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桜の下には聖女の死体が埋まっている

作者: 無色 月
掲載日:2026/04/04

桜は、人を殺す花と聞いた。

だからその街では、春になると誰も外を歩かない。


例外は一人だけ。

私だ。

長い長い暗闇を歩いていた。だから、夢だと思ったのだ。


日々変わらぬ景色の中を、歩いていた。

電車が来ない。また遅延だろうか。


――遅延の理由を、私はいつも想像してしまう。そして、途方にくれる。

駅のホームで、肩に落ちた花びらを、わずらわしく払った。


どんな色だったか、すぐに忘れた。

いつからか、明日なんて来なければいいと思っていた。

泣きたいとも、思わなかった。


次の電車を、待つともなく待っていた。

その世界での最後の記憶。



気がつくと、石の床に倒れていた。



「ようこそ聖女、異世界へ。歓迎する」


見慣れぬ人々に取り囲まれていた。中心人物らしい白髪の老人が口を開く。

彼らは、ファンタジー的なローブやら鎧を身に着けていた。


左足に、鈍い痛みがはしる。

けれど、それがなぜかを確かめる気にもならなかった。


「聖女、あなたの名を教えてほしい」


彼らは名乗ることなく、私の名を問う。


「私は、サクラ、」


名字までしか、言えなかった。周囲にざわめきが広がったのだ。


「あの、伝説の……」


ざわめきの意図を私が深追いする前に、老人は次の言葉を紡いだ。


「聖女サクラ、と。そうか。救世の名だな。……奇妙な縁だ。

あなたは今や強大な魔力を有している。

その力で、どうかあなたにはこの国の『春』を救ってもらいたい。

この『春』を侵す『毒』を浄化してもらいたいのだ」



そして私は、兵士に連行され、重い扉をくぐった。



無意識にポケットを探った。お守りだけがあった。

それ以外は、何もない。財布も、スマホも、何も。


ただ、いつもの癖で、お守りを握りしめて。

ふと、光の加減が変化する。

ゆっくりと顔を上げて、――あ。


青い空が見えた。

見たことがないほど青い空が、どこまでも広がっている。


その下には、白亜の壁と、煉瓦色の屋根と。

西洋の城下町、といった景色が続いていた。


そして。


「桜が咲いている?」


日本の春の、どこにでもあるような桜の木。

あちこちに植えられており、咲き誇っている。


満開ではない。五分咲きくらいだろうか。

花びらがひとひら、風に乗って流れていく。

しばらく、立ち尽くしていた。



春になると、いつもおばあちゃんと桜を見た。

幼い私の手を引いてくれた、祖母の手のひら。


『桜はね、人の手がなければ増えることもできないのよ』



桜の枝に手を伸ばす。



「――……、――ラ、様!」


しばらく歩いた後、声が聞こえた気がした。

扉の方角からだ。


人影は、しばらく周りを見渡していたが、私の姿に気づくと走り寄ってきた。


「あなたは、サクラ様で間違いないだろうか」


私より、年上くらいの男性だ。

頭一つ大きな背丈だったから、見上げる格好になった。


まっすぐなその目は、空の色よりも一段深い青色をしている。

枝に伸びた私の手を、ちらりと見た。


「サクラ、ええ、私がそうですが。あの……?」


「上は、何を考えているのか。申し訳ありません、説明が行き届かず」


彼はそこで、荒い息をついた。


「息苦しさは、ありませんか?……一度、戻りましょう」


不自然に額に張り付く黒い髪。

浅い呼吸に、走ってきただけとは思えない苦しさが滲んでいる。

首筋を、汗がつたう。


「話は中で、あらためて」


「わ、わかりました……」


「ご協力、感謝します」


立ち去り際、彼は自らの肩についた桜の花びらを、指で払った。

丁寧な口調とは裏腹の、乱暴な仕草だった。



元の建物に戻ると、私は応接間らしき部屋に通された。

案内をしてくれた男性は、外套を脱いだあと、しばらく言葉を発しなかった。


「しばらく、お待ちください。説明役を呼んでまいりますので」


そして、奥へと消えていった。



現れたのは、あの白髪の老人だった。

振り返り、外で待機する部下に声をかけた。


「換気はどうなっている?……そうか、ならいい」


向かい合って座る。


「私は召喚魔法の責任者だ。説明は足りなかったか?」


「あの、さきほどの方は」


「休ませている。桜の毒に当てられたのでな。

詳しい話は彼に任せたかったが、仕方ない」



桜の、毒?



老人は淡々と話し始めた。



「この国の春に咲く『桜の花』からは、人を死に至らしめる毒が出る」


毒、という言葉が、うまく桜と結びつかなかった。


「即死するわけではないが、長時間吸い込み続けると命が危うい。身を守るために、桜の咲く季節は、魔法障壁内に身を潜めざるを得なかった。

枯らそうと何度も試みたが……」


「……一度も?」


「その通り。何に守られているのか、傷ひとつつけられない。切ることも、根を掘ることも、毒を分析して無効化する術を探すことも。王国の魔法使いを総動員して、あらゆる手を尽くした」


