4-5
トス――
戸襖を閉めて廊下に出たトキは、一つの違和感を抱いた。
「何か……違う?」
しかし、出処が不明。単純な勘違いか、または錯覚なのか。それとも、感覚的に拾い上げただけで、意識として十分な材料が回収されていないのか。そのことは分からなかった。
やきもきした胸中のまま、トキは音のする方へ忍び足で向かっていく。
ふと目に入った窓の外は、庭のようであった。それもかなり広大。造りは日本庭園を意識した美しいものであった。しかし、影が多く降り注いでいた。丁度この屋敷の裏手に位置する野山と隣接していためか、林が光を遮っているのだ。トキは中々、味があっていいな。という感想を抱く。
そうして辿り着いた音のする部屋は、由の場所からそう離れた位置ではなかった。
「……! ……。――」
間接的な音の正体は話し声。トキは襖を少しだけ引く。目についたのは日本刀が鎮座されていること。ああ、ここか。と認識し、廊下を見渡し、誰か来ないかを警戒しつつ、耳を澄ます。
「……つまり、その鳶渡という力を持ってして、時間を遡り、改変が出来るというわけね」
淡白な声。言うまでもなく宵の声だった。そしてその話し相手は。
「はい。それと、鳶渡を使える者を一人、探し当てました」
あまり特徴のある声とは言えないが、嗄れ声に入る太い声は、年を召した男のものだということが分かる。男の声の者は言い終えると、カサリと紙のような音を鳴らした。
トキは小首を上げて音から、(資料か…)と連想する。
「鉦代 ノギクという女性です」
そう放たれた名前に、トキは頬を掻く反応を示した。
(初っ端にノギクか……ま、あいつは腕がいいからな)
「ここ、重要だわ。3歳になる娘がいるじゃない。これでは、納得してもらえると思えないわ」
意味は、娘を殺すことを鳶人が同意することの可能性。
トキは誰にも聞こえぬように舌打った。
(舐められたもんだ。例え、加室の旦那だろうと、信濃だろうと、ゲンや沁玖に頼もうと、頭を縦に振るやつなんざ居ねーよ)
そして、こんな早い段階から由を殺害する画策を起てていたことに、苛立ちを募らせる。
その瞬間。ゾクリと背筋に悪寒が走った。気のせいではなく、ビリビリと感じる負の悪寒。トキは何事かと辺りを見渡す。その時、窓の外を通過した目が、異常を捉える。木々の集まりから、影が多く出来ている庭。
その影とは別個の、あまりにどす黒い影が、〝居た〝。そしてその影から、漆黒の気炎が立ち昇っていた。
「……!?」
脳が認識、後、すぐにこの現象に見合った結論が導き出される。
影の形は円。黒穴。
黒穴は不合理を喰らうモノ。
鳶人が過去世界に居る状態は、過去の改変が完了していない状態である。由にはまだ改変の情報が行き渡っておらず、この現象の候補からは削除される。つまり、進行形で黒穴が感応しているというこの状況は、トキが不合理の対象と、【成り始めている】ということ。
即ち、由の鳶螺を渡ってきた者にだけ架せられること。
死した者には鳶螺が無い。それを渡ること。答えとして、不合理。
黒穴が気炎を迸っていること。
答えとして、現行世界での由が、死の際に追いやれていることを指す。
「あの…野郎! 馬鹿なことを……ッ!」
トキは小声ながらも怒声を上げ、すぐさま帰化を始めた。急がなければ、由が危うい。
ふと、宵の耳に、聞きなれぬ声が入った。
「……?」
宵は襖に視線を送る。
「どうかされましたか?」
年老いた男はその行動に疑問を抱く。宵は「いえ…気のせいかしら」と呟く。が、視線は動かなかった。数十秒の迷いを経て、立ち上がり、襖を引く。
廊下には誰もいない。
(やはり…気のせい?)
「宵様…? 誰かいるのですか?」
「いえ。誰もいないわ……少し、由の様子を見てくるわ」
宵は男の返事を待たず、歩いていった。
ス――
由の部屋の戸襖を引き、眼球だけを動かし、辺りを見回す。が、その中には由が一人、寝静まっているだけであった。
「……」
何も無い。という安堵を交えた次に、鼻孔が匂いを嗅ぎ付けた。
(土の匂いと、煙草の匂い?)
