5-4
清掃するに当たって、スーツでは動きにくい上に汚れが気になるという名目の下、シズクはそこら近所で見合った服を見繕ってくると公園を離れた。
一行は場所を変え、道路の側溝の掃除に取り掛かった。
娘の手を汚させまいと、宮路は張り切る。しかし、普段から行わない掃除に不慣れさは隠せず、作業速度は周りの者が苛立ちを覚えるほどに、遅々としたものだった。
だが、美登理はその姿を哀れだと思わない。
汗を垂らす姿に感じる思いは、まだ何とも言えぬモノだが、頑張れ。と応援したくなるものであった。
カチカチと空回りする火バサミの音を聞きながら、美登理はトキと話を始める。
「そういえば、シズクさんって悲しい過去があるのに、暗そうなイメージないよね」
トキはポリポリと側頭部を掻いた。
美登理にも悲しい過去がある。奇しくも、シズクと同じく、母親を亡くしている。美登理はその影響から、自殺を図った。そのような悲愴を背負う者からすれば、シズクは明るい印象に感じるようであった。
「…あいつは強い奴だからな」
乾いた笑みから発せられた言葉に、美登理は不信感を抱きつつ、鸚鵡返しをする。
「強いって?」
「さっき話したとおり、シズクは最初、無代家が預かっていた――」
――シズクは無代家の大広間で正座をし、前に座する荘厳且つ朴訥な老人を見据えていた。
老人の名は無代 カンゴ。
この時、歳は77を刻んでいた。白い髪に長く伸びた白い髭。シワは切りがない程に蔓延っており、顔や身体に肉や脂がなく、渇いたよう。枯れ木と称せられる老人であった。
カンゴはシズクを見て、嬉しそうにシワを上げた。
「堅くなさらんで良い。この家は今やそなたの家でもあるのじゃ。気を楽に過ごしなさい」
これは、母親の死去という壮絶な体験をした者への配慮である。だが、シズクはその優しさを受け入れなかった。
「私に、仕事を与えて下さい。家事でも雑用でも重労働でも、何でもします」
真剣な眼差しの中、深く深く頭を下げられ、カンゴは痛々しい目をする。そして数秒後、重苦しく、言いたくもない言葉を口にする。
「……トキ。何か、シズクにさせてやりなさい」
萎縮し、篭っているだけでは、気は紛れぬのかもしれない。そう、カンゴは一番にシズクを思いやる。
傍らで拝聴していたトキは、「分かった」と答え、シズクを連れて行った。
カンゴは髭を一撫でし、「強い娘じゃ……」と虚しく呟いた。
それからシズクは炊事洗濯、風呂掃除など、多くの仕事をこなしていき、さらにさらにと求めていった。汗を流さない日など無いまま、ひと月が流れた。
忙しない日々により、無理が祟ったのか、シズクは風邪を拗らせた。
カンゴやゲン、そしてトキが心配そうに布団に伏すシズクを見つめる。
「何故、こうなるまで無理をさせたんじゃ」
カンゴが言うと、ゲンが眉を吊り上げた。
「向こうからやりたいやりたい言ってくんだから、止められないだろ」
トキは苦しそうにするシズクを見ながら言う。
「まだ、俺らに対する接し方が解らないから、居場所を作るのに無理したんじゃないかな。何もせずより、何かしていた方が気は紛れるし、時間も潰せるから」
シズクは眠っているにも関わらず、涙声で、「ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい」と、何度も何度も繰り返した。
聞いていた者たちの胸に、酷い鈍痛が走る。
ゲンはシズクの額から熱気を帯びたタオルを取り、新しい濡れタオルを丁寧に乗せる。
「気にすんな。……気にすんな」
宥めても意味は無いだろう。そんな思いは募るが、ゲンの言葉は、カンゴやトキも思い至る、本心であった。
その後、半月が過ぎ、鉦代家の者が無代家を訪問し、提案を出した。
「我々のところで引き取らせて頂くのはどうでしょうか」
カンゴは頭を横に振る術を持っていなかった。この場に留まらせていても、シズクの肩の荷は何一つ落ちない。
そうして、シズクは鉦代家に引き取られた。が、ふた月後に、悪報が無代家に言い渡される。
