殿下、その断罪の口上、代筆したのはわたくしですわ
「レオノーラ・アシェンヴァルト! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王立学院、卒業記念夜会。大広間の空気が、一斉に凍りついた。
シャンデリアの下、王太子ジークハルト殿下は、まっすぐにわたくしを指差しておられた。その腕には、震える小鳥のように、男爵令嬢リディア・クレール様が寄り添っていらっしゃる。
「聞け、諸君!」
殿下の声が、高い天井に反響した。
「公爵令嬢レオノーラ・アシェンヴァルトは、その血筋と地位を鎧として、三年にわたり、無辜の令嬢を踏みにじってきた。階段からの突き落とし、教本の焼却、夜会からの締め出し。その全ては、ただ一つの理由による——この胸に抱いた一輪の花を、我が隣に置きたくなかったがためだ!」
ああ。
わたくしは、扇の陰で、そっと息を吐いた。
「我は許さぬ。王家の名において、そして一人の男として、断じて許さぬ! 証拠はすべて、宰相府の検分を経ている。よって我は、王国法第七編第三条に基づき、この婚約を、ここに——白紙とする!」
見事な沈黙が落ちた。
誰も動かない。誰も息をしない。リディア様が、殿下の腕の中で、目を潤ませていらっしゃる。
だからわたくしは、拍手をいたしました。
ぱち。ぱち。ぱち。
大広間で、たった一人。
「お見事ですわ、殿下」
殿下の眉が、わずかに動いた。
「……なんだと?」
「三日前にお渡しした原稿の、一字一句その通りでございました。特に『この胸に抱いた一輪の花』のくだり、お気に召したのですね。あそこは二度書き直しましたの。最初は『名も知らぬ野の花』でしたけれど、少し憐れみが過ぎるかと思いまして」
しん、と。
静寂の質が、変わった。
先ほどまでの静寂は、衝撃のそれだった。今のは、理解が追いついていく音だった。
「な……何を、言って」
「殿下は、文章がお書きになれません」
わたくしは、扇を閉じた。
「十歳の秋でしたわ。初めての公務でご挨拶を任され、三日三晩かけて原稿をお書きになって——読み上げた途端、大臣方が下を向いて笑いを堪えていらした。殿下は執務室の机に突っ伏して泣いておいででした」
「やめろ」
「わたくしが代わりに書きました。翌日の挨拶は、たいそう好評でございましたわね」
「やめろと言っている!」
「以来、八年。王太子殿下の公式書簡、演説草稿、祝辞、弔辞、外遊の宣誓文、貴族院への答弁——」
わたくしは、一つずつ、指を折りました。
「そして今夜の、婚約破棄の口上」
大広間のあちこちで、息を呑む音がした。
「殿下のご直筆は、ご署名だけでございます。——ああ、いえ。ご署名も、わたくしがお書きした手本をなぞっておいでですから、半分と申し上げるべきかしら」
殿下の顔から、血の気が引いていくのが、遠目にもわかりました。
「……で、では」
震える声が、殿下の腕の中から聞こえた。
リディア様だった。
「では、お手紙も、ですか」
大広間の視線が、一斉に彼女へ向かった。
わたくしは、少しだけ、答えるのを迷いました。
けれど、この方には、嘘をつくべきではないと思ったのです。
「——『夕暮れの鐘が鳴るたび、あなたのことを思い出す。あなたの笑い方は、春に最初に咲く花が、開くときの音に似ている』」
リディア様の唇が、震えた。
「『僕は言葉を持たない男です。だからこの手紙も、きっとあなたには届かない。けれど書かずにはいられない。届かないと知りながら書くことを、人は恋と呼ぶのでしょう』」
「……」
「四十七通。すべて、わたくしが書きました」
リディア様の手が、ゆっくりと、殿下の腕から離れていった。
とても静かに。まるで、熱いものから指を引くように。
「あの手紙に書いた言葉は、すべてわたくしのものでしたわ」
わたくしは、微笑みました。たぶん、うまく笑えていなかったと思います。
「宛名だけが、わたくしのものではありませんでしたけれど」
「黙れ……黙れ!」
殿下が叫んだ。
「貴様の言葉など、誰が信じる! 証拠はどこにある! 我は、宰相府の検分を——」
「ええ、そこでございます」
わたくしは、殿下の言葉を遮りました。
「先ほどの口上の中に、一箇所だけ、わたくしが自分の判断で書き加えた文言がございます。——『証拠はすべて、宰相府の検分を経ている』。ここですわ」
殿下が、ぴたりと止まった。
