6-1
雨の降り注ぐ夜空。最寄り駅が数キロという場所にある会社。ロクに金にもならない残業をした始末が、この天気予報の大はずれっぷり。
「タクシー…通らないかな」
会社の前の道路を見ながら、男は膝を折ってカバンに肘を置いた。
プップー
「ん?」
顔を伏せたと同時に、クラクションの音が響いた。男が前を向くと、そこにはタクシーが一台止まっていた。
助手席のウィンドウが開いて、奥から歳の取った声が通る。
「傘、持ってないんですか。どうです、乗りますか?」
進められ、男は「乗ります!」と清清しく言った。乗り込む前に、キロ単位の値段を見てみる。
「…?」
初乗り共に無料と書かれていた。怪しさが男の中で募る。
「無料?」
「ええ。無料です」
「代わりに命を! とか言います?」
「そんな物騒なことは言いません。ただ、代わりに話をしてもらいたいですね」
老人の言葉に、男の眉が顰まる。
「話?」
「ええ。愉快な話がいいですね――」
* * * *
その日の深夜の美登理のアパートは、珍しく賑わっていた。
104号室にだけ灯りが点いていて、ガヤガヤと小うるさい音の発生地を示していた。
中を覗けば、四人の男がコタツを四方に囲っていた。床にはビールの缶やチューハイの缶がゴロゴロと。灰皿は埋もれるほどに煙草が突き刺さっている。天板には緑色をしたシーツと、一摘み出きる大きさの麻雀牌がズラリと。それと中央に赤や黒の斑点のついた細長い白い点棒。彼らは麻雀を楽しんでいた。
「じゃ、リーチといきますかね」
トキは1000点棒を指先で摘まんで卓上に投げた。
それを見て、他3人が息を呑む。
現在トップは牧元という骨格の細い中年の男。次点にトキ。3位に比村という爪楊枝を噛んでいる中肉中背の男。下位に衣川という中年太りの象徴形の男がいる。
3人はトキの河をじっくりと見つめ、慎重に手牌から安牌を河に放っていく。しかし、トキが牌を掴むと、強打し、卓上に快音を鳴らした。
「ツモ! メンタンピン一発ツモで4000・2000ですな」
カーッ!と3人が嘆く。
「オーラスで逆転されっかー」
牧元は悔しそうに手牌を倒した。
「まさか引けるとは思ってなかった」
トキは謙遜しながらも、ちゃっかりと点棒を貪った。
ジャラジャラと勝負は再開され、場は進む。
南1局目となった時、順位はトキ、牧元、比村、衣川と、前回と似たようなものとなっていた。
「うーん、負けが込んできた……」
最下位の衣川は自分の持ち点(13000点)を見つめ、溜息を吐く。
「誰かおっちゃを元気付ける面白い話してぇな」
悪い流れを無理やり変えるべく、衣川は話を振る。爪楊枝を噛んでいる男、比村は思い至ったのか、口を開いた。
「そ~言えば、面白いかはさて置き、珍妙な話なら先日聞いたな~」
首位にいるトキは上機嫌に「ほぉ、聞かせてやれ聞かせてやれ」と促した。
「なんでも、無料タクシーってのがこの町のどっかに走ってるらしいんよ」
「無料? そりゃ景気がいいねー」
と衣川が笑いながら言った。
「タクシー会社のイベントか何かか?」
と牧元が言った。
「にしても無料はちょいとやりすぎじゃないか?」
とトキが言った。
比村はさらに補足を加える。
「そりゃ会社ぐるみで無料は無茶やわ。今のタクシー会社は危機に呈しているからね~。……個人タクシーらしいよ」
話に興味が湧き出したトキは、「しかし無料ってのは何かしろの裏があるのか?」と深いところを尋ねる。
「そういうことやわ。何でも、無料にする代わりに『面白い話』をして欲しい…だとよ」
比村は眉を吊り上げ、「暢気なもんだよ」と感想を一つ加えた。
「なっはっは。なんだそりゃ。話のネタ集めにけったいなモン走らせてんのかい」
牧元は大口を開いて笑い飛ばした。
トキは天板に頬杖を付き、「世の中には変わったことするモンが居るんだなぁ」と関心を深めた。