それは、「一向に甘えてくれない」という、ある種の贅沢な悩み。
真面目で、要領よく働いてくれるのは有り難いが、いつも堅く、心を閉ざしている。もっと恣意的になって貰えないだろうか。やはり、悩みの種は、シズクの心。
誰もシズクを責めていない。寧ろ、シズク自身が己を傷付けているようであった。
そこでトキたちは気付いた。
シズクは女手一つで育てられた身の上。
母親に楽をさせたい気持ちを力に変え、家事をし、心配を掛けまいがために、甘えを捨て、強く生きてきたのではないかと。特に母親以外の者に対し、邪推してしまっているのが辛辣なところ。
原因は恐らく、別れた父親。そして、さらに、己自身。
鳶渡の力を知って、初めて自分が過去無しであることを知り、そのせいで母親は、間に合わなかったのだという局地的考えが、シズクを縛り付けていた。
能動的な考えの原動力は、深い深い悲しみ。しかし、屈しはしない。弱音も涙も零しはしない。
ただ強く。身を焼いてでもただ強く、シズクは在り続けようとする。
悲の波に飲み込まれ、怯懦を甘受するような生き方を、何としてでも許しはしない。
そんなシズクの確固たる意志。その跳ね返りが、他の【優しさ】を跳ね除けた。
――このままでは、シズクの身が持たない。
トキはそう察し、ある詞をシズクの前で落とした。
「お前、強く生きようとしてるけど、諦めちゃいないか? 鳶渡の使えぬ自分に出来ることは、雑用ぐらいだと。諦めてるだろ。本当に強く生きたいなら、もっと模索してみろ。過去無しだからこそ出来る、役目ってのを」
この詞は、模索の間くらい休めという意味と、本当に生きていきたいなら、己の手で生きてみろという意味が隠されていた。
シズクはそれらの意味を正確には読み取ることは出来なかったが、感銘を受けた。その通りだったからだ。いくら強く生きようとも、この生活は人の金によって成り得ているもの。
シズクは考えた。自分に出来ることを。
そうして幾年が経ち、出た答えは、【紹介人】。
「――斯して、今のシズクが出来上がった。今はもうあの頃が懐かしいくらいに自由に行動してる」
トキは過去を顧みながら、懐かしい表情をさせた。美登理はシズクの心の圧迫感を親身になって感じ取れるため、同情とは言わないまでも、親近感を抱く。それと尊敬を秘める。
「すごいなー…。恐ろしいくらい、強い女性」
両手全ての指先同士を合わせる。その円の間を、側溝の水の上を滑るアメンボが、ゆっくりと通過する。
「ま、ちょっと特殊な奴だな」
トキはそう言い、ニヤリと笑みを見せる。
「まあ、鳥子もそうだけどな」
「え?」
美登理は予想外な顔をする。トキは膝を伸ばし、ゴミ袋を肩に引っ提げて歩いていった。その姿を見つめ、「そうかなー…」と呟き、同じく立ち上がる。向かう先は、父親のもと。
「美登理、大量だぞ!」
少年のような笑顔を浮かべながらゴミ袋を開いて見せる宮路。中身は当然ゴミだらけ。ヘドロに塗れたペットボトルや空き缶など。
「なんてモンを嬉しそうに見せてんのよ」
倦厭した表情をしながらも、どこか楽しげな美登理。そんな関係の糸を築いた者は、口の端を持ち上げた。すると、前の方から、「お待たせ」と声を掛けられる。
「お」
声に気付いたトキは前を見る。そこに居るのは想像せずとも把握できる。
「シズ……」
名を呼ぼうとする間際、思考に割り込んできた、その姿。
日差しが強いわけでもないのに麦わら帽子にサングラス。口にはマスク。寒いわけでもないのに、首まで隠れる長袖に、二重につけた軍手。ズボンの裾は長靴の中に仕舞われ、手にはゴミ袋と火バサミとウェットティッシュの入った箱が持たれていた。
見れば見るほど怪しい姿。
「誰…だ?」
トキは後退りという警戒態勢を布く。
「あら? 私よ? シズク」
怪しい者は頭をコテンと愛嬌よく倒す。
それを目の当たりにする者の中に芽生える失望感。喪失感。
トキは片手を横に振り、衷心を伝える。
「いや、それはないわ~……」
カシャン…ゴトッ…パサ…
そんな音と共に、火バサミとウェットティッシュ箱とゴミ袋が、虚しく落ちた。