5-1
チュンチュンチュン
雀が囀る中、小うるさい音が、古ぼけながらも新築のような小さなアパートから木霊していた。
コンコンと鳴るはずの玄関扉は、その日は不機嫌なのか、ドンドンッ!と不躾な音であった。
トキは布団からもそりと顔を出して、携帯電話に手を伸ばす。
「……6時」
早朝の時間帯を一見し、瞼を閉じる。が、そんな夢の中へなど誘わさせんとばかりに、鍵の掛かっているはずの扉が勝手に開いた。
そしてピッキングの達人が侵入した。
トストスという足音がトキの耳に入り、瞼を開かせる。
「……あ?」
「早く起きなさい」
文句をいう前に放ったのは、このアパート全室の鍵を持つ者。アパートの大家、もとい美登里、もとい。
「鳥子……唐突すぎて、頭が回らん」
そう言いつつ、睡魔から距離を置いた者は、薄い膜がこべりついているような目を無理やり開く。
そうして捉えた美登里の姿。服装は、白い半袖のTシャツに、太股を隠す長さの黒の綿パンに、白のスニーカー。それと手には軍手。という、爽やかな言い方であればスポーティーな格好。地味な言い方であれば芋掘りにでもいくのかと思える格好であった。
「……?」
ますます理解の範疇外に追いやられるトキの思考。土足で畳の上に立っている傍若無人っぷりすら注意出来ずにいた。
「……何をしようって腹だ?」
「あん? その言い方だと、私が悪いことしようとしてるみたいじゃん」
美登里は不機嫌ときょとんとした顔を同時に行う。既に不法侵入しているのだが、そういう意識はないようだ。
トキは布団から身を離し、胡座を掻いた。
「こんな朝っぱっから何の用だ」
ボリボリと頭を掻いて問う。美登里はふふん。と不敵に鼻を鳴らす。
「善行をしにいこうじゃない」
「意味が分からん」
「ボランティアよ、ボランティア。今日はこの地域で清掃活動があるのよ」
勤しもうという意気込みは格好から感じ取れる。
トキは目を細めた。猜疑心の目だ。
「鳥子ってそんなキャラなのか…?」
「産まれた時から善人よ?」
美登里はニッコリした笑みを見せた。
「はっ…」
トキは鼻であしらった。 そうすると左腕の二の腕に『善人キック』と称された容赦の欠片も見当たらない蹴りが入れられ、布団に沈むことになった。
痛みに打ち拉がれているトキを、美登里は起こそうとする。
「さーさー、早く着替えてゴミ袋持って、必要なら軍手も上げる」
言いつつ手を取ろうと一歩近づく。すると突然、右足がガクンと下がった。
「きゃっ!」
美登里はバランスを崩し、そのままうつ伏せで倒れる。当然、正面に居たトキは下敷きとなり、布団の上に仰向けで倒れた。平面であるはずの畳の一部が凹んでいた。美登里は運悪くそこに足を嵌めてしまったのだ。
両名は偶発的な密着を強いられた。
「……」
トキは上に乗る美登里に対して、軽いなぁという印象を抱いただけ。
美登里はというと、心臓の鼓動が跳ね上がり、バクンバクンと音を鳴らしていた。身体の熱が全て頭部にこみ上げたのか、顔は耳まで真っ赤になっていた。
「~~~~ッ!?」
ふるふると瞳や指先が震え、頭が白紙となり、トキの胸板に顔を伏すことしか出来なくなっていた。
「…………なぁ」
と、時間にして約5秒経ってからトキが言った。
「ひ、ゃ! は……はい」
美登里は上擦った嬌声を出し、赤みがかった顔をトキに向けた。
トキは艶めしくなっている美登里を見ると、無意識に喉が鳴った。
美登里の容姿は可憐。それが鼻先10cm未満。男の中の雄が耐えるには厳しい状況。
潤んだ瞳。長く伸びた睫毛。憂いを含んだ唇。何より赤みを帯びた頬が、トキの思考を惑わし、抑制、タガを外そうとする。
「…………」
お互いの温度を感じる中、トキの左手が美登里を抱きしめようと伸びた。が、寸でのところでトキは拳を握り締め、己の意識を取り戻す。
「鳥子、重い」
トキはせせら笑った顔を浮かべてみせた。
「なっ……!」
ムードがぶち壊れたのを機に、美登里も我を戻し、すぐさまトキから離れた。
「わ、わわ、悪かったわね!」
それでも動揺は拭えず、隠すために美登里は振り向き、玄関へ駆けていった。
「す、すぐに出発するから、は、早くね!」
バンッと扉が閉まった。トキは深くため息をして片手を見つめる。
「…危うく犯罪者だった」
そう呟くと、目が伏せられた。妙な胸の靄があった。おどろおどろしいそれは、人の温もりを求めていたのかもしれない。トキはふいに窓から空を眺めた。間を置き、眉が顰まる。トキは肩で息をついて、服を着替え始めた。
ガチャリとトキは自室の鍵を閉めて、美登理と対面した。すると、一言。
「何であんた、いつも通りの格好なのよ」
「ん? 着慣れてるから…だな」
「汚れても知らないわよ?」
「まあ、また買えばいいさ」
「男の人ってそういうところ、無頓着よねー」
「心が大らかなんだよ」
トキは丸めた手で胸をポンポンと叩いた。
「あーすごいすごい」
美登理は呆れた顔をして先へ進んでいった。