その手元には、分厚い束があった。

どれほどの年月が、あそこに積まれているのだろう。


「結果はご覧の通りだ」


老いた声は重く響いた。


「異世界の人間は高い魔力を得ることが多く、毒への耐性も高い。ゆえに、あなたを召喚するに至ったのだ」


私は、視線を落とした。


「我々は高魔力者を聖女と呼ぶ。過去にも何人か、あなたと同じように召喚された記録が残っている。皆、例外なく高魔力だった」


「……そうですか」


「あなたも例外ではない」


魔法使いは顔を上げて、私をまじまじと見た。


「今回の様子だけ見ても、あなたは毒が効いていないようだな。記録にある聖女たちは、皆それなりの耐性を持っていたが、完全ではなかった」


私は、よくわかりません、というほかなかった。


毒、と言われても、ピンとこなかった。

もともと、死が遠いとも思っていなかったから、かもしれない。

この世界の桜は、綺麗だった。


「つまり、その毒を消すのが私の役割だと?」


「その通りだ。忌々しい桜。長い研究の結果、かつて世界を恐怖に陥れた魔王の魔力に似通っていることがわかったが、何故かまでは解明されていない」


老人は一度口を閉ざした。


「魔王はとうに死んでいるはずなのだ。

にも関わらず、なぜ今もこの力が残っているのか」


「魔王は……植物に、思い入れでもあるのでしょうか」


「……異世界の方は、面白いことを言うものだな」


魔法使いの白い眉が、片方だけわずかに上がった。

それだけだった。答えにはなっていなかった。


「改めて、先程の騎士に世話役を命じた。彼はリクリテリオス。

王国でも指折りの騎士だ。聖女や桜についても、知識がある。

実際の調査については、彼を通してくれ。

消耗しているようなので、明日からだがな。あなたにも一室を用意させる」


私は答えなかった。ただ、窓の外を見た。淡い桜色が揺れていた。

夜、寝台に入る時、左足が鈍く痛んだ。


――――――


翌朝。昨日の騎士が挨拶に来た。

乱れていた黒髪が整えられている。まっすぐな視線。

遮るものがなくて、落ち着かない。


目の色によく合う濃紺の長袖の上着。襟は上まできちんととめられていた。

佩剣している。


「騎士リクリテリオスと申します。昨日はお見苦しいところをお見せしました。

聖女サクラ様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」


聖女サクラ。口の中で転がしてみた。

いまさら名字だとは、言い出せなかった。


「あの、聖女、というのは……やめていただけますか。

サクラと、呼び捨てで構いません」


彼は一呼吸置いて頷いた。


「承知しました、サクラ。

状況はお聞き及びかと思いますが、ご質問はありますか」


私は少し考えた。首を振る。


「いえ、とくに。ふしぎな状況だとは思いますけど」


「……。それだけですか」


「え」


「調査に行っていただけると?」


「それが、私の役割なんですよね?別に構わないと思っています」


なにより、桜は、綺麗だったから。

リクリテリオスを見上げると、彼はなんとも言えない表情をしていた。


「……サクラの寛大なお心に、王国の騎士としては感謝申し上げます」


誠実な口ぶりだった。

それでも、どこか苦いものが滲んでいる気がした。


「まず地図をお渡しします。城下町は広い。

最初は一区画を確認次第、お戻りください」


「わかりました」


渡された地図は大きかった。

両手で広げると、リクリテリオスが現在地を指差した。


中央やや右上にある、大きな丸い部分だ。

ここが魔力障壁に守られた生活圏だという。

南門。西門、東門。それぞれ大きな道で繋がっている。


「何かあれば、私の名を――」


「え、あ」


思わず狼狽えた。


「リク、り、テリオス……さん?とお呼びすればいいんですよね」


情けない呂律になった。日本人にはリが三回重なるのは辛い。

彼の口角が、ほんのわずか上がった。


「リクで構いません」


「リク」


「はい」


「……ありがとうございます、リク」


「それと、……ああ。これも」


もう一枚、手渡されたのも、地図だった。


「これは?」


「区画ごとに分けた、詳細地図です」


「印がついていますね」


印は几帳面に、ほとんどの区画を埋めるように入れられていた。

どれほどの時間をかけたのだろう。


「桜の木の位置です」


「わざわざ書き込んで下さったのですか?ありがとうございます」


「いえ。それは個人的に。調べたいことがあっただけです」


「……調べたいこと、というのは」


「妹が、以前聖女として派遣されていましたので」


その言葉の終わりと同時に、視線が外れた。

私が見上げた時には、彼の色の読めない双眸は、既に部屋の出口を向いていた。



「では、そろそろ向かいましょう」


――――――


私は再び、重い扉の前にいた。

側にはローブを纏った人々が複数いて、何かに集中していた。

彼らはリクリテリオスの姿を認めると、手を止めて頭を下げる。

頭を下げながらも、その目は油断なく、扉の向こうと私とを交互に見ていた。


「街へと出る際は、担当魔法使い達に障壁の調整をしてもらう必要があります」


私は頷く。


「最初は時間を区切って、王城前広場を回ってみてください。桜並木があります」


リクリテリオスが地図を広げ、指先で一点を示す。


「何か感じるものがあれば、教えていただけると」


「感じるもの、といわれましても……」


「この季節、我々は長く外にいられない。桜へ近づくほど、苦痛が増すのです。

異世界の視点で思ったことを教えてもらえれば、十分です」


花見、という言葉が浮かんだ。

ただ、花見をするだけ。それならば、私にも出来る気がした。


「わかりました。いってきます」


「お気をつけて」


扉を出る直前、確かめるように、足を踏みしめた。

日の傾きで時間を測るしかないが、まあなんとかなるだろう。


私は教わった通りに進んだ。

円形の広場に着いた。桜の並木道。花びらは舞っていない。


「きれい」


そう思ったのは、いつぶりだろうか。


空気を染め上げる淡紅色の花。花直。花。

風が吹くたび、枝が揺れる。


今、私のまわりには、人っ子ひとりいない。

春の間だけ、街ごと空になるのだと聞いた。

日本では花見客でいつもいっぱいなのに。


「毒、か。……ほんとうに?」


胸いっぱいに、深呼吸する。

春の匂いが鼻腔を満たしたけれど、それだけだった。


風が吹いて、花びらが揺れた。

夢の中なら、毒くらい平気なのかもしれない。


幹に手を当ててみる。横筋の入ったかさつく樹皮。

見上げると、花が鞠のように固まって咲いていた。