衣川は、「おっちゃの専属ドライバーになればええのに」と一言。
皆が笑った。そして口を揃えて、
「あんた面白い話、持ってないだろ」
と蛮声を浴びせた。
衣川は泣いた。そりゃもうシュンとした。そして打牌を比村に放銃された。顔に影が降りた。もう、持ち点は後1000点。諧謔を弄した男の末路はぶっ飛びしかないのか。
カチャリ
そんな中、ひっそりと開く玄関扉。皆が一斉に視点を移動させる。深夜の時間帯のせいか、妙な怖々しさに包み込まれる。
そこから姿を現す者。超が付くほど不機嫌な顔をした、大家、美登理であった。
「あんたたち、こんな夜更けに大声で何してんのよ!!」
騒音を優に超える美登理の大音声。4人は「うわぁ……」と嘆いた。
美登理はズカズカと上がり込みながら、
「ていうか何なのよこの部屋! 生活用品が何一つないじゃない!」
と、辺りを睨み回る。
トキは煙草に火を点して答える。
「ここは麻雀用の部屋だよ。俺が借りてる」
「はぁ? あんたの部屋は105号室でしょ」
「いや、鳥子。まさか部屋の管理表とか見てないのか?」
「まだ一度も」
えっへんと美登理は威張って腰に手を当てた。それを見た4人は「おいおい…」と口を揃えた。
「……俺は105号室と、その両隣を借りてんだよ」
トントンと灰皿に灰を落としつつ、話を補完する。
「106号室も?」
「ああ。理由は察しろ」
理由は言うまでもなく、鳶渡が関わっている。
「ふーん」
と、美登理は意を察し、簡素な相槌を打った。
「いや~しかし何とも可愛らしい大家だね~」
比村は美登理をまじまじと見つめ、頬を染めて下卑た笑い方をする。全面同意の牧元はうんうんと頷きながら、「確かにな。古谷のババアとは大違い。正に月とすっぽん。すっぽんと云ってもトイレ(ラバーカップ)の方だがな」と元大家、古谷に対し、罵声を浴びせた。
「良かったなー鳥子。ほらほら、サービスしなきゃだ。脱げ脱げ!」
と、酒によって陶酔しているトキは、下品に物事を言ってしまった。
その時の美登理の眼は印象的で、まるで生ゴミを見ているような、何の感情も伴っていない、恐ろしく沈んだものであった。
トキはしまった。と一瞬にして酒の気が抜ける。
美登理の表情は先ほどとは真逆の明るいものとなった。生き生きとしたそれは、激昂の彼方を一周した者が啓ける顔。
「いっぺん、死んでみる?」
衣川は無言のままトキへの手向けとして、胸の前で十字を切った。
「さー…って、仕切りなおしますか…」
頭頂部から湯気を上げるたん瘤の痛みに耐えながら、トキは麻雀を再開させた。他3人は気の毒そうな顔をしながら牌を混ぜる。が、玄関扉が豪快に開いた。
「うるさいつってんのよ! 私は明日も学校があるんだから!」
美登理はトキたちに剣突を食らわせ、バンッと扉を閉めた。
「……またにしますか」
トキはゆっくりとそう言い、3人は「それがいい」と同調した。
くしゃくしゃと灰皿に煙草を押し付けながら、トキは「そんじゃ、次は三日後にしやしょうか」と話を進める。そうすると衣川は思い出すように、「あー…その日はおっちゃ、用事があるなー」と答えた。
「きーやん(衣川の愛称)。また娘と会うんかい。ホント、未練がましいなー」
と比村が言った。
衣川は腕を組んで、口をへの字に曲げる。
「未練がましいやろうと、自分の娘ゆうんは大切なんや」
そう断言され、比村は頭を掻き、トキは口の端を持ち上げる。
「いいことじゃねぇか。生き甲斐があるってことは、それだけで力が溢れるからな」
「しっかし。面子が足りないぞ。どうするんだよ?」
牧元が言うと、トキはうーんと眉を寄せた。
「ん。シズク……でも呼ぶかな」
比村と牧元は顔を青ざめさせた。
「あの、鬼の娘か…」
4人は104号室を後にして、各々の部屋へと戻っていった。
トキは自室の中で煙草に火を点し、「無料タクシー…ねぇ」と呟いた。