「宰相府は、確かに検分なさいました。三週間前に。報告書は、殿下の執務机、左の抽斗のいちばん上に置かれております。封を切られた形跡は、ございませんでしたけれど」
「……なに……を」
「結論だけ申し上げます。——全件、事実無根」
どこかで、グラスの割れる音がした。
「階段の件は、リディア様ご自身が段を踏み外したと証言なさっています。教本は、寮の暖炉の不始末。夜会の招待状は、単純な手違いで、差出人はわたくしではなく式部官でございました」
わたくしは、まっすぐに殿下を見上げました。
「殿下。あなたは今、公衆の面前で、ご自分の告発を否定する書類を、ご自分の口で引用なさいましたの」
「それと、もう一点」
わたくしは、扇を開き、また閉じました。
「王国法第七編第三条は、婚約解消の条項ではございません」
殿下の目が、見開かれた。
「第七編第三条は——『王族が公の場において虚偽の告発を行った場合の、名誉回復ならびに賠償に関する規定』でございます」
「……そんな、はずが」
「三度、書面でお伝えいたしました」
わたくしは、静かに申し上げました。
「原稿の余白に、赤字で。『この条文は解消規定ではありません。ご確認ください』と。三度とも、赤字のまま返ってまいりましたわ」
殿下は、何も言えずに立っていらした。
「殿下は、書けないのではございません。お読みにならないのです。八年間、ただの一度も」
大広間の扉が開いた。
宰相ヴィンターフェルト侯爵が、近衛を伴って入っていらした。ずいぶん早いお着きですこと、と思いましたが、たぶん最初から控えていらしたのでしょう。
「殿下。陛下がお呼びでございます」
「待て。待て、私は——」
「殿下」
「レオノーラ!」
近衛に両腕を取られながら、殿下は叫ばれた。
「書き直せ! 今すぐ書き直せ! いつもそうしてきただろう、お前が書き直せば、全部——」
その声を、わたくしは、扉が閉まるまで聞いておりました。
最後まで、そういう方でしたわ。
「いいえ、殿下」
聞こえていたかどうかは、わかりません。
「これが、わたくしの最後の代筆でございました」
夜会は、そのままお開きになりました。
わたくしはバルコニーに出て、夜風に当たっておりました。八年分の肩の荷を下ろすというのは、思っていたより、ずいぶん体が軽くなるものなのですね。
「アシェンヴァルト公爵令嬢」
振り向くと、テオドール・ヴィンターフェルト様が立っておられた。宰相閣下のご嫡男で、殿下の筆頭側近。この三年、宰相府の文書課にいらした方。
「……お恥ずかしいところを」
「五年前の、東部水害の見舞状を覚えておいでですか」
唐突に、そう言われました。
「あれを読んだとき、僕は、書いた人間に会いたいと思いました」
「……」
「署名は殿下でした。けれど、あれは殿下の言葉ではないと、すぐにわかりましたので」
胸の奥が、妙な音を立てました。
「宰相府の文書課には、殿下の名で出された書面がすべて綴じてあります。八年分、千二百通あまり。全部読みました」
テオドール様は、ご自分の足元を見ていらした。
「三年かけて。……ずっと、同じ人の字を追っていた気分でした」
「テオドール様」
「だから」
彼は、上着の内側から、一通の封筒を取り出されました。
それは、あまり綺麗な封筒ではありませんでした。角が少し潰れていて、封蝋の押し方も歪んでおりました。
「僕の求婚状は、僕が自分で書きます」
わたくしは、その場で封を切りました。
一度、読みました。
もう一度、読みました。
念のため、三度目を読みました。
「……テオドール様」
「はい」
「文章が、ひどいですわ」
「……はい」
「二行目に主語がございません。三行目に至っては、述語もございません。四行目の接続詞は、使い方が根本的に間違っておりますし、五行目は——五行目は、そもそも文ではございませんわ。名詞が三つ並んでいるだけです」
「……面目ありません」
「それに、インクが滲んでおります。何度も書き直したでしょう」
「……十一回です」
わたくしは、便箋を見下ろしました。
震える字で、下手くそな文法で、何度も書き直された跡のある、一枚きりの紙。
「三度読み返しましたけれど」
声が、少し、掠れました。
「文法的には、どうしても意味が取れませんでしたわ」
「……はい」
「けれど」
わたくしは、顔を上げました。
「意味は、わかりました」
生まれて初めて受け取った恋文は、文法がめちゃくちゃで、句読点も足りず、インクの染みだらけで。
けれど宛名だけは、間違いなく、わたくしのものでございました。