「……ソメイヨシノに似てる、気がする。かなり老木に見えるけど」


おばあちゃんと歩いた、あの並木道とおなじ。



小さな背中を思い出す。桜の小さな鉢に向かって、鋏を動かす手。土と緑の匂い。

ふたつの枝を、丁寧に重ね合わせていく。


気がついたら、ポケットのお守りを握りしめていた。

中に入っているのは、小さな枯れ枝。祖母の形見、みたいなものだ。


忘れないように、ずっと持ち続けてきた。

故郷の桜に似ている。それだけが、私の観察結果だった。

初回は早々と、探索を切り上げることにした。




扉の先に、リクリテリオスがいた。

壁に背を預け、腕を組んでいる。


「ただいま、もどりました」


彼は顔を上げる。その目は素早く、私の全身を捉えた。


「時間通りですね。おかえりなさい、サクラ」


「観察結果をお伝えしたらよいでしょうか?」


「とりあえず、こちらへお掛けください。体調にお変わりは?……それはよかった。寒くありませんでしたか」


「少しだけ、肌寒かったでしょうか」


「ならば、外套を用意しましょう」


わずかな間があった。


「……古いものになりますが」


それきり、彼は観察結果の話へと移った。

こちらの桜は、故郷の品種にとても似てみえる。


それに、かなり年季の入った木ばかりだと感じた。


「年季の入った木か、考えたこともありませんでした。私が生まれた時から、枯れたという話や、植え替えたという話を聞いたことはなかったな」


「毒のことはよく分からないのですが――」


「十分です。あなたにとって、桜とはどういうものですか」


「祖母との思い出がつまった花、です。とても、たいせつな」


「……そうですか」


彼の視線が、窓の外の桜へと流れた。何かを探すように。


「色々と、こちらの世界の者とは見る点が違いますね。

今晩はゆっくり休んでください」


彼が待っていてくれていたのだと、部屋に戻ってから気づいた。

その日は疲れたのか、よく眠れた。

久しぶりのことだった。


――――――


探索の日々が続く。地図の印が増えていく。

そのうち、目的地は自分で選ぶようになった。


左足が、日ごとに良くなっていく。夢にしては、妙にリアルだ。

誰にはばかることもない、ひとりきりの道中。心が赴くままに景色を見ていた。

空腹を感じて、立ち止まった。


服装を整えたせいか、前よりも落ち着いて回れているような気がする。

袖が、少しだけ長かったけれど。


桜の木は、いたるところに存在している。

どれも老木ばかりだ。同時期に植えたのだろう。


ならば、終わりも、同時に来る。

続いてほしい、と思った。

思った瞬間、少し戸惑った。毒が続くことでもあるのに。


砂時計の砂は、残りわずかだった。

帰還が遅れた日は、リクリテリオスの顔がちょっと怖かった。


城に戻るたび、人々が遠巻きになる。何を言われているのだろう。

桜の香りが、まだ私についているのだろうか。

思わず足早になる。

――城下町ではあんなにも自由なのに。



あの世界では、明日のことさえ願えなかった。

この世界では、明日どの桜を見に行くかを考えながら眠る。

眠りにつくのに、何かが少しずつ醒めていくようだった。



桜の花弁に触れていた時のことだった。

視線を感じた。振り返っても、誰もいない。

桜の毒は、生命あるもの全てに作用すると聞いている。

調べ回ってはみたけれど、何も発見出来なかった。


気のせいかもしれない。

それでも、視線の感触だけが、どこかに残った。


――――――


その日も変わらず、彼が出迎えてくれた。ひと言ふた言、言葉を交わす。

不意に、その手が私へと伸びた。


頬の横をすり抜け、髪に触れる寸前。

指先が、わずかにこわばった。それでも、彼の手は止まらなかった。


なんだろう、と思う間に、彼は私の髪の花びらをつまんでいた。


あ、と息を飲む。

思い出したのは、乱暴に払われた花びらの姿。


気づくと、私はリクリテリオスの手に自らの手を重ねていた。

彼の指にある花びらを、私の指に移す。


見上げると、彼は花びらを失った後も、片手を差し出した格好で固まっていた。

その表情は驚きとも、それ以外とも、とれた。

彼はゆっくりと手をおろし、静かに拳をにぎる。


案じてくれたのだと、わかった。

「……ありがとうございます、リク」


私は、つまんだ花びらを宙に放った。


春へと溶ける花びらを、ふたりで見送る。

視線を戻すと、こちらを見つめる青い双眸があった。


「そうか。桜の花びらは、こう散るのか」


彼は小さく、自嘲めいた笑みを浮かべ、自分の指先を見る。

やがて、花びらの消えた方へ、静かに向き直った。


――――――


雨上がりの朝のこと。

水滴が軒先から落ちる音を聞きながら、前から考えていたことを試すことにした。


桜の根本を調べるため、立ち止まろうとしたその時。

左足が根に当たった。


次の瞬間、視界が傾いていた。

跳ねる泥。


なんとか地面に手をついたが、衝撃が遅れて全身に広がる。

痛い、というより、うまく息ができなかった。

立ち上がらないと、と思う。けれど、体は動かなかった。


「――っ、」


こぼれたのは、声ではなかった。

涙だった。


一筋、二筋では足りなかった。喉の奥が詰まる。

息を吸うたび、何かがひっかかる。

どうして泣いているのか、分からなかった。


息を吸う。

土の匂いが、胸いっぱいに広がる。

指先に触れているものが、確かにここにある。

冷たさも、湿り気も、逃げない。


もう一度、息を吸う。

涙が、ふと途切れた。


視界の向こうで、草の雫が光る。

風が、葉を揺らす。

……きれいだ、と思った。


ああ。

そうか。


もう一度、息を吸う。

今度は、苦しくなかった。


うまく言葉にならないまま、ただ涙が伝う。

止めようとは、思わなかった。


おばあちゃん。


『どうしたの、……ユイ』


握りしめたお守りの感触が、指先に戻る。

私は、ゆっくりと立ち上がった。


――――――


帰路につく。

汚れてしまった衣服を、どう説明しようか。


これ以上遅くなる訳にはいかない。彼に迷惑をかけてしまう。

それでも、足取りは思ったより軽かった。


「た、ただいまかえりま――」


「何かありましたか?」


気づいた時には、リクリテリオスの腕の中にいた。

私を支える両腕に包まれて、彼の胸元しか見えない。


「す、少し転んだだけです」


「気分不良で?」


「ほんとうに偶然、木の根っこに躓いた、だけで」


「ちょっと見せてください。……腫れてはないか」


汚れた腕を、丁寧に確かめられる。

地肌に触れる手の体温。


……体温?


