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第肆話【宵の涙】(ヨイノナミダ)では、偏見や差別的暴言が用いられます。不快に感じる方、苦手な方は閲覧をお控え下さい。
ザッザッザ
古ぼけながらも外見だけは現代風の装飾を帯びたアパートの前で、私服の上にエプロンを重ね着した若き大家が、竹箒を手に、落ち葉の掃除を行なっていた。
「いい天気ねー。もっと空気が綺麗だとなぁ」
そういって朝の空を眺める。雲ひとつない晴天であったが、空気が悪く、どんよりとしたイメージは拭いがたく残る。
そうして、ある程度の掃除が完了した時、105号室のドアノブが回転し、中からトキが現れた。
「お」
トキは美登理に気付くと側に近寄った。
「よっ。らしいことしてんじゃねぇか」
声に振り向き、美登理は頭にハテナを浮かべる。
「らしいって……?」
「大家らしいってことだよ」
「あんた、漫画の読みすぎじゃない?」
「んなことねぇよ。敷地の管理も大家の仕事なんだしよ」
美登理はトキの話をあまり耳に入れず、ため息をついた。
「この格好については、触れないの?」
そういってエプロンの裾をピラリと摘み上げた。トキはその姿を見て、ふむっと考え込んだ。
「ん……何だかエロいな」
美登理の右目の目尻が持ち上がった。
「あんたねぇ…もっとこう、似合ってるとか、可愛いとか、そんな風に言えないの?」
「あれ、エロいってそーいうの含まれてないのか?」
トキの中ではかなり上位の褒め言葉だったらしい。呆れた顔になった美登理のため息は深さを増した。
「単なるオヤジね…」
言いもって、美登理はトキの格好に気付く。
黒無地の長袖Tシャツに薄いジーパンは普段通りだが、一つだけ加えられた物があった。それは手に掛かっている鞄であった。こげ茶色をした革製で、二本手のA4ファイルサイズのビジネスバッグだ。
美登理はそれを見て質問をする。
「どっか行くの?」
「ん、ああ。ちょっと遠出せんとならんようになってな」
トキは鞄を片手に肩に掛けた。
「それって、旅行ってこと?」
「んー…まあ、そんなところ…か」
渋りつつトキが答えると、美登理はパァっと明るい雰囲気を全身から放出した。
「私も行きたい!」
ウキウキという晴れやかな気分に満ちている美登理。トキは気まずそうに左の頬を指で掻いた。
「すまんな、一応仕事でもあっから、遊びじゃないんだ」
一緒に行くことは出来ないと暗に告げる。そうすると美登理の先ほどの空気が一気に褪めていった。色に例えるなら赤から青へと、まるで色素が消えて反転してゆくよう。
あからさまなほど落胆している美登理に、トキは「また機会があれば、そん時いこうや」と頬を持ち上げ披瀝した。
「んん。……分かった」
美登理は不満がりながらも、一応自分と行くのを敬遠しているわけではないという述懐をされたこともあって、強気に言えず、素直に聞き止めておくことにした。
トキは「じゃあな」と片手を上げ、アパートの敷地から姿を消していった。
美登理は空を見上げ、「どっか…かー」と脳内を活動させた。
* * * *
トキは緩やかに進む電車の窓の淵に膝を置き、頬杖をついた。そして一枚の書簡を鞄から取り出し、胡乱な目つきをした。
「何とも怪しい匂いがするなぁ」
便箋の中身はあまりに質素なもので、名前と住所、そして依頼を催促する一筆のみ。連絡先や、どのような依頼なのか、対象者はどのような状態なのか、その他諸々一切、何も記載されていない、あまりに身勝手な書簡であった。
このような胡散臭い依頼状に、トキが腰を上げた理由は、シズクの関与がない。ということであった。シズクの関与なし、つまり紹介人の無い空手な状態で、鳶渡にたどり着いた依頼主の力量や必死さが気になっていた。裏を返せば、鳶渡を受ける対象者がそれほど切迫した状態であるということ。藁を掴む想い。そうでなくては鳶渡という非現実的な力を享受しようとはしない。もっと現実的且つ効率的な方法を模索するのが先決。それを放ってまで鳶渡に情報を注いだとなれば、〝鳶渡でなければならない〝という理由が存在する。トキが腰を上げるに迷いはなくなる。
