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05話 輝く髪とオイルの神様(前編)

その日は朝から雪がちらついていた。


例年よりひと月は早いのではないかと、出がけにアーネが愚痴っていたのを思い出して、ナナリはくすりと思い出し笑いをする。

どうせ暇な老人がお茶を飲みにくるだけなのよねぇと言いいながらも、嫌そうではない。そんな様子が妙に可愛らしかったのだ。


そんな楽しい思い出に現実逃避していたナナリの手には、生ぬるくなった雑巾が握られている。

滑るように階段の手すりを拭き上げ、窓枠を丁寧になぞる頃には人肌に暖まっていてちょうど良いのだが、洗わないで使い続けるわけには行かない。


意を決してバケケツに浸けると、あかぎれの傷に染みるような鋭い痛みが走る。

まるでシャーベットのように冷たかったが、もたもたしていると直ぐ昼になってしまう。

カサカサで赤くなった指にほうっと息を吐いて気合いを入れ直すと、ぱたぱたとリビングへと向かって駆けていった。


「ルンドベリさーん!」


リビングの掃除が終わり、リネン関係に取りかかろうとしていた時、ガランガランと裏口の呼び鈴が鳴らされた。

ブザーではなく、大きな真鍮の鳴子を使っているルンドベリ邸の名物だ。


「は、はい」


大邸宅というわけではないが、部屋数も多く立派な邸宅であるルンドベリ邸を、ジェネラルメイド一人で切り盛りするのは大変である。

たとえベッドシーツを張り替え中だったとしても、中断して届け物には対応しなくてはならない。


「いまっ、いきます」


二階の端から裏口の扉まで到達するにはそれなりの時間がかかってしまうので、とりあえず二階の窓から返事をしてから慌てて階段を下りる。

今日午前中に来る予定なのはフーゴ小麦店とペペ配管なので、そのどちらかであろうと当たりを付けながら依頼内容を頭の中で復唱していた。


(小麦は二袋、持てないから地下倉庫まで運んで頂く。配管はバスルーム横の漏水を直してもらう)


予行演習を済ませ、どちらが来ても完璧な状態を整えてから、ゆっくりと扉を開けた。

大柄な髭のおじさんであればフーゴ小麦店であり、眼鏡をかけた細身の男性ならばペペ配管なので、見間違えることは無い。


「お待たせしまし…た?」


だが、裏口に立っていたのは、黒い帽子を被った郵便配達の青年であった。

硬直するナナリと同様に、青年もまた面を喰らったように動きを止めていた。


たかだが2~3秒なのだろうが、訪問客を前に固まるには充分失礼なほど長い時間だ。

我に返ったナナリは深々と頭を下げて非礼を詫びた。


「す、すみませんでした。郵便でしょうか」


「お、わ。うんそう、配達員のリオネルです…けど…ここルンドベリさんの家ですよね?」


リオネルは思わず一歩下がって建物を見直すが、間違い無く届け先の家であった。

ほんの二週間前に郵便を配達した時にはアーネ本人しか住んでいなかったはずだ。

今日だって、半ば不在であると諦めつつの訪問だったので、人が出てきた事に激しく動揺していた。

それも珍しい青い髪の可愛いメイドだったので、尚更だ。


「はい、そうです。お手紙でしたら、私がお預かりします」


「そ、そう?じゃあよろしく、6通ありますんで。あれ5通だっけ、いやえっと」


郵便バッグの中をひっかき回す様子がおかしくて、ナナリはエプロンの裾を握りしめながら必死に笑いをこらえていた。


「ああやっぱり6通です。で、ではまた!」


「はい。ありがとうございました」


なんとか最高の笑顔を作って見送ると、帽子を目深にかぶり直して門まで走っていくリオネルの姿が見えなくなるまで、そこにいた。

その後、手紙の束を書斎へ届け、ベッドメイキングを再開すべく屋内へと戻るのだった。


†-†-†-†


「はああぁぁぁ~」


テーブルに置かれた一通の手紙を目の前にして、アーネの唇から長い長いため息が漏れ出した。

コロンと頭をコロがして頬をテーブルに張り付けると、腕と足を伸ばして子供のように駄々をこねた。


「行きたくない。あーやだやだやだ」


肩で揺れるアッシュグレイの髪は、鍋で踊るカペッリーニのようである。


だが、現実逃避をしていても誰かが助けてくれるわけではない。

のろのろと手紙に手を伸ばすと、もう一度内容を確認した。


何度読んでも同じ事が書いてある、全くもって不愉快だ。

読むたびに表現が変わる工夫ぐらい欲しいわ、などと口をとがらせて文句を言っていたら、ふんわりとしたミルクティーの香りが漂ってきた。


「お砂糖は入れますか」


「ああ、良いタイミングで。甘いのが欲しいわ。お願い」


メイドが居るってなんて素晴らしいのかしらと感動しつつも、目は手紙から離れなかった。

アーネは思う。

睨んでいれば、燃え尽きてくれるかもしれないではないか、と。


もちろんそんな事は起こらなかった。


「いつお出かけになるんですか」


「一週間後の夜になるかしら。そろそろ言い訳のネタも尽きたし、いい加減に顔出さないと不味いのよね。はぁ…ドレスを仕立て直す時間は無いから、適当な組み合わせで行くしかないか。オバサマ達の嫌味が今から聞こえてくるわ」


ブツブツ考え込むアーネの横でナナリはお代わりのミルクティーを注いでいる。

おそらく夜会に誘われているのだろうと想像し、準備するもの、手順、留守中の仕事などを考えながら。


ふいに、アーネが顔をあげてボソリと呟いた。


「ナナが一緒に来てくれると楽なのに」


「え」


とんでも無い事を呟く主人のせいで、手にしたミルクティーのポットを溢しそうになったが、何とか持ち直した。

もちろん、夜会になど着ていく服もなければマナーも知らないから無理である。

激しく頭を振った。


アーネとしても本気だったわけではなく、ちょっと言ってみたかっただけよとションボリ肩を落としていた。

よほど嫌なのだろう。

夜会と言えば、きらびやかで豪奢というイメージしかなかったナナリだが、アーネの様子を見ているとあまり楽しくはなさそうに思えた。


(冷たい水の痛みはすぐに無くなるけど、冷たい視線や言葉からくる痛みは、いつまでも続くもん…)


せめて、一つくらい楽しみにできる要素を持たせてあげたかった。

そして女性といえば、やはりお洒落であろう。


(どんな嫌味も寄せ付けないほどの、武器をつくる!)


「あの、庭のカモミール使っても良いですか」


「カモ…?」


「あと、少しお時間をいただければオイルも作ってみます」


「ごめんなさい、何の話?」


一週間後、落ちかけた陽の光が射し込む玄関前で待機していた二頭立ての馬車に、サルビアブルーのドレスを身にまとったアーネが近づいていく。

御者の男性はため息混じりに見惚れていたが、すぐに我に返ると扉を開けて恭しく車内へと案内する。

優雅な仕草で馬車に乗り込むアッシュグレイの髪が、夕日を浴びて目映い銀の輝きを放っていた。


あれから毎晩、ナナリの精製したオイルで頭皮をケアし、カモミールで髪の艶をとことん追求した。

もちろん絶妙なブラッシングも毎朝続けた。


その結果が、これである。


夜空に浮かぶ満月のように煌めく幻想的な髪と、生来の整った容姿が合わさって、女性のナナリから見てもしばらく視線が外せないほどの魅力を放っていた。


「じゃあ、行ってくるわね」


「お