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短編(異世界など)

殿下、その断罪の口上、代筆したのはわたくしですわ

作者: みき
掲載日:2026/09/19

「レオノーラ・アシェンヴァルト! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」


 王立学院、卒業記念夜会。大広間の空気が、一斉に凍りついた。


 シャンデリアの下、王太子ジークハルト殿下は、まっすぐにわたくしを指差しておられた。その腕には、震える小鳥のように、男爵令嬢リディア・クレール様が寄り添っていらっしゃる。


「聞け、諸君!」


 殿下の声が、高い天井に反響した。


「公爵令嬢レオノーラ・アシェンヴァルトは、その血筋と地位を鎧として、三年にわたり、無辜の令嬢を踏みにじってきた。階段からの突き落とし、教本の焼却、夜会からの締め出し。その全ては、ただ一つの理由による——この胸に抱いた一輪の花を、我が隣に置きたくなかったがためだ!」


 ああ。


 わたくしは、扇の陰で、そっと息を吐いた。


「我は許さぬ。王家の名において、そして一人の男として、断じて許さぬ! 証拠はすべて、宰相府の検分を経ている。よって我は、王国法第七編第三条に基づき、この婚約を、ここに——白紙とする!」


 見事な沈黙が落ちた。


 誰も動かない。誰も息をしない。リディア様が、殿下の腕の中で、目を潤ませていらっしゃる。


 だからわたくしは、拍手をいたしました。


 ぱち。ぱち。ぱち。


 大広間で、たった一人。


「お見事ですわ、殿下」


 殿下の眉が、わずかに動いた。


「……なんだと?」


「三日前にお渡しした原稿の、一字一句その通りでございました。特に『この胸に抱いた一輪の花』のくだり、お気に召したのですね。あそこは二度書き直しましたの。最初は『名も知らぬ野の花』でしたけれど、少し憐れみが過ぎるかと思いまして」


 しん、と。


 静寂の質が、変わった。


 先ほどまでの静寂は、衝撃のそれだった。今のは、理解が追いついていく音だった。


「な……何を、言って」


「殿下は、文章がお書きになれません」


 わたくしは、扇を閉じた。


「十歳の秋でしたわ。初めての公務でご挨拶を任され、三日三晩かけて原稿をお書きになって——読み上げた途端、大臣方が下を向いて笑いを堪えていらした。殿下は執務室の机に突っ伏して泣いておいででした」


「やめろ」


「わたくしが代わりに書きました。翌日の挨拶は、たいそう好評でございましたわね」


「やめろと言っている!」


「以来、八年。王太子殿下の公式書簡、演説草稿、祝辞、弔辞、外遊の宣誓文、貴族院への答弁——」


 わたくしは、一つずつ、指を折りました。


「そして今夜の、婚約破棄の口上」


大広間のあちこちで、息を呑む音がした。


「殿下のご直筆は、ご署名だけでございます。——ああ、いえ。ご署名も、わたくしがお書きした手本をなぞっておいでですから、半分と申し上げるべきかしら」


 殿下の顔から、血の気が引いていくのが、遠目にもわかりました。


「……で、では」


 震える声が、殿下の腕の中から聞こえた。


 リディア様だった。


「では、お手紙も、ですか」


 大広間の視線が、一斉に彼女へ向かった。


 わたくしは、少しだけ、答えるのを迷いました。


 けれど、この方には、嘘をつくべきではないと思ったのです。


「——『夕暮れの鐘が鳴るたび、あなたのことを思い出す。あなたの笑い方は、春に最初に咲く花が、開くときの音に似ている』」

 

 リディア様の唇が、震えた。


「『僕は言葉を持たない男です。だからこの手紙も、きっとあなたには届かない。けれど書かずにはいられない。届かないと知りながら書くことを、人は恋と呼ぶのでしょう』」


「……」


「四十七通。すべて、わたくしが書きました」


 リディア様の手が、ゆっくりと、殿下の腕から離れていった。


 とても静かに。まるで、熱いものから指を引くように。


「あの手紙に書いた言葉は、すべてわたくしのものでしたわ」


 わたくしは、微笑みました。たぶん、うまく笑えていなかったと思います。


「宛名だけが、わたくしのものではありませんでしたけれど」


「黙れ……黙れ!」


 殿下が叫んだ。


「貴様の言葉など、誰が信じる! 証拠はどこにある! 我は、宰相府の検分を——」


「ええ、そこでございます」


 わたくしは、殿下の言葉を遮りました。


「先ほどの口上の中に、一箇所だけ、わたくしが自分の判断で書き加えた文言がございます。——『証拠はすべて、宰相府の検分を経ている』。ここですわ」


 殿下が、ぴたりと止まった。


「宰相府は、確かに検分なさいました。三週間前に。報告書は、殿下の執務机、左の抽斗のいちばん上に置かれております。封を切られた形跡は、ございませんでしたけれど」


「……なに……を」


「結論だけ申し上げます。——全件、事実無根」


 どこかで、グラスの割れる音がした。


「階段の件は、リディア様ご自身が段を踏み外したと証言なさっています。教本は、寮の暖炉の不始末。夜会の招待状は、単純な手違いで、差出人はわたくしではなく式部官でございました」


