6-3
「どっこらせ」
タクシーの後部座席に臀部を付いたトキは、気分の良い笑顔をした。卓臣は顔を横にしてチラリと窺う。
(闊達そうな若者……。良い話を持っているかもしれない)
邂逅を通じて話を訊く卓臣は、経験則から人物の第一印象を下に、その者の性格を中々に当てることが出来る。転じて、期待が膨らむ。
「何処まで行きましょうか」
「話には聞いている。面白い話をすれば無料で運んでくれるらしいね。とりあえずそこら辺を廻ってもらおうかな」
「目的地が不明なのは、ご遠慮願いたいですね…」
「ん。なら○○町に一条ケーキという美味いケーキ屋があるから、そこまで頼もうかな」
「……分かりました」
卓臣は渋々ながらも了解した。トキはそれを見て、考えを構築する。そして、おもむろにポケットに手を入れ、煙草の箱を取り出す。
「ちと、煙草吸ってもいいかな」
「あ…。あまり衣服に臭いをつけたくないので、控えてもらえると有り難いですね」
「ん。ならやめとくよ」
あっさりと聞き入れられ、卓臣に不信感が宿る。誠実な男。とは少し思い難い。何らかの裏があるのか、それとも単に郷に入っては郷に従う人間なのか。深いところは分からない。
一方で、トキの考えは進む。元々、この無料タクシーの実態を暴きたいがために動いたのだ。
独自の見解として、想定していたのは二つ。
本当に珍妙なことをしているだけの、変わり者か。
侃々な意志を持ってしての、何らかの目的のための布石か――の二つであった。
そして、たった二言三言のやり取りで、考えの中の前者は消え去った。
(何を目的としてるのか……)
ジッとトキが見つめる中で、卓臣は求む。
「お客さん。話に聞いているのでしたら、物が早いです。早速、愉快な話をしてください」
「ああ、そうだな。少しいいかな?」
「何でしょう?」
「俺は仕事柄、悲惨な話の方が多いんだが、そっちじゃダメかな」
物は試しとばかりにトキは提案を出すが、卓臣は迷いを塵も産まずに断りを入れる。
「お断りします。愉快な話を、してください」
「どうしてそんな話ばかり求めるんだ? 色んな種類の話の方が――」
「お客さん。私は面白い話を求めているのです。このタクシーはそういうタクシーなのです。それ以外、求めていないのです」
頑な。トキは脳内にその印象を強く植えつけた。そして、何故ここまで面白い話にこだわるのか。考えはドンドンと形を成していく。
「……そうか。面白ければどんな話でもいいのか?」
「ええ。実話でも、フィクションでも、童話でも、ファンタジーでも構いませんよ」
「少しカルト的な話になるが、それでもいいかな」
「…どのようなモノですか?」
問いに、トキの口の端が意味ありげに持ち上がる。
「鳶渡――という力を使った話でね。人の過去を改変し、現在を変える力なんだが」
「構いませんよ。タイムスリップ物ですね」
「なら、早速話をしよう。これは俺の実体験の話だが、名前を変えたい奴がいてな」
「実体験…って、まるで本当にそんな力が在るような言い方ですね」
「在るんだよ、これがね」
卓臣は自信満々にいう客に、居た堪れない顔をした。トキはそれに気付き、こいつ、アレな人とか思いやがったな。と勘繰りを入れた。
卓臣は呆れた息を小さく吐いた。
「お客さん、あまり人をからかうのはよくないですよ」
忠告に、トキは喉を小さく唸らした。
「そりゃそうだが、……本当にそんな力が存在したら、あんたはどうする?」
振りに、卓臣は千代の顔を思い出した。そして数拍を経て、口が動く。
「もしもそれが得られるのでしたら、欲しいですね。喉から手が出るほどに。……ですが、それは私に限ったことでなく、皆が思うことでしょう」
もの悲しさを隠し、平然と応えた卓臣に、トキはシコリを見た。
「まあ、そりゃそうだな」
そうして、ふいに顔を逸らし、外を眺めた。
些かな時間が流れ、卓臣が言う。
「あの、お客さん」
「ん?」
「面白い話をして欲しいのですが」
困った顔をされ、トキは思い出すように言う。
「ああ、そうだったな。でも、あんたは鳶渡のことを信じないんだろ?」
「証拠があるのでしたら信用しますが…」
当然ともいえる回答に、トキは頭を掻いた。
「これ。と言って出せるもんじゃないな」
「でしたら、別の話を」
何の根拠も証明するものも無いのであれば、信用を得ることは出来ない。トキは重い溜息を吐いた。そして小さく、「仕方がない」と呟き、さらに口を動かす。
「……お孫さんはどんな話が好きなんだ?」
「え?」
前を見なければならない卓臣だが、この時ばかりは驚き、後ろを振り向いた。
