第90話 結界師は実権を得た
「エビルス隊長! 勝手に持ち場を離れるのは軍規違反です!」
「うるさい! お前は副隊長だろ! 隊長である私に指図するな!」
俺が籠っていた整備士用テントを出て、領軍の指揮所に近づいたら、ボンボン隊長とクリストフ副隊長が言い合っている真っ最中だった。
どうやら、ボンボン隊長たちが密かに逃げようとしたのがバレたらしい。
「ザインさん、非常に声がかけづらい状況なんですが……」
ただでさえ俺はボンボン隊長に目の敵にされている。
そんな人間が揉めている場に顔を出すなんて、火に油を注ぐようなものだ。
「しかし、時間がありません。場を収拾し、撤退に繋げるしかありません」
何とも厄介な課題だ。
だが、時間が無いのは事実だ。
ここは正攻法を捨てよう。
「こんにちは。失礼します」
俺は緊急であることを隠して、あえて普通のテンションで領軍指揮所に入った。
「貴様、ここに何をしに来た!!」
予想はしていたが、ボンボン隊長の機嫌は先ほどの倍くらいに悪くなった。
クリストフ副隊長もボンボン隊長の激昂ぶりに一言も発せないようだ。
「指揮所から口論が聞こえましたので、伺いました」
「貴様が心配するようなことではない!! 越権行為で拘束するぞ!」
(心配で見に来ただけで『越権行為』とは、本当にこの人、大丈夫か? )
「まあ、これでも食べて落ち着いてください」
俺は亜空間バッグからミオとのデートの時に出店で買った、リンゴの蜂蜜漬けの瓶を取り出した。
「こ、これはリンゴの蜂蜜漬けではないか………フン! このようなものを差し出しても貴様が犯した罪は消えはしない。だが、もらっておいてやろう」
そう言うと、ボンボン隊長はあっという間に瓶に入ったリンゴの蜂蜜漬けを平らげてしまった。
(この人、本当に貴族の子息なのか? まるで子供だなぁ)
「う、うま……いや、まあまあだったな! 仕方ない、これで不敬を赦してやる。さっさと出て行け!」
ここで退いては意味がない。
俺はあえてへりくだった調子で食い下がった。
「まあまあ、そう言わず。……ところで、なぜ隊長さんは逃げ……いえ、急いで撤退しようとされていたのですか?」
「そんなことお前に関係ないだろうが!! さっさと失せろ!」
まあ、予想通りの展開だ。
「まあまあ、そう言わず、情報料としてこれをお収めください」
俺は今度は亜空間バッグからリンゴパイを出した。
これも、デートの際に買ったものだ。
「き、貴様、こんなもので買収できると思うなよ! だが、捨てるのももったいない。もらっておいてやろう」
(誰も捨てるなんて言ってないんだが……。この人、やっぱり子供だ。以後は、わがままな子供として接しよう……)
「うまい……、い、いや、こんなものいくらでも買って食えるんだからな!」
(明らかに買いたくても買えない人間のセリフだ……。あちこちに借金しまくってもう誰にも貸してもらえないのかもしれない)
ちなみに、これらのスイーツは、今回の作戦で万が一の時のためにと思い買ったもので、そこそこいい値段がする。
同じものが三人分、キャサリンの亜空間バッグにも入っている。
(まあ、別の意味で万が一の時のためとなったわけだが……)
「それで、隊長さんは何故撤退しようとされたんですか?」
「これしきの食べ物で私の心が動くなんて思うなよ! だが、お前の必死の懇願に免じて教えてやろう」
(別に必死に懇願してないんだが、まあ良いだろう)
「父上が持たせてくださった通信法術具に連絡があったのだ。マナエルをワイバーンの群れが襲ったとな」
「「「なっ!」」」
俺とクリストフ副隊長とザインさん、三人が絶句した。
「ワイバーンの群れは大聖堂を完全に破壊したそうだ。私の親類がマナエルから避難する際に私にそのことを知らせてくれたのだ」
(これは信じていいのか? ……いや、これは真実なのだろう、だが、聖樹からの深刻な反応がない所を見ると、マナエルにはさほど大きな被害はなかったと見るべきだろう……)
俺はそう思いつつ、聖樹の枝から作った指輪と肩から下げた瓶の中にいる聖樹の分体を見つめる。
「そうですか。教えていただきありがとうございました。それで、そのことと、隊長さんが撤退するのと何の関係があるんでしょうか?」
俺がそう尋ねると、
「お前は馬鹿か? マナエルがワイバーンに襲われ、大量の裕福層が逃げ出しているんだぞ。それを護衛すれば大金が……ゴホンゴホン、いや、避難民の安全確保も領軍の重要な役目だからな。我々はその重要な任務を遂行するために撤退するのだ!」
「そ、そんなことは領主様からも将軍からも命令されていません! 下手すると命令違反の敵前逃亡の罪で裁かれますよ!」
クリストフ副隊長がようやく口を開いてボンボン隊長を諌める。
「うるさい! 現場の判断は臨機応変なのだ!」
「我々には既に輜重隊、整備士、治癒師、通信士たちを護衛するという重要な任務があります。臨機応変などという理由で任務を放棄するなど赦されません!」
「そうか、ではお前一人で任務をこなせ」
「なっ、何を!?」
(このボンボン隊長、とんでもないことを言い出したぞ!)
