鼻をすする音、そして震えた声が、病室内にしこたま響く。
「……ああ……ッ!」
袖で拭えど纏わりつくような涙の下、卓臣は震える唇を噛み締めて、頭を微細に揺らし振るって、力強く、言い放つ。
「存分に……聞かせよう……!」
* * * *
夕刻が疾うに過ぎた、夜の更けた病室の中で、扉の取っ手に指を掛け、トキは確認する。
「そういえば、代々木さんは麻雀って出来るか?」
涙で腫れて疲れた目をしている卓臣は、疑問に思いながらも答える。
「ええ……友人と余暇を潰すときによくやってますから……」
トキはニッと笑みを見せた。
「なら、二日後ぐらいに会いやしょう」
「え?」
卓臣が頭を傾けると共に、扉が閉まった。
千代は眠っていた。そして待ち望む。鳶渡により、改変された過去が、現在へ波及する頃を。
蛇足かと思い、本文には書きませんでしたが…
二日後、走り回る千代を眺めている卓臣の前にトキが現れ、麻雀に誘います。そしてその席で、受け継いだ話を卓臣や他2名にしてあげます。