「おい、前向いてくれ」
トキは焦って指示を出し、卓臣は動揺を隠せないまま向き直す。
「……なぜ私に孫が居ると?」
「勝手な偏見と憶測だが、執拗に面白い話を求め、オカルト的、つまり怖い話を避け、そして煙草を嫌う。全体的に子どもに対する配慮だ。あんたの歳を考えると、孫が妥当なところだろ?」
「……」
言い当てられたことで、卓臣は二の句を告げることが出来なかった。トキは続ける。
「しかし、何故あんたがこんな事をしているのかが分からない。少し考えれば、タクシー会社から疎まれることなど明白なのに、無料タクシーを実行した理由が分からない」
トキは強行突破に出ていた。分からないまま話を進め、卓臣の一存に任せるという、他力本願。現状では何とも卓臣の概念を変えることは難しく、この方法を取るしかなかったともいえる。
卓臣はハンドルを強く握る。
「お客さんが初めてです。此処まで深く入り込んできたのは。皆、何故こんな事をしているのかと問うのですが、それは単なる興味本位にしか過ぎません。お客さんは、少し違うようですね」
「その違いが証拠にならんかな」
トキは明るい顔をした。卓臣の眉は顰まる。
「証拠?」
「鳶渡のだよ」
「まだ…そんなことを……」
反応に、トキは背もたれに背を預けた。それは残念そうに見え、失望したようにも見える。
「検討違いだったか…」
肩が上下するほどのため息と共に吐かれた言葉に、卓臣は疑問を抱く。
小首を向けられ、トキは胸の内を曝す。
「いや、てっきり、重体か、後遺症のある者のために努力しているのかと思っていたんだ。だが…あんたにとって、これは単なる余暇を持て余した結果に過ぎんのだな」
何ら繕わずに発したトキの落胆染みた言葉により、卓臣の手に、妙な力が入った。それは怒りとは別のもの。軽度の焦燥感。
「勝手に、落胆しないで下さい。私は、孫のために、孫の笑顔を守るために、やっているんです」
バックミラーに映る、覚悟を抱いた目には、力強さが溢れていた。尊敬の念すら生まれる卓臣の心意気。しかし、トキは棘のある言葉を敢えて選出し、追撃を加える。
「守りたい者を救うことはしないのか?」
「…救えるのなら、救いたいですよ。でもね。無理なんです。そう……無理なんですよ」
憔悴したくぐもった声が、か細くか細く。
「このタクシーの本質に沿わないが、訊かせてくれないか。あんたの話を」
「……孫の千代は……一生、背負っていかなければならないのです。千代は…脊髄を酷く損傷し、胴体全てが不随となったのです」
重度の脊髄損傷は、不治の病と同じく、完治することはない。人体の電気信号を司る神経の代わりとなるものが無いからだ。
そのため、千代は一生、人の手を煩わして生きていかなくてはならない。拒むことの出来ぬ、生きるための一方通行が、ただただ続いているのだ。
それがどれほどの絶望なのか、想像を逸する。
幼い子どもに背負いきれるものなのか。――答えは解らない。しかし結果は、時が経てば自ずと転がり落ちてくる。
トキの活眼に狂いは無かった。途轍もない真剣な眼差しが交差する車内に、「頼ってくれ」と囁き声が響く。「え?」と卓臣は聞き返した。
トキは渇望する。
「俺に、鳶渡に頼ってくれ。その子を救いたい気持ちがあるのなら、一握りの信用すら無くとも、頼ってみてくれ」
切実な願い。卓臣に疑問が生まれる。
――何故、この者は、赤の他人である自分に、こうまで親身になるのか。何故、救いたがるのか。
それはいくら推測しようにも、卓臣の前に解は現れない。
何故なら、トキは償いたかったから。
死してしまった、[唐櫃 由]の代わりとして、誰かを救いたかったのだ。
それは身勝手極まりない事。トキは十二分に理解をしている。が、こうでもしない限り、終始顔を覗かす、暗雲低迷な心を吹き払うことが、出来ないのだ。
もちろん、これは偽善行為に過ぎない。しかし、それこそ安寧を求める上で、欠かせないものなのである。
卓臣はハンドルを切って、曲がり角を曲がる。それは指定した場所に行くには、不必要な道筋である。
トキは瞼と眉を上げると、穏当な顔つきになった。
「いいのか……?」
最終確認。卓臣は諦めたようにほくそ笑み、くぐもった声で答える。
「信じてはいませんが、騙されてみます。あなたがそうまで仰る、鳶渡に、騙されてみます」
自ら詐欺の被害を助長するような、半ば自嘲した言葉に、トキは二・三笑った。
「腰、抜かすなよ」
「やってみろですよ」
両名に不適な笑みが、生まれた。
「鳶渡について、詳しい説明をしよう――」
無料タクシーは、千代の病院へと、場所を定めた。