何かが、引っかかった。

今までも触れたことはあった。なのに。


何かが、ずれた。

自分が動いたのか、世界が動いたのか、わからなかった。


思わず、顔を上げる。

目が、合った。

青い。


そう認識した瞬間、何かが、弾けた。

初めて、『彼』の顔が見えた。


ひとりの人間の顔として、初めて輪郭を持った。


息をしている。私を見ている。

――この人は、生きている。

理解が、遅れてやってきた。



夢は、覚めた。



「……サクラ?」


呼ばれて、我に返る。

こんなにも近くにいたのに、私は、今まで一度も見ていなかった。


無意識に止めていた息を吐く。


「大丈夫、です」


「しかし……」


リクリテリオスに覗き込まれた気配がした。

戸惑った眼差しと目があったが、私はそれどころではなかった。


もう、今までのようにはいられない。

けれど、不思議と、嫌ではなかった。

私は今、どんな顔をしているのだろう。


――――――


朝、目覚めた時、自分がどこにいるのか、一瞬分からなかった。

異世界だ。

そう思うだけで、呼吸が楽になった。


また、あの世界へと行けるのだ。

あの桜の下へ。


食堂で朝食を食べ、混雑がおさまるのを待った。

片付け中の食堂スタッフに、恐る恐る声をかける。


「あ、あの……」


「聖女様?どうかされましたか。失礼でもありましたでしょうか」


「いえ。お昼ごはんを、外に持っていきたいんです。

おべんとう、ってこっちの世界は言うのかな。

持ち運べる容器に、火の通ったものを詰めてほしくて。

フォークかスプーンも借りられますか」


「仕込みを利用すれば、ご用意出来ると思いますが。

少しお待ちいただけますか?」


「あ、ありがとうございます!」


私は思わず両のこぶしを握った。



「……なかなかいらっしゃらないと思えば」


「え」


すぐ隣から、低い声が降ってきた。

いつの間にか、真横にリクリテリオスが立っていた。


「思ったよりずっとお元気そうで、なによりです。

外で、お食事をされるおつもりですか?」


「はい、おべんとうを作ってもらっているんです」


「この桜の下で、食事をしたいと思う者がいるとは、思ってもみませんでした」


ため息をつかれた。

自分の食欲を他人に認識されるのは、思ったより恥ずかしい。


「お花見って」


「?」


「こちらの世界の方は、行わないんでしょうか。私の世界では春になったら、多くの人が、桜の下に敷物を敷いて、ご飯をたべるんです」


「そうなのですか?」


「はい。春の風物詩ですね。昼間に太陽の光の下で行うこともありますし、神秘的な夜桜を愛でることもあります。だから、その」


「……。なんと言えばいいのか」


リクリテリオスは自らの口に手を当て、考える様子をみせたが、その肩がかすかに揺れていた。


「異世界には妙な文化があるものですね」


彼は笑っていた。春みたいな笑顔だった。


「……あなたにとって、この探索が苦しいだけではないと知れたのは、よかった」


それきり、彼は口を閉ざす。



弁当が出来上がってきた。


「……桜の下で召し上がるのですか」


スタッフは、弁当箱を手渡すと、足早に奥へと消えた。

おかずのひとつに目がとまる。


「卵焼きがある……!」


突如現れた日本要素。


「この卵焼きって、この世界ではよくある料理なのですか?」


「昔からある料理ですよ。……もとはどこからか伝わったものと聞いていますが」


おべんとうに、卵焼きの黄色があるだけで、人はどうしてここまでわくわく出来るのだろう。甘いのだろうか。それともしょっぱいのかな。


「異常を感じたら、すぐにやめるように」


「はい」


私は真面目に頷いた。


「水分も持っていった方がいいな。鞄を用意させましょう。それに……」


「あの、リク?」


次々と繰り出される案。笑いをこらえて、はい、と相槌を打つ。


「ありがとうございます」


自分の声は、思いの外楽しそうだった。


――――――


気づいたら、街へ向かう私の足取りは、小走りになっていた。

弁当を入れた鞄が、私の背で跳ねる。


これまでは花弁や樹皮の観察が主だった。

今度こそ、桜の根を調べることにする。


一本の木の下で、膝をついた。

足は、もう痛くない。

根元の土に手を当てた。柔らかい。指が、思ったより深くまで入った。


土をかき分けると、桜の根が現れた。

想像よりずっと細いものもあった。指先でつまめるほどの、頼りない白さ。

簡単に、切れそうだった。


顔を上げる。

端さえ見えない、桜並木が続いている。


切れるのかもしれない。

でも、この街中の全ての木を、私一人でどうにかできるわけでもない。

今はそっと、手を離した。


また、視線。

振り返っても、誰もいない。


――――――


真上から、日差しが降り注いでいる。

街角の喫茶店らしき建物の前で立ち止まった。


「おなか、すいたー……」


オープンテラス。

桜の木陰になっており、ゆっくり休むことも出来そうだ。

弁当を広げる。蓋を開けると、いい匂いがした。


「おいしそう」


フォークで卵焼きを口へと運ぶ。


「あ、甘いのだ。やった」


おばあちゃんの卵焼きより、少しだけ甘かった。

ふふ、と笑い声が出た。


少しかじった卵焼きを、桜へかざす。

おばあちゃんとのさいごのお花見でも、ふたつならべて撮ったっけ。

撮れないのに、思わず、あの時と同じ角度を探していた。


「写メ、撮りたいなあ」


その言葉を発した瞬間。



風が、止まった。

音も、消えた。



いつの間にか、私は立ち上がっていた。

後ろで椅子が鳴った。


気づけば、桜吹雪の中。

足元から、頭上へ。花びらが渦を巻いている。


その向こうに、シルエットが見えた。輪郭が曖昧で、桜と溶け合うような。

人影に見えた。


真紅の双眸が浮かぶ。

こちらを見ている。