徒歩15分ほどの時間を掛け、トキたちは公園に到着した。
公園は扇形をしており、広さはかなりのものであった。遊具が充実していて、ベンチも幾つも並んでいる。朝の光が街路樹の葉を照らし、白く綺麗な雰囲気を作り出していた。
早朝であるにも関わらず、ガヤガヤと賑わいを見せる公園内は、周りを見渡さずとも多くの人が目に付くほどに居た。この集団の特徴として、皆、歳を召していて、背や腰が低い。そして、それぞれゴミ袋や軍手、タオル、火バサミなどを装備していた。
トキは唖然としていた。
「結構、本格的にやる気だな……」
こういった活動に参加したことが無いためか、想像よりも規模が大きかったようだ。
チラチラと視線を泳がせるが、美登理以外に若者は見当たらない。
「鳥子だけか、若いのって」
トキの横に居る美登理は、口をへの字に曲げた。
「この年齢層ならあんたも若いでしょ」
美登理は小声で「あんたの歳、知らないけど」と付け加えたが、トキは聞いておらず「んー、まぁそうかもな。俺より歳低そうなの見当たらねーしな」とキョロキョロとしながら言った。
美登理は不機嫌に喉で小さく唸った。
その時、一人の老人が手を上げ、声を出した。
「皆様、お集まり下さい」
こぞって皆が振り向く。そして、鶴の一声の如く、老人の前に集ってゆく。
トキはそんな周りの反応に、「なんだ? あのじいさん」と美登理に率直な疑問を投げかけた。
「このボランティアの主導者よ。と言ってもみんな一般の人だから、ただの進行役だけどね」
「ほー。まぁ確かにたかがゴミ拾いに主導者なんていらないもんな」
「たかが……ね。そういうのに限ってポイ捨てするのよねー?」
美登理は胡乱な目つきでトキを見据える。すると、目を合わせようとせず、無言で老人の方へと歩いていった。その背に追撃する。
「まさか、煙草吸うくせに携帯灰皿持ってないの?」
トキはその言葉にピタリと止まり、口を尖らせた。
「イヤ、モッテ…マスヨ?」
目が泳いでいた。
「なんで片言なのよ」
美登理は分かりやすっと心中で落とした。
トキは後頭部を片手で弄り、「イヤー、ハッハ。今はもってきてないからなー」と恍けた面構えをした。
「苦しい言い訳ねー」
見透かされたような物言いに、トキは「ぐっ…」とまずい顔で片奥歯を噛んだ。
そんなやり取りをしつつ、老人の話に耳を傾ける。
「えー…それでは今から町の清掃活動を始めます。なるべく二人以上の組となって、分別の方、宜しくお願いします」
腰を折った老人に対して、トキは顎に親指を当てて感心していた。
「なるほどなー。二人のゴミ袋を可燃と不燃で分けて集めりゃ効率がいいもんな」
「人数が多いと資源ゴミ担当も加えられるから、人が多いのに越したことはないのよ」
得意げに語る美登理に、トキは不穏当な考えを募らせた。
「ん……時に鳥子よ。もしかしてだが、俺を誘ったのって…孤立するからか?」
二人以上の組。もしも単身で行った場合、必然的に余り者同士、他人同士の組み合わせとなる。トキは美登理がそれを避けるために自分を叩き起こし、いや、蹴り起こしたのかと疑った。
「……ほら、あんたこの前、どっか行こうって言ってたじゃない。そのどっかに連れてってあげたのよ」
美登理の言い分にトキは苦笑した。
「苦しい言い訳だなー」
ムッとした美登理はツンッと顔を逸らし、「そう思いたければ思ってればいいわ。後で改めることになるから」と息巻いた。
「どういう意味だよ?」
眉を曲げるトキに対して美登理は「さーさー、無駄話は置いといて、善行開始―」と完璧なまでに無視して、ゴミ袋を広げた。
* * * *
トキたちが清掃を始めた同刻、シズクは美登理のアパートの前にいた。服装や髪型など、以前とそのままで、やはり輝きは浮いている。
足は淀みなく105号室へと進んでいき、腕は躊躇なく玄関扉に振るわれる。
コンコン
コンコンコン
借主からの返事を待たずにドアノブに手を掛け、扉を開ける。が…
「あら……?」
玄関扉は枠から離れるのを拒んだ。ガチャガチャとドアノブを捻り、念には念の確認をする。
しかし、開かない。
「……まだ寝ているのかしら」
シズクは携帯を取り出し、時刻を確認する。7時半を回ったところだ。この時間ならまだ睡眠を堪能していても不思議ではない。なので、ノックを連打し、呼びかける。
「トキ。私よ」
しかし、一枚越しには何の音もすることはなかった。無言を突き通す105号室に、シズクはため息をする。
(出掛けているのかしら…)
納得いかぬまま、アパートに背を向けて歩き始める。
「折角、トキとフレッシュな朝食を摂ろうと思っていたのに……。何処に行ったのかしら」
アパートの敷地から出る間際に、己の言葉を機に、ある考えが過ぎる。
それを下に、頭と身体と疑念が、大家の部屋へと吸い寄せられた。
「まさか……ね」
シズクは「一応、一応」とぶつぶつ呟きながら、美登理の部屋の玄関扉を叩いた。