3-2
「それって…やっぱり…。それで! それでいいじゃないか!」
喜々に富んだ明るい声が、トキの耳を劈いた。
この淀んだ空間にあってはならぬ、似つかわしい希望の光。それを煌々と全面に出す、野々垣。トキの開かれた目は、軽蔑の眼差しへと、姿を変えていった。
「それで…いい? 何が言いたいか、分からんな」
これは試しではない。要求。野々垣に、それを口に出して欲しくなかった。
殺人犯である野々垣に、それを口に出して欲しく、なかった。
しかし、希望を目の前にした人間とは、狂ったように、壊れたように、追い続ける者である。
「だから! それでいいじゃないか! 突然死! 僕が殺した事実が無くなって、突然死になる! それで――」
!!!!!!!!
轟音が響いた。いや、正確にいうなら轟音ではなく、鈍い音。しかし、狂った者を一撃の下、黙らせるに相応しい音ではある。それが響いた。
トキの右手から浮き出る血管。拳型に凹んだ畳。そして、噛み締められた奥歯が鳴らす、怒りの音。
野々垣の背筋が、冷たく張り詰めた。
「ふざけるなよ……ッ」
その言葉を機に、脳がすうっと消えていく感覚が訪れた。野々垣は目の前に座る鬼面を前に、捕食される者の立場を、強制的に感じさせられた。
「それでいいって、何なんだ? お前は、何をした? それでいい――なんて言葉で括れるほど、軽いことをしたと思ってんのか!」
これはもう、憤慨というモノではなくなっていた。最上級の、厭きれ。目の前にいる野々垣に対する、厭きれ。同時に、悔しさが込み上げた。人間という卑しい生き物に対する、悔しさが。
「お前は自分の犯した過ちを、まるで、一切、微塵も、背負おうと、しないんだな」
それでいい。
自身の手が汚れず、世間に非難されることも、人間的立場を失うことも無く、人一人の命を奪ったことから、逃れられる。
だったら、それでいい。
殺された者の末路など、眼中に無く。
それでいい。
全ては自分。
だから、それでいい。
トキは――、
「屑が――!」
〝それでいい〝で終わらせる事など、許さなかった。
激昂の一喝を放ち、血の気の引いていく野々垣を睨み据えるトキ。
「……なんでだよ」
野々垣の口が小さく開くと、もう既に漏れていた。
「なんでだよ。確かに、僕は人を殺してしまった。その家族に恨まれるのも分かってる。けど、さ。その、いや…、でも、ずっと、恨んだままってのは辛いはずだろ!」
焦りや不安が原因で、統一されていない脳から出てくる言葉は拙く、何を言っているのか、理解に苦しむものであった。しかし、トキにはその意が伝わっていた。
「お前は、自分が救われれば、被害者の家族も救われる…と、言いたいんだな」
「す、救われるとは言ってない! けど、もう生き返らせないって言うなら、丸く収まる方を、選んだ方が! 恨むってことは、忘れられないから!」
野々垣は必死に訂正し、己の意見を得手勝手に吠えた。それが人を逆撫でにする行為であることを忘れて。
「……そうまでして、逃れたいのか」
野々垣の言い分は、殺人には恨みが発生するが、自然現象に近い突然死には、恨みが発生しない。ということ。恨みとは怒りから来るもの。怒りとはその矛先を誰かに向けるもの。それを受け続ける者がいる限り、被害者は報われない。そういう想いが募れば募るほど、人は哀しみを背負い続ける。その背景を無くせるのが後者。突然死にすること。
「…だって! 殺す気はなかったんだよ! 会社で上手くいってなくて、それで…!」
凡庸な言い訳で、人の心は動かない。
「それで、何の罪も無い人の命を奪うことに繋がるのか」
野々垣の頭は、諦めるように畳みに向かった。
「魔が差したんだ……いや、もう耐えられなかったのかもしれない。この衝動を抑えるのが……何か壊さないと、殺さないと、耐えられなかったから」
拳に、力が宿っていた。
トキは冷酷な眼をしていた。同情などという感情は、微塵も込み上げてこなかった。
「お前は、気弱そうに見えて、傲慢なんだな」
「僕が、傲慢?」
「会社でどんな失敗や人間関係の不満があろうと、そこから生まれるストレスを〝人にぶつける〝というのは、お前が驕り高ぶっているのが原因さ。お前は、無意識かなんか知らんが、人を見下さねば気がすまないんだよ」
「違う!」
「違わないさ。これはお前の本質だ。まあ、大概の者が持つ、思想でもある。誰かの上に立ちたいという希求は、多くの者に根付いているからな。誰も下を向いて歩き続けることはしたくない」
「……」
「しかし、〝そうしなければならない〝という障害が必ず付く。お前はそれを超えずして、八当たったのさ。もっと下の立場の人間に。自分が上だと知らしめるように」
野々垣が気弱な人間であることに、間違いはなかった。
本心を口に出すことを嫌う性質なため、会社では上司の鬱憤を晴らす的となっていた。小さなミスでも延々と説教を喰らい、無駄と思われるほど目をつけられ、嫌がらせのような毎日を与えられる。
初めの頃は、同僚も野々垣に同情をしていた。が、あまりにも長い期間、野々垣だけが説教を喰らうために、〝野々垣は頻繁にミスをする使えない奴〝という意識が、徐々に社内に蔓延っていった。
結果的に野々垣は孤立。味方であった同僚にさえも、侮蔑の扱いを受ける始末となる。
不満の増長は急速化。胸の内で憤慨するも、口に出さない。外に出さない。ただ溜め込む、溜め込む。
そうしていくと、人というのは世界全体に対して、悪態染みた意識を持つようになっていく。普段、目に付かぬゴミや吸殻、迷惑を顧みない人々の生活。それら全てを否定していく。
――死ね
――お前ら何か、消えろ。失せろ、邪魔なんだよ
――ゴミ同然のお前らが、何故自分よりも、幸せそうなんだ
野々垣の意識の中に生まれていく、不徳な塊。
それを内の中だけに留められなくなった時。
爆発する。
自身の欲求を満たす、最高の形へと――