ただ、見ている。

何かを確かめるような目だった。



どれくらい、そうしていただろう。

やがて、花びらは人影と共に、町外れへ向かう道をなぞるように流れていく。


追わなくては、という思考より先に、身体が動いた。

今にも見失いそうな人影を追って、私は駆けた。

どれくらいの距離を進んだのかも、覚えていない。


必死な私をよそに、人影はゆっくりと進んでいた。

点々と残された花びら。その痕跡をたどるように、私は走る。

走っているのに、追いつけない。

街外れに近づいているのが分かった。


その頃には足が限界だった。息のせいか、頭がぼんやりする。

街の景色が、滲んで見えた。


気づいた時には、人影は見えなくなっていた。

再び人影を見つけることはかなわなかった。


のろのろと取り出した地図。

遠くに見える城の姿に、かろうじて方向が分かった。


王城前の広場にたどりつく。

人影の消えた方向を、振り返る。



ただ、桜だけが美しく咲き誇っていた。


――――――


「サクラ!」


リクリテリオスの表情は、すぐに曇った。


「何かありましたか。顔色が悪い」


「ええと……」


私は言い淀む。

気がついたら、鞄を奪われ、椅子を勧められ、温かいお茶を持たされていた。


「街で、人影を見たんです」


視線の端で、リクリテリオスの拳が白くなった。



私は語った。

桜の根本を調べていたこと。

昼食を食べようとしたこと。

そして、現れた存在について。


「人影に見えました。桜吹雪と溶け合うような、ふしぎな姿で。

目だけが、はっきりしていて。

やがて、人影はゆっくりと動き始めました。だから、私は……」


「まさか」


リクリテリオスの声が、一段低く響いた。


「追いかけたのですか?」


手の中にある紅茶が揺れた。


「は、はい。……見失ってはいけない気がして」


「なんという無茶を」


静かな声色だった。

にもかかわらず、私は顔を上げられなかった。

彼はしばらく、何も言わなかった。


「……無事で、よかった」


私は弾かれたように視線を上げる。


「ごめんなさい。考えなしでした」


「……」


やがて、彼はため息にも満たない、小さな吐息をこぼす。


「この街には、まだ私の知らない何かがある気がしている。

あなたに、それが向いてほしくないのです」


私は、彼の顔を見た。


「人影は、男性か女性か、わかりましたか」


「リク。あなたは、何を案じていらっしゃるのですか」


彼はしばし沈黙し、やがて語り出した。


「……お伝えすべきか、迷っていたことがあります」


窓の外の桜を、リクリテリオスは見ようとしなかった。


「私には妹がいました。

薄紅色のリボンを風になびかせながら駆け回るような、平凡な妹でした。

ただ、高魔力を持ち、聖女と認められる能力を有していた。

異世界から召喚された方とは違い、この国で生まれながら、そういった力を持つ者は珍しくはありました。

だからこそ、あなたと同じ任務についた。

……まだ、ほんの二年ほど前のことです」


地図の印が、頭をよぎった。個人的に、調べたかったこと。

あの言葉は、そういうことだったのか。


「私は驕っていたのです。桜の毒は、私が生まれる前からあった。

対策を重ねた結果、命を落とす者は、少なくなっていた。

だから妹が赴く時、魔力さえあれば大丈夫だと、そう思ってしまったのです」


リクリテリオスの双眸が、翳る。


「さいごに見た朝。彼女は、桜を見上げ、絶対に終わらせてみせると誓い、

――そして、二度と戻らなかった。

王国は毒死と結論付け、痕跡すら見つけられませんでした」


答えの出ないまま、この人はずっと立っていたのか。


「だから、妹を探してほしいと、お願いしたかったのです。

個人的なことなので、言い出せませんでしたが。

同じ理由で、あなたの道中が案じられて仕方がなかった」


風の音が遠い。リクリテリオスの吐息と、紅茶のゆらめき。


「街は確かに、桜の毒以外は平穏に見える。だが、本当に――?」


――――――


夜、自室で、地図を見ていた。

人影に出会った場所と、人影が消えた場所を思い起こす。


紙に指をすべらせる。

兄とその妹が書き込んだ地図。彼らの歩みを刻む印。


地図と地図の狭間に、ぽっかりと印のない空間がある。

人影の消えた先と、一致していた。



翌朝、私は地図を抱えてリクリテリオスの前に立っていた。


「人影が消えたのは、このあたりです。

地図の境目でわかりにくいですが、ここだけ、印がありません」


リクリテリオスは地図を覗き込み、眉をひそめた。


「……ええ。印がないということは、妹も私も、この場所には辿り着いていない」


「偶然でしょうか?」


「……」


「もう一度、行ってみます」


「だめだ」


間髪入れずに却下された。

自分の語気の強さに気づいたらしく、言い直した。


「許可出来ません。危険過ぎる」


「でも、せっかくの手がかりです」


「ですが」


リクリテリオスの言葉を、私は遮った。


「リク自身は、どうなのですか。最初、迎えにきてくださった時、毒の中を走ってきました。あれは、危険だったのでは?」


少し、間があった。


「……慣れています」


「慣れている?」


「毒に、自分の身体で慣れさせていました。探索に出たかったので。

それでも、あの場所には辿り着けなかった」


「む、無茶しますね」


「あなたほどではないかと」


「……それでも私は、行ってみたいと思います」


「……」


リクリテリオスの沈黙は長かった。


「ずっと」


彼のその声はかすれていた。


「あなたのことが分からなかった。

押し付けられて腹はたたないのかと。毒は怖くないのかと」


そんな風に見られていたのか。

彼は、少し苦笑した。


「正直なところ、今もわかりません。わかりません、が……」


再び、沈黙。やがて。