微かに香る、この部屋では嗅げない匂い。
「……誰か、居るの?」
そう問いかけるが、この新地の部屋では隠れる場所などない。あるといえば押入れぐらいだが、座布団や布団に圧迫されている中に入っても、息の根を上げるのはそう遅くない事。
トキの違和感。それは、檜独特の香りが、薄らいでいたこと。
木の特性として、強い匂いを放つ期間は約1年ほどである。湿気や光、埃などの要因により、木の匂いは膜を張った様に閉じ込められる。現行世界での〝最近〝に、由の部屋の建具を作り替えたとしたら、3年前の過去世界での建具は、木の匂いが封じられた状態になる。その中を、トキの放つ煙草の匂い、そして唐櫃家までの道中に土埃を掛けられた服の匂いが相俟って、この空間にあってはならぬ匂いを残してしまった。宵に疑心を生ませてしまった。
(庭師が入った…? いえ、あの男は煙草は吸わない。ただ草木のにおいを煙草と勘違いしただけなのかしら…それとも…)
宵はトキをまだ知らぬ状態。勝手な疑いを掛けられる者は、唐櫃家を疎ましく思う連中。
(由を見るために、誰かが侵入してきた…?)
考えに達すると、不満がポツリと顔を出した。
(それほどまでに、私たち(唐櫃家)を鬱憤の出汁にしたいのね)
宵は後ろ髪を指に絡ませ、グッと拳を握った。その時の眼は、光の閉じた、暗鬱の眼であった。得手勝手に、その瞳は由を捉える。全てを、由のせいに、するために。
「そう――、全てあなたが居なければ……ッ!」
檜の匂いが漂う中に、火の点った声と、喉が痞えたような苦しそうな声が、響いていた。
敷布団の上には、覆いかぶさるように二つの人間のシルエットあった。
上に乗る一つは下に居る一つに両手を伸ばし、力を込めていた。下に居るひとつは、抵抗をしようにも、片手が伸びるだけで、ほとんど無抵抗であった。
宵は、その両の手で、由の首を絞めていた。
分かりにくい女性の喉仏の感触が、直に手のひらに伝わっていた。喉に鈍痛を与えられ、空気を失う苦しみを与えられている由は、睡眠薬の効果のせいで、一種の麻痺状態。身体に力が入らず、嘔吐を催す刺激に耐えるだけであった。見開いている目の眼球が、ドンドンと上に行く。
ギュッ…ギュギュギュギュギュ
まるで首を千切らんとせんばかりに力を込める宵に、一切の容赦はない。
「かっ……ぎっぁ」
由の伸びていた右手も力を失い、パタリと布団に落ちていく。あと、一息。
娘の死を求む熱情の中、ふっと影が降りた。
パン――!
宵の片頬に、強烈な一撃が入った。
衝撃により、身体は横に倒れ、由の首から死神の両手は離れていった。
「この平手打ちの意味、分かるよな」
頬の痛みを手で押さえ、ピリピリとする感覚を実感している者は、眉を尖らせた。怒りの矛先は、目の前の男、トキ。
トキの形相は、一言で表すなら憤激。その様相は、宵の怒りとは比べ物にならぬ、まさに烈火の如く。
「分かりたく、ありません」
宵は、己の犯している醜行を認めようとはしない。トキは、宵の前に貫禄を背景にドスンと座り込んだ。
「由はもう、死にたいなどとは吐かない」
核心を持って放たれた言葉の意を、宵はまず否定した。
「え?」
「由は、お前に認めてもらうために、生きる」
トキの発言とほぼ同時期に、ズ――と、気味の悪い感覚が、空間を支配した。
トキはその変化を肌で感じ、感じれない宵はトキの発言に、信じられない顔をする。
過去が現在に波及する、鳶渡の時が、近づいている。
川を流れる水の如く、その流れは発生地点から地球を覆うように一気に広がる。
今からの世界は、由が死にたいと思う世界ではなく、由が生きたいと思う世界。
空気を入れ替えたかのように空気が轟き、鳶渡の力が、波及する。