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鳶渡の時  作者: 春日戸
第肆話【宵の涙】
17/44

4-3

 宵の要求は、鳶人にとっての禁じ手を意味していた。しかしトキはそのことには触れず、天井を漠然と眺める由を見た。


「…何故、手を貸す」


 そして睨みの効いた眼を宵に当てる。


「母親なら、ぶん殴ってでもその考えは否定するべきだろう」


 真っ当な言葉に対して、宵の表情はピクリとも動かなかった。そのまま由に視点を動かし、口を動かす。


「由が私に初めて頼みごとをしてきたのです。それを無下にすることはしたくありません」


 半ば諦めた物言い。そしてどこか嘲笑交じりの声。トキの奥歯が僅かに噛み締められる。


「死にたいことを受け入れるのが由を尊重することに繋げる考えが――」


 説き伏せようと発したが、言い切る前に、ポツリと一つの蚊の鳴く様な声が、トキの耳を劈いた。


「しに……た…い」


「……………!」


 バッと声がした方を向く。由が目に涙を募らせ、細く口を開いていた。その言葉は、善人を黙らせるに充分な力を持っていた。宵は眼球だけを動かし、由を見た後、トキに視線を送る。


「お分かり、頂けましたか」


 トキの目が細まっていく。そして胸中に考えを募らせる。


(由の本心で在るはずが無い)


 その考えは、宵による心の操作を意味する。己から死にたいと要求を漏らすように、心が操られている。非情。あまりに非情なこと。大方の見方であれば、これは催眠効果。自分は死するのが在り方だと、母親の手によって心が変えられている状態。断定は出来ないが、トキはその考えで推し進める。そうでなければ納得できなかった。


「……分からんね。俺には由の言葉が布で覆われているように聞こえる」


「まるで、私が仕向けた。と言いたそうですね」


「……」


「仮にそのようであったとして、由は何故、無代様に助けを求めないのでしょうか。死にたくなければそれ相応の言葉を紡ぐはずです」


 宵の言葉は、トキの考えの中では無意味に等しかった。何故なら催眠効果で死にたくないという欲求を封殺されているからだ。しかし、この考えはトキの勝手な空論。もしもこの考えを押さえ込むなら、導き出されるのは『由が死を望んでいること』になる。その時、脳内に瞬きに近い一枚の絵が流れた。それは病院のベッドで笑みを浮かべる一人の女性の絵であった。

 トキは勝手に脳の引き出しを荒らす感情に、〝別物だ〝と怒声を上げる。


「…死にたいというのにも、それ相応の要因…理由があるはずだ。それを確かめずせずして命を奪うなど、如何な状況だろうと呑む気になれん」


 一線を引くときに対し、宵は口を僅かに閉じると、平たく開いた。


「ご覧になって、判らないのですか」


 そう発せられ、トキの目が勝手に由へと向いていく。途中でそのことに気付くと、トキは宵を睨んだ。睨まれた者は静かに嘆息を漏らすと、視線をまじまじと交わした。


「無代様は、脳死状態の人間を、『ちゃんとした人間』だと言えますか」


 唐突な重い質問。冷淡な声がおぞましさを増長させる。


「何?」


「意識も感情も欲求もなく、ただただ生命を維持しているだけ。それは人間となり得るのでしょうか」


 トキは自身の思いの言葉を発しようとした。が、その前に宵が続けて放つ。


「各学会では、脳死を人の死と判定する動きも活発化されているのですよ。人ではないという判定が下るのです。由も同じような状態なのです。動くこともままならなければ、言葉も上手く紡げない。意識も感情も伴っているのかさえ分からない。果たして、それは人間と言えるのでしょうか」


 問い掛けに、トキは直ぐに回答する。


「人は人から産まれれば、人だ」


「有り触れた言葉ですね」


 厭きれた笑みが、宵に零れた。


「………」


 宵は続けて、「慮外ながらも申し述べます」と前振りを置き、口を走らせた。


「昔、昔のことですが、これは現代でも強く想われていること。母親になろう者なら必ず想うこと。健康体の子どもが欲しい。古来では多出産や奇形児などは、『化け物』と称され、暗黙の下、殺処分されていたのです。何故なら、化け物を産んだ人間も、化け物扱いされるためです」


『化け物』――その言葉が、トキの耳に入ると同時に、またしても脳内の引き出しが荒らされた。閃光のような速さで、映像が繰り広げられる。

 内容は断片的なものだった。

 道路の中央で呆然と黒猫を抱える小さな女の子の姿。あちらこちらから血を流し、傷だらけで担架に担ぎこまれる小さな女の子の姿。白い空間の中に現れた、無精髭を生やした中年の男の姿。そして、醜いものを見る眼差しで、大口を上げて声を荒げる一人の女性の姿。

 それらの映像が、3秒ほどだけ流れると、トキは我に返った。



「――……それと由と何か関連があるのか」


 ワナワナと身を震わせ、恐々な剣幕のトキ。だが、それを尻目に、宵は淡白に答える。


「言わせて頂いても、宜しいですか?」


 一向に引く気配を見せない宵は、どこまででも本心を走らせる気概であった。傍らに、実の娘である、由がいるのを、全く気にせず確言する。


「唐櫃家は江戸末期(幕末)から代を重ねた由緒ある家系にあります。その中に、由は在ってはならないのです」


「由を汚名だと云いたいのか」


「……私がこの子を産み、思ったことは一つ。『失敗した』。それだけです。皮相で固めた笑みも浮かべず、それだけを浮かべました。そして一個の失敗が、我々唐櫃家の肩身を狭めたのです」