「あなたにしか、行けない場所がある気がしている。

それも、私の偽らざる本音です」


はい、と私は頷いた。


「条件があります」


「なんでしょう」


「時間を決めましょう。それを過ぎて戻らなければ、私が参ります」


「約束します。決して無茶はしません」


「……必ず、戻ってください」


その顔を、私はじっと見つめた。目が離せなかった。


そして私は、再び桜の街へと向かった。


――――――


そこは一見、普通の郊外の風景だ。

まばらな住宅、錆びかけの門扉、ゆるやかに続く道。


桜がない。ただそれだけで、景色はひどく静かだった。

頭がぼんやりする。今日は、まだ走っていないのに。


足が、行き場を失った。

だめだ、と心が警鐘を鳴らす。

眼の前に霧がかかる。

だめだ。


その時、視界の端で、何かが揺れた。

桜に似た色。色あせた薄紅色の、細長いリボンだった。

街灯の柱に、ひっそりと揺れていた。


私は、指を伸ばす。指先が、触れた。

それは、待ちわびていたように、素直に私の手のひらに収まった。


光が満ちる。

眩しさに、私は慌てて両目を閉じ――


次に開いた時、そこには、小さな丘と、その中央に一本の桜の大木が現れていた。


いつの間にか、桜が満開だった。


――――――


小高い丘に、一本の巨大な桜。

記憶にある限り、最も大きな桜の木だった。

大木の足元へと、歩く。

流れる花びらが、夢のように美しかった。


でも、もう、夢ではないと知っている。

風の音も、手のひらの汗も、土を踏みしめる感触も。


土。

しばらく歩き回った後、私は立ち止まった。

ほんのすこし、柔らかく感じた場所で、静かに膝をついた。


触れる。

土を少しずつ掘り進める。小さな根をかき分ける。

何を探しているのかは、自分でも分からない。

ただ。


指先になにか硬いものが触れた。引き上げる。

それを見て、私は、呼吸が止まった。


骨、ではなかった。

見間違えるはずがない。



「我が愛しの伴侶に、無礼は許さぬ」



人影が現れたのは、その瞬間だった。

思わず、手に力が入った。かちん、と鳴った。


桜と溶け合うような輪郭。

若い男にも、老いた男にも見える。

赤い双眸だけが、はっきりとこちらを見ていた。


「あなたは……。魔王、ですか?」


魔王は一歩、前進した。


「そう呼ばれていた時代もあった」


返答は素っ気なかった。だが、その目は私から離れない。


「そなたは何者だ」


これまでで一番強い視線だった。

迷いはあった。

それでも、答えはひとつしかなかった。


「私は、サクラです」


「サクラ?」


魔王は戸惑ったようにその名を繰り返した。


「いや、お前はさくらではない。何もかも異なる」


魔王の表情は歪んでいた。

後ずさる。背中が、幹に触れた。

逃げ場が、なかった。


「別人だ。別人のはずだ。なのに――なぜ、お前だけが桜の側にいられる」


気配が迫る。

視線を、手の中へ落とした。

土のついた小さな金属のフレーム。レンズはない。


見間違えようがない。

この世界には、存在するはずのないもの。

私は視線を上げ、問いかける。



「あなたの伴侶が、この『眼鏡』の持ち主ですか?」



「それを、眼鏡と呼ぶのか」


しばらく、沈黙があった。


「……返せ」


桜がざわりと乱れた。


魔王の手が、私へと迫った。

そして、壊れ物を扱うように、眼鏡に触れた。



赤い目の中に、屈託なく笑う眼鏡の少女を、見た。



――花びらが、舞う。

景色が、滲んだ。



突然現れた聖女は、金属の輪を顔につけた少女だった。


「わたし、あなたを倒して来いっていわれたんだけど。

……これ、ひょっとして、わたし侵略側?だまされた?」


呆れた魔王に、彼女はにへら、と笑った。


「わたしはさくら。よろしくね?」


屈託のない笑顔だった。私には、できない。



「帰りたいなあ……」


居着いた少女は、性懲りもなく言った。


「お花見したい。こっちは桜がないのつらーい」


魔王は彼女の記憶を覗き見た。

薄紅の花をつける樹木が、街中を覆っていた。


記憶の中の桜を、そのまま城に呼び出した。

目をまんまるにした少女は、笑うかと思ったが泣いた。



気づけば魔王城に、甘い黄色い塊が流行っていた。


「わたしの好物!」


彼女について、世界を回った。

うらやましい、と思った。



散らない桜を作ろうとしたこともあった。


「ちーがーうーの。桜は散るから美しいの。儚いからよいの」


「だが、散ってしまうと」


「また咲くじゃない」



やがて、さくらは老いた。

共に過ごした季節が、何度巡ったか、数えることをやめた頃。

彼女は最後にこう願った。


「この桜が、春が永遠に続きますように。

また、あの桜の木の下で会おうね」


だから。魔王は。



残されたのは、静寂ばかり。



世界から、色が消える。

それでも、春だけは守らなければならない。


願いはやがて毒になり。

桜は全てを遠ざけた。



――花びらが、散る。

景色が、戻った。



「さくらさん、という人がいたのね」


知らない土地に放り出されて、敵と呼ばれた相手に笑いかけた人。

素敵な人だと思った。


私なら、どうしただろう。

笑えなかったと思う。知らない場所で、知らない誰かに。

気づくと、胸元の布を、握りしめていた。


「卵焼きの好きな人」


そしてそんな彼女に、寄り添っていた人。



魔王の肩が揺れる。

風が吹いて、桜の枝が、彼へと身を寄せるように軋んだ。

枝に指を這わせ、手毬のように固まった花へと唇を寄せる姿。

絵画のようだった。


その目は、何を見ているのだろう。

この世界ごと毒と沈みそうな危うさを秘めてみえた。


私も、魔王も、目の前の桜を見ている。

けれど、異なるものを見ている。


彼女も、おなじだったのかな?

