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「違う!!」
咆哮を発した野々垣の全身は汗ばみ、小刻みに震えていた。首が据わらない感覚。目の前の男が、自分の要求を呑む気が無いという、絶望感。
「違うなら、どうだって言うんだ。まあ、何を託っても、人を殺すに相当する理由など、存在しないがな」
目の色を変えないトキは、もう見限っていた。どう繕っても、どう謝罪しても、それは全て己のため。野々垣はそういう男。自身が手にかけた者への罪を背負おうとしない甘ったれ。鳶渡などというレベルでなく、会話さえ億劫となっていった。それほどまでに、トキの激情は鎮まることを覚えなかった。
喉に蓋を閉められたと思えるほど、息苦しく、何も発せられなくなった野々垣は、悲愁に沈んだ。
そんな頃合に訪れた、野々垣にとっての希望とも言える音が、トキの一室に響いた。
玄関扉の開く音。
トキはノックも無しに入ってくる無法者を確認する。そして目を開かせる。
「加室の旦那……何を?」
図々しく、トキの部屋へ上がってきたのは、加室。口の端は持ち上がり、悪い顔をしている。それを目にする野々垣の目は、死んでいるようなものだった。
加室はトキの質問に答えることなく、ずんずんと畳まで進んでいった。そして、その嘲るような口元から声を出す。
「よお、話は扉越しに拝聴させてもらった」
そう言うと、加室は膝を折ってしゃがみ、野々垣の目の前に自身の厳つい顔を持っていった。野々垣は何だと後ろに仰け反る。そして、加室から発せられる言葉に、さらに身体を仰け反らせることになる。
「俺に、依頼しねぇか?」
「え」
野々垣の驚愕の表情。
トキの目は、信じられないモノを見る目に変わった。
「旦那、何を言っている」
急遽、繕ったような下手な冷静な声。加室の口の端が大きく広がる。そして肩越しに、眉と口を曲げ、嘲弄した表情でこう答えた。
「だって、可哀想じゃねぇか、反省してるってのに、突き放してばかりじゃな」
トキの繕いは簡単に消え、沸々と込み上げる怒りが蘇る。
「どこが反省しているっていうんだ!」
「トキ、黙れよ。お前はこの件は乗り気じゃないんだろ? なら俺に遣せ。否応無く、俺に遣せ」
加室の嘲た顔は一瞬にして強面なものとなり、棘の張った言葉は、恫喝以外、何者でもなくなっていた。
「………」
トキは諫言することもせず、言われるがままに沈黙した。
加室は黙った様子を一見すると、顔を野々垣へ向き直した。
「つーこった。お前を救ってやるよ」
話から、加室も鳶渡を使える者だと勘繰った野々垣は、明るい顔になった。
「ほ、本当ですか!?」
「つっても、タダじゃない。10万。それでお前の人生を救ってやろう」
「たった、10万で。……はは、ははは」
予想とはあまりに別の小額の要求に、野々垣は笑って見せた。希望に満ちた笑いを。そしてトキを見た。こいつに頼るのが馬鹿だったと、煽るように。
「10万、出せるのか?」
「ええ! お願いします!」
「いいだろう。鳶渡を売ってやろう」
トキはそのやり取りを見て、蔑むような目つきになった。しかし決して容喙することはしなかった。加室はそれに気づいたが、直ぐに視線を切った。そして立ち上がり、野々垣を見下ろしながら、話を再開する。
「だが、まぁ、俺は鳶渡が結構下手でな、お前がやっちまったもんを、事細かに訊かねーとダメなんだわ。辛いことを思い出させちまうが、いいか?」
苦い顔をする加室。野々垣は少しだけ目を伏せて了解する。
「え……ええ、構いません」
返事に、加室の片頬が一度だけ持ち上がる。
「うし、じゃあいくつか質問すっから、包み隠さず答えてくれ。まず、お前の名と出身地」
「の…野々垣 慶一。出身は○○県の○○市」
「誰を、何時、どこで殺害した?」
「……名前は解らないが、女の子を……、7日前にT町の雑木林の中で…」
「その子の歳は?」
「正確には解らないが、13、14くらいだと…」
ん?と加室の脳が取っ掛かりに引っ掛かる。
「解らないのに何故、そう言える?」
「中学の制服を着ていたから…」
「制服を着ていたということは、犯行時刻は下校時刻か?」
「はい…、4時過ぎだった…」
「帰宅途中のその女の子に、何をした?」
「T町のM中学の雑木林に…口を塞いで連れ込んで…」
「連れ込んで?」
「喉で唸るから、頭を殴って気絶させた」
「それから?」
先を進めると、野々垣は口を篭らせた。言いにくい内容なのだと誰でも勘付く。
「……服を脱がした」
野々垣はそう言うと、視線を斜め下へと追いやった。加室はそこで、一度だけトキに視線を当てる。が、直ぐに逸らした。そうせざるを得なかった。トキは静止していたものの、その形相は狂気を感じさせるものだった。憎しみといえる感情の波が、激烈を伴って渦巻いていた。
加室は頬に一筋の汗を流して、「……そして?」と再開させる。
「そ、それ以上のことはしていない! ただ、顔を見られていて、恐くなったから…」
「……」
加室は押し黙って次を待った。
「学生鞄を頭に被せて、用意していたカナヅチで…殴りつけた」
「被せたのは、返り血が付着しないように…か」
「……」
言い当てられ、野々垣は無言という答を表した。
「何度、殴りつけた」
「な…七回だ…。今でも手に感触が鮮明に残っている。最後は仰向けに倒れたところを、顔を狙って振り下ろした。鈍い音がした。何かが弾けるような」
そう語る野々垣の瞳が、徐々に感情の流れを汲み取り、生死の間隙を突いた記憶から映像を抽出した。目に映るものは、畳ではなく、無残にも頭部を砕かれ、被せられた鞄から血を滲ませる、一人の少女。
「……そのカナヅチは、自分の物か?」
加室の冷静な声に、野々垣は我に返る。
「……ッ…はい」
加室は変化に気づいていたが、別に問うことはせず、淀まず続けた。
「凶器はその後どうした」
「家にまだ…ある」
野々垣が答えると、加室は時間に間隔を空けた。そして、重く口を開く。
「最後に、罪は感じているか?」
「……馬鹿なことをしたと……思っている」
野々垣は下唇を噛み締めた。加室は目を閉じた。
「よし、着いてこい」
「え?」
何故、といわんばかりの表情に、加室は答える。
「ここで使ってもいいが、嫌そうにするやつがいるからな」
そう言いながら顔を動かし、視線をトキに集めさせた。トキの身体は激情から総毛立ち、震えていた。感情を押し殺そうという気概など疾うに消えていて、次に感情を刺激することを吐けば、何を仕出かすか判らぬ、未曾有の気配を醸していた。
これ以上、野々垣という火種を置いていては、導火線を燃やし尽くしてしまい兼ねない。野々垣もそれを承知し、震える足に説教を食らわし立ち上がった。
野々垣にとって、最悪なのは、トキが警察に連絡し、鳶渡が行なわれる前に捕まってしまうことだ。それを避けるべく、野々垣は何も文句を言わずに、そそくさと出て行く。
加室は立ち止まり、「悪いな」とトキに告げ、部屋から出て行った。