「そうだ、これを使おう」
「そ、それは法力記憶紙!?」
「そうだ。これに記録された命令は軍法会議の証拠となる。クリストフ副隊長、お前にマナエル領軍剣士隊隊長として命令する。剣士隊の当初の目的通り、輜重隊、整備士、治癒師、通信士を護衛せよ」
ボンボン隊長がその紙を取り出し、クリストフ副隊長に命令すると、その紙に文字が浮き上がり、命じた命令が記録された。
「この紙がある限り、お前は一人で護衛任務をこなす必要がある。これに反すれば軍法会議で裁かれる」
そう言って、その紙を懐に収めて指揮所を出て行った。
「いったい私はどうすれば……」
一人残され苦悩するクリストフ副隊長。
俺たちも、あまりにも非常識な行動に何も言えずに、成り行きをただ眺めているしかできなかった。
しかし、事態はさらに最悪な方向へと進む。
「シド様、森の様子が急変したでやんす。急激に魔素濃度が高まってるでやんす」
ジンさんが駆け込んできた。
「クリストフ副隊長、森の様子が急変しました! 敵の罠です!」
「罠だって!? しかし、俺にはもう……」
確かに現在の状態では非戦闘職を護衛して撤退することはできない。
あのボンボン隊長は護衛任務を放棄して、自分たちだけで撤退しようとしている。
ボンボン隊長から情報は引き出せても、俺には何の権限もない。
みんなが整備士長なんて言ってるが、俺自身は誰にも任命されていない。
「打つ手がない……」
俺はそう呟いた。
しかし、俺はその時思い出した。
キャサリンの言葉を。
『よく聞いてほしいですわ。シド、これから何か問題、特に領軍絡みで問題が起きたときには、この中身の手紙を開いて読んでほしいのですわ』
俺は急いで亜空間バッグに手を突っ込んで、手紙を取り出した。
その手紙は封蝋で綴じられていた。
俺は封蝋を割り、中身の手紙を取り出した。
一読して、一瞬何が書かれているのか理解できなかった。
文字が読めなかったわけではない。
そこに書かれている内容が、あまりにも現実離れしているので、俺の理解を超えてしまったのだ。
俺が手紙を開いて固まっているのを見て、ザインさんが近寄ってくる。
「シド様、その手紙は何でしょうか?」
俺がその手紙を手渡すと、
「なっ!」
ザインさんも絶句し固まる。
その様子を見てクリストフ副隊長も寄ってくる。
「何が書かれているか、読ませてもらっても良いですか?」
俺が無言で頷くと、
「では、失礼します………こ、これは!」
そこにはこう書かれていた。
聖樹工房 工房長 シド
この者に家名『ラディクス』と子爵位を与え、キャサリン・ヴァル・マナエルの婚約者とする。
加えて、マナエル公爵領、臨時司令官の地位を与え、マナエル領軍および法術師大隊全軍への指揮権を与える。
シルバニア王国国王 エドマリス・ヴァル・シルバニア
マナエル公爵領領主 ジョセフ・ヴァル・マナエル
俺は、国王の御璽と公爵の花押が並ぶその署名を、しばらく無言で見つめた。
そして、彼女がいる森の方へ視線を移し、
「キャサリン、君はずるいな。でも、ありがとう」
と、静かに呟いた。