だが、思考を突く不可解な感覚。
奔走しているであろう者が、あまりに質素な内容の文章、言葉足らずな文章を送ってくるだろうか。
(諸々書くことを忘れちまうほど…ってことなのか。或いは…)
トキの考えとして二分される想定。一つは書き手が狼狽し、文章の推敲が図れなかったということ。こちらであれば後の労はあまり無い。しかし、もう一つ、精神的に既に参っている状態。濃い文章を好まず、薄く薄く、血の通わない文章を好む性質であった場合、危険が増す。言うなれば自殺を図る美登理と同色。扱いにくい存在となっていることである。
「まあ…いいか」
トキは考えを煮るものの、勝手な想像であるがため、保留を選んだ。直接本人に会って確かめた方が手っ取り早い上に狂いが無い。そう結論を出し、息をつき、窓の外へと目をやる。
コンクリートや鉄筋が目立つ風景から、徐々に青々しさが増え始めていく。忙しないという印象強い街から、穏やかな町並へと変わっていく様は、現代でなければ見れることの出来ない特別な眼であろう。
「やっと着いたか」
トキが目的の駅に到着したのは、アパートを後にしてから5時間後のことであった。駅構内から見渡す風景は、辺境の地とは呼べないまでも、敷き詰められた田畑と水路、昔ながらの瓦屋根の木造住宅が立ち並び、田舎。と、呼ぶに相応しい場所であった。
トキは腹の具合を手のひらで確かめた。なかなかに虫が食を求めているようで、小さく鳴いていた。
改札を出て、駅前に何かないかと辺りを見渡す。駅前だけあってか、店はちらほらと佇んでいた。まるで規模の小さな下町のようだ。
腹の虫と相談し、足はきし麺の立て札の掛かった店屋へと歩み進む。
「じゃまするよ」
暖簾をくぐり、カウンターへと席を置く。
年老いた男の店主は暇そうに新聞を呼んでいたが、トキが来店したのを機に、慣れた様に新聞を放り、冷やの入ったコップをカウンターに置いた。
「らっしゃい。ご注文はお決まりで?」
トキは鞄を隣の席に置きつつ、「ここの一番人気は何かな」と問う。
「それだと、海老と穴子の天ぷらやね」
「ほお。じゃ、それで」
「分かりやした」
注文は早々に決まり、店主は調理に取り掛かった。長年培ってきた流れのような工程を見ながら、トキはこう繰り出した。
「ここいらで、唐櫃っていう家がどこにあるか知ってるかな」
店主は顔を上げた。何ともあっけらとしている。
「唐櫃っていえば、ここらじゃ有名だからねぇ。誰に聞いたって知っているやさ」
「じゃ、道筋とか聞いてもいいかな」
「最近の若者なのに、なびぃは使わないのかい?」
「そういうのに疎いんでね」
「なら、自慢の海老穴子天きし麺を平らげたら外に出て教えてやりやしょう」
コトリと湯気の立つ丼がトキの前に置かれた。
「こりゃ、美味そうだ」
トキは頬を綻ばした。大きな海老が二つと、丼に橋を架けている一本穴子。きし麺の姿はものの見事に隠れていた。無意識に唾液が溜まり、世辞はなかった。
トキはがっつくようにきし麺を食い始め、容易く平らげてしまった。そして感想を一つ。
「美味い」
店主は照れくさそうに鼻を掻いた。
「へへ、伊達に1800円はとってないからね」
「これで1800なら値打ちがある」
トキは財布から珍しすぎて存在を忘れがちな2千円札を取り出した。店主は使いにくい!と胸の内で我鳴った。
「で、真っ直ぐ進んで行けば、でっかい屋敷が見える」
店を出たトキは、店主に唐櫃邸までの道筋を聞き入れた。
「なかなか足を使わんといけんのか」
トキは道を見据えて渋った顔で言った。店主は笑いながら「なぁに、ここらは田畑が広がる農業地。軽トラでも捕まえればいいやさ」と住民ならではの案を出す。トキは頭をガシガシと掻いた。
「うーん……まぁ、景観もいいし、ゆっくり歩くとするよ」
「兄さんの足なら1時間くらいだろうし、それもいいかもしれんやね」
「じゃ、帰りに腹が減ってりゃまた拠らせてもらうよ」
「楽しみに待ってやす」
トキと店主はお互いに手を振り合った。