さくらさん。

巡る春を、ただ願っていた、優しい記憶。

散る花を惜しみ、枯れゆく木に悲しみを覚える。


それでも、そのままの形で、私たちは桜を愛す。




「ならば、どうする」


「どうもしません」


魔王は、知っているのだろうか。この桜が、そろそろ寿命を迎えることを。


「……この街の桜は、そろそろ寿命を迎えます」


気配が変わった。


「なぜそんなことがお前にわかる?」


声が、地の底から這い上がるようだった。

空気が凍り、桜の枝が、一斉に悲鳴を上げた。


「さくらさんと同じ桜を見てきたからです」


「それならば――理解出来るはずだろう!なぜ、滅びを口にする!」


魔王は咆哮した。


「なぜ、いま、今なんだ。お前はなんのために現れた?」


花びらが、男を守るように取り巻いた。


「彼女の愛した桜は、私が守る。永遠にだ!」



永遠に咲く桜。

その言葉が、胸の奥に沈んだ。


「永遠に咲く花は……ありません」


目を閉じた。


否定するのは、怖い。

言葉にした瞬間、もっと強い言葉で、押し潰される。

だから私は、流してきた。何も言わずに、心を殺して。


目の前にいるのは魔王と呼ばれた存在だ。

リクリテリオスの妹は戻らなかった。

一瞬、彼の顔がよぎった。

私を見つめて、私を案じる表情。

あれ以上、あの人に、そんな顔をさせたくない。


だけど。


呼吸が浅い。

それでも、息はできている。

このまま黙っていたら、この人は、本当に「永遠」にしてしまう。

そんな美しくないもの、私はいらない。


目を、開けた。


「それは、さくらさんの望んだ春じゃない」




魔王の双眸が、私を射抜く。

すべてが、止まっている。


「……望んだ春では、ない……」


自ら発した言葉に、傷ついたように見えた。

記憶に残る声が、消えてしまうのを恐れるように。


彼の中にいるさくらさんは今、どんな表情をしているのだろう。

思い出せればいいな、と私は思った。



「――止まれ!」


その時、声が割り込んだ。

次の瞬間、視界が遮られる。


「リク……」


名を呼んだ途端、安堵がこみ上げる。

私を隠すように立つその背中は、張り詰めていた。

肩で浅く息をし、剣の柄に手をやっている。


「下がっていてください」


リクリテリオスは、一歩前に出る。

緊張がこちらにまで伝わる足取り。


「こいつは……まさか、魔王?本当にいたのか」


「待って」


慌てて寄り添った。手を伸ばし、彼の肩に触れる。


「リク、もう少しだけ、ここにいて」


「理由を」


柄に置かれた指が震えている。


「まだ、間に合うと思うんです」


彼はそれを強く握りしめたが、抜くことはなかった。


「……わかりました。何かされた訳ではないのですね?」


魔王が、動いた。


「滅びをただ待てというのか。何もせずに。ただ、散るがままになれと」


私達は、魔王を見た。


「我々の春は……永遠だ」


まるで、自分に言い聞かせるように。


「でなければ、意味がない!」



次の瞬間、地面が、隆起した。

足元から、桜が裂ける。ふたつ、みっつ。無数に。


地面を割り、枝が伸び、花が開く。

視界の端で、空が閉じていく。

桜が、世界を埋め尽くす。


美しいのに。

恐ろしい。

ほんの一瞬、足が止まった。

見惚れたのか、怯えたのか、自分でも分からないまま。


「ユイ、こちらへ!」


手首を引かれる。つんのめりながらも、私は駆け出した。

誘われるがまま、開けた隙間へと駆け込む。

背後で、枝が絡み合う音がした。


振り返る余裕はない。走る。

どこへ向かっているのかも分からないまま。


「止まるな!」


その声だけを頼りに、足を動かす。


桜が、咲く。逃げ道が、埋もれていく。

囲まれている。


「……っ、くそ」


リクリテリオスの息が、今まで以上に乱れている。


「離れてください、ユイ」


反射的に、その手を握り返した。


「いやです」


言葉は、驚くほどすんなり出た。

彼は何も言わず、ただ一瞬だけ、強く握り返し、剣を抜いた。



一閃。

枝が断たれる。花が散る。

そのたびに、桜は増える。


「……っ」


リクリテリオスがよろめく。


「リク!」


「……大丈夫です」


けれど、その声は、掠れていた。

剣を構える手が、わずかに震えている。



それでも、また、切る。

だが。

膝が、折れる。


私は慌てて支えようとしたが、すれ違うように地面に、片膝をついた。

荒い呼吸に、桜の匂いが混じる。唇の色が、悪い。



迫る花。

私は、その花を真正面から見た。



咲き続ける桜。

どれも同じ色。

同じ形。

まるで、判で押したような。


おかしい。


これは、桜じゃない。

花はある。枝もある。けれど、どれも同じだ。老木ひとつひとつの、年月がない。

私は、ポケットの中のお守りを握りしめた。



「……繋がってません」


リクリテリオスが、振り返った。

視線が、重なる。

私は、彼の腰に差された短剣に気づいた。


「それ、貸してください」


「戦うつもりですか?」


「いいえ」


私は頭を振った。


「やってみたいことが、あるんです」


リクリテリオスは一瞬だけこちらを見て、すぐに頷いた。

柄をこちらへ向ける。

短剣は持ち主の体温で、すこし温まっていた。



「リク。私、あそこへ行きたいです」


私が指したのは、大木があった場所。

大量の花に埋もれながらも、以前の枝ぶりも見える。


「わかりました」


彼は額の汗を、腕で乱暴に拭い、剣を握り直した。

今度は、無闇に切らない。

一本の線のように、道を切り開いていく。


走り出すリクリテリオスの背を、必死に追う。

舞い狂う桜の花びらを避け、切り落とされた枝を飛び越えて。


そして、一本の大きな枝が、視界に入った。


リクリテリオスの動きが止まる。

狙いすましたように、剣が振り下ろされた。

その一振りで、道が出来た。

私は駆け出す。


彼は私を送り届けると、大量の花が襲いくる方角へ、再び背を向けた。



私は枝へと手を伸ばす。指先が、幹に触れた。

音が、消えた。



幼い日の記憶が、蘇る。

ソメイヨシノは自然に増えないの。

――じゃあ、どうやって増えるの?


私はお守りを取り出す。

中には、小さな枯れ枝が入っていた。


幼い日、誤って桜の枝を折ってしまった。

祖母は怒らなかった。けれど、私の涙は止まらなかった。

私が奪ってしまった生命のかけら。


『桜はね、人の手がなければ増えることもできないのよ』

『悲しいなら、忘れないこと』


だから私は、ずっと持ち続けていたのだ。



祖母のそばで見ていた手つきが、指先に蘇る。

枝を切り、重ね、結び、ひとつにする。

それは、接ぎ木と呼ばれていた。



私は短剣を強く握る。

震えそうな手を、逆の手で落ち着かせて。


木肌に刃を当てる。思ったより硬い。

角度を変えて、もう一度。少しずつ、削れていく。

枯れ枝を重ねる。合わせ目を確かめる。


――固定が、いる。

手が止まる。

でも、ああ。


ポケットの中の、薄紅のリボン。

彼にとって、大切なものだと分かっていた。

躊躇は一瞬。


リボンをほどく。

片方の端を咥え、空いた手で枝を押さえる。

うまく力が入らない。歯を食いしばる。息を吐く。


おばあちゃんの手は、こんなに器用だった。

私の手は、震えている。それでも、動く。

ずれないように押さえながら、リボンを巻いていく。

一周、二周。きつく、もう一周。

結び目を、指で確かめた。

ほどけない。



気がつくと、すぐそばで、赤い目が、食い入るように枝を見ていた。



「接ぎ木、といいます」


私は、結び目を見せた。


「力を貸してください。

私、これがもう一度咲くところを、見たいんです」


あなたなら、咲かせられるでしょう?

あなたには、花を咲かせる優しい力がある。そう、知っている。



魔王は動かない。ただ瞳だけが、揺れている。



「だが、私は守り続けなければならない。

彼女が愛したこの桜の世界を。

ふたたび会おうと、彼女が願うのならば」


守ろうとしたものすべてを、閉ざし、遠ざけて。

どんな手をつかっても。


「私も、たくさん、忘れかけていました」


色の消えた世界。置き去りにされた心。


「……失うことは悲しい。でも、忘れなければ、消えない。

散るから、また会えるんです」


ずっと押し込めていたもの。

言葉にしなかったもの。


私は、深く息を吸った。


「私は、佐倉結サクラユイ。結ぶために生まれた名前です」


花が、止まった。


「あなたが守りたかったものも――きっと、つなげます」


きっとまた咲きます、と笑ってみせた。



魔王の沈黙が、一瞬だけ軋んだ。





花は、雪のように静かに降り注ぐ。




魔王が、私の目を覗き込む。

視界が、揺れる。


春の日差し。

風に揺れる桜。

誰かの笑い声。


桜を、共に見ていた。


『また咲くじゃない』


柔らかなその声。確かに、そこにあった記憶。


「……彼女は、確かに、そう言った」



長い沈黙があった。

時間だけが、置き去りにされたみたいに。



やがて、魔王の手が、ゆっくりと降りてきた。

触れるか触れないかの距離で、止まる。


そして、その手が、静かに枝に触れた。

その瞬間、継ぎ目が淡く光を帯びる。



金色へと変わっていく。

光は静かに広がり、幹を伝い、枝へと満ちていく。



「桜は……」


黄金の雨の中、静かな声が降り注いだ。


「桜は彼女が望んだ通りに散って、それでも……続いていくのか」


「はい。……きっと」


魔王も、静かに微笑んだ。


「ならば、よい」



光が、弾ける。

すべては薄紅の光となって――魔王の声が、霞んでゆく。


「さくら……」


春に還っていく。




光が収まる。

静寂。


ゆっくりと、目を開けた。

無数の桜の花は消えていた。


残ったのは一本の老木。そして、その傍らに寄り添う、小さな枝。

 

幼い葉が風に揺れる。

薄紅色のリボンを、結んだまま。


――――――


「……生きてる」


呟いた瞬間、膝が崩れかけた。

肩に重みがかかる。

リクリテリオスがすぐそばにいた。


「……お互い様、ですね」


彼が、息をついた。

私も思わず小さく笑う。

ふたりでゆっくりと、立ち上がった。


「はい」


見上げると、少し寂しげな青い双眸が揺れていた。

彼は微笑み、視線を大木へ向ける。

 


「ここに、いたんだな」


私もその視線を追う。

薄紅色のリボンが、揺れていた。

彼の指が、そっと触れる。


「……やっと見つけた」


彼はしばらく動かなかった。

やがて、ゆっくりとこちらを向いた。


「妹を見つけてくれて、感謝します」


「……リボン、勝手に使ってしまって」


「いえ」


リクリテリオスは首を振る。


「あの子のことだから、特等席をもらえたと、喜んでいるでしょう」


ほんのわずか、悪戯めいて笑っていた。


「そういう子なんです。聖女としての務めも果たせて、きっと」


「リクは……体調は?」


顔を上げると、彼はいつものように頷いた。


「先ほどまでは息苦しさがありましたが、今はまったく」


「じゃあ……」


「ええ、もう大丈夫でしょう。ありがとう、サクラ」


「あの、リク」


「はい」


「私の名前……サクラは、佐倉は、名字なんです」


初めて、自分の名前を誇らしく思った。


「本当は、ユイといいます。結ぶ、という意味の名前です。

祖母がつけてくれた、大切な名前」


まっすぐに彼を見上げた。


「あなたにだけは、この名前で呼んで欲しい」


「……ユイ?」


「はい」


頷く。


「ユイ」


静かに落ちたその音が、胸の奥に広がっていく。

すべての春が散り、――また咲く予感がした。


――――――


時は初夏。

人々は扉を閉ざす必要はなくなり、街は笑い声と活気に満ちている。


街角の喫茶店。オープンテラスの木陰。

風が抜けるたび、グラスの水滴がかすかに揺れた。


待ち合わせ時間まであとわずか。

空を見上げていた視界の端に、足早にやってくるリクリテリオスの姿が映る。


「ユイ、お待たせしました」


正面に腰掛ける彼の装いは、以前より軽い。

半袖の服が、季節の移ろいを感じさせる。

現れたウエイトレスに、彼は冷たい飲み物を注文した。

テーブルを挟んで向かい合う。


それだけで、不思議と落ち着く。

少しだけ、くすぐったくもあった。


「調査の結果がまとまりました」


彼はそう切り出した。


「桜の毒は、強い感情のようなものが、長い年月をかけて桜を変異させた結果だと考えられています。その感情が消えたとき、毒もまた消えた――それが王国としての結論です」


言葉は返さず、ただ頷く。


「これは、私見に過ぎませんが」


風が、テーブルの上を通り過ぎた。


「あれは、憎しみだけではなかったのでしょう。

でなければ、あれほど長くは、続かなかった」


アイスティーが運ばれてくる。


「……埋葬、ありがとうございました」


「いいえ。……あの子も、ようやくかえれました」


あの桜の下に、かえるべきものは、すべてかえった。



からん、とグラスの中の氷が鳴る。

その向こうで、視線が交わる。


どちらからともなく、言葉が途切れた。

沈黙は、心地よかった。



「……あなたは、帰りたいとは思いませんか」


空を見上げる。

桜の季節より、青さを増した空を。


あの頃の景色と、まだ見ぬ春が、まぶたの裏で重なった。

しばらく、言葉が出なかった。


「……気づいたら、やりたいことが増えていて」


自分でも、少し可笑しかった。


「不思議なんですけど」


リクリテリオスは、ゆっくりと、息を吐く。


「聞いてもいいのでしょうか」


一瞬、目を伏せた。


「聞いてもらわないと、困ります」


「うん」


「今度は、一緒に街を回りたいのです」


そうして、と続ける。


「来年の春も――新しい桜を、あなたと」


リクリテリオスは、わずかに目を見開いたあと、柔らかく笑った。




桜の下には、聖女が眠っている。


春になると、また桜は咲く。

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