 わたくしは、まっすぐに殿下を見上げました。


「殿下。あなたは今、公衆の面前で、ご自分の告発を否定する書類を、ご自分の口で引用なさいましたの」


「それと、もう一点」


 わたくしは、扇を開き、また閉じました。


「王国法第七編第三条は、婚約解消の条項ではございません」


 殿下の目が、見開かれた。


「第七編第三条は——『王族が公の場において虚偽の告発を行った場合の、名誉回復ならびに賠償に関する規定』でございます」


「……そんな、はずが」


「三度、書面でお伝えいたしました」


 わたくしは、静かに申し上げました。


「原稿の余白に、赤字で。『この条文は解消規定ではありません。ご確認ください』と。三度とも、赤字のまま返ってまいりましたわ」


 殿下は、何も言えずに立っていらした。


「殿下は、書けないのではございません。お読みにならないのです。八年間、ただの一度も」


 大広間の扉が開いた。


 宰相ヴィンターフェルト侯爵が、近衛を伴って入っていらした。ずいぶん早いお着きですこと、と思いましたが、たぶん最初から控えていらしたのでしょう。


「殿下。陛下がお呼びでございます」


「待て。待て、私は——」


「殿下」


「レオノーラ!」


 近衛に両腕を取られながら、殿下は叫ばれた。


「書き直せ! 今すぐ書き直せ! いつもそうしてきただろう、お前が書き直せば、全部——」


 その声を、わたくしは、扉が閉まるまで聞いておりました。


 最後まで、そういう方でしたわ。


「いいえ、殿下」


 聞こえていたかどうかは、わかりません。


「これが、わたくしの最後の代筆でございました」


 夜会は、そのままお開きになりました。


 わたくしはバルコニーに出て、夜風に当たっておりました。八年分の肩の荷を下ろすというのは、思っていたより、ずいぶん体が軽くなるものなのですね。


「アシェンヴァルト公爵令嬢」


 振り向くと、テオドール・ヴィンターフェルト様が立っておられた。宰相閣下のご嫡男で、殿下の筆頭側近。この三年、宰相府の文書課にいらした方。


「……お恥ずかしいところを」


「五年前の、東部水害の見舞状を覚えておいでですか」


 唐突に、そう言われました。


「あれを読んだとき、僕は、書いた人間に会いたいと思いました」


「……」


「署名は殿下でした。けれど、あれは殿下の言葉ではないと、すぐにわかりましたので」


 胸の奥が、妙な音を立てました。


「宰相府の文書課には、殿下の名で出された書面がすべて綴じてあります。八年分、千二百通あまり。全部読みました」


 テオドール様は、ご自分の足元を見ていらした。


「三年かけて。……ずっと、同じ人の字を追っていた気分でした」


「テオドール様」


「だから」


 彼は、上着の内側から、一通の封筒を取り出されました。


 それは、あまり綺麗な封筒ではありませんでした。角が少し潰れていて、封蝋の押し方も歪んでおりました。


「僕の求婚状は、僕が自分で書きます」


 わたくしは、その場で封を切りました。


 一度、読みました。


 もう一度、読みました。


 念のため、三度目を読みました。


「……テオドール様」


「はい」


「文章が、ひどいですわ」


「……はい」


「二行目に主語がございません。三行目に至っては、述語もございません。四行目の接続詞は、使い方が根本的に間違っておりますし、五行目は——五行目は、そもそも文ではございませんわ。名詞が三つ並んでいるだけです」


「……面目ありません」


「それに、インクが滲んでおります。何度も書き直したでしょう」


「……十一回です」


 わたくしは、便箋を見下ろしました。


 震える字で、下手くそな文法で、何度も書き直された跡のある、一枚きりの紙。


「三度読み返しましたけれど」


 声が、少し、掠れました。


「文法的には、どうしても意味が取れませんでしたわ」


「……はい」


「けれど」


 わたくしは、顔を上げました。


「意味は、わかりました」


 生まれて初めて受け取った恋文は、文法がめちゃくちゃで、句読点も足りず、インクの染みだらけで。


 けれど宛名だけは、間違いなく、わたくしのものでございました。


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