 偏見や差別は、時を選ばず残忍である。

 田舎町で頭一つ、二つも飛び出る資産家である唐櫃家。疎ましく思う者は少なくなかった。そして、その娘が障害者という、彼らにすれば吉報となり得る情報は町中に急速に跋扈した。そして、噂が噂を呼び、唐櫃家は生温い視線を浴びることになった。副業として生計と成り得ていた農業も、『唐櫃の食い物を食えば奇形が産まれる』などと取り沙汰され、売れ行きは落ち込んだ。何の根拠も無い醜聞は、後から後から、それこそ時間が運んでくるように、衰えを知らずに増えていった。


「私は由に対して、常々『死ねばいいのに』と思って参りました。そして、やっと由の口から、死にたいと零れたのです」


 宵はそのはけ口として、由を選んだ。憎むべき対象として、世間ではなく、子である由を選んだ。


「子を愛する気が更々ないのか…ッ!」


 トキは大喝する。だが、目の前の鉄面皮には何の効果も為さない。恐ろしいまでに、表情は動かない。


「愛しますよ。走り回り、大声で笑い・泣き、我儘や蘊蓄うんちくを垂れてくれる、そんな普通の子どもでしたら、幾らでも愛しますよ」


 そしてトキに二の句を告げさせず、断言する。


「ですが、由は違います。だから、捨て置いて宜しい〝もの〝なのです」


 ギリッとトキの口から音が鳴った。そして座っていられなくなり、威圧を含み、立ち上がった。


「お前、人を何だと思っている!」


 宵はその行動にさえも何の反応を見せず、少し小首を上げて泰然な態度で言い放った。


「人ではございません。私が言っているのは〝物〝です」


「…………!」


 そこで、空気が死んだ。

 トキの悲痛が極まった。本当に、宵は由に、死んで欲しいのだと、否定していた心が、享受した。

 立ち上がっていた身体は静かに落ちていく。顔を覆うように右手を広げ、苦悶に満ちた顔を隠した。心臓が針で突かれたか如く、チクチクと痛み出した。痛みの根源は、傍らで死を待つ由を想う心。


 母親からの罵詈雑言。由の表情は変わらない。何を思っているの分からない。だが、死にたいと言うのだから、その心中は辛いはずなのだ。絶望を煩っているはずなのだ。

 トキは涙を流しはしなかったものの、奥歯は歯が欠けるのではないかと思えるほど噛み締められていた。哀しみ、同情という感情を超えた、悔しいという感情がのた打ち回っていた。そんな渦の中に、畳を這うように進む由の姿が浮かび上がり、さらに激しさを増していく。


(この娘は、由は――)


 そしてトキは決意する。この手で、由をどうするかを、決意した。

 顔を隠していた右手を眼前で握り締め、面を上げ、宵を見据えて要求する。


「由と、二人にさせてくれ」


「……お話にならないと思いますよ」


「由の過去に渡る。今の状態では埒が明かない」


「どこへ渡ろうと、意味のないことだと思いますが」


「頭ごなしに否定するな。やってみんことには分からんだろ」


 どちらも我意を通す意気込みであったが、宵が折れた。すくっと立ち上がり軽い会釈をする。

「お好きなように、なさって下さい。……考えを改めていただけることを期待しております」


 そう言い残すと、トキの脇を通り過ぎ、部屋から出て行く。襖の引き手に触れた時、ボソリと聞こえぬように「笛吹けども踊らずとは、正にこの事ね」と倦厭した表情で呟いた。


トス――

 襖が閉まるのを確認したトキは、すぐに由の方を向いた。


「今から由の過去へ渡らせてもらう」


 トキはそう言うと、鞄に手を伸ばした。そして中から飲料水の入ったペットボトルと、印籠のような形をした煤色の薬籠を取り出した。薬籠を開き、中から小さな錠剤を一つ摘み、天を仰ぐ由の視界の中へ入れる。


「コレは即効性があるが、効き目の軽い睡眠薬だ。悪いがコレを飲んでもらう」


 了承はされることはなかったが、トキはペットボトルのキャップを外し、薬を由の口元へと持って行く。

 すると、由の口が己から開いていった。無理矢理にでもこじ開けようと決めていたトキは、その反応に幾らかばかりか驚き、静止した。


「……悪いな」


 柔和な笑みを浮かべ、薬を口の中に入れる。そして、すぐさま水を飲ませる。


「ちと温い(ぬるい)が、我慢してくれ」


 トクトクと水は流れていき、由の喉がゴクリと音を鳴らした。投与が完了したトキは、道具を片し、由の眠りを待った。その中で、せがむように呟く。


「由、お前はきっと、俺が思う通りの人間だよな」


 由の瞼が弛緩し、ゆっくりと着実に閉じていった。伴って、意識が溶暗してゆく。


「……」


 完全に眠りについた由の額に、トキの手が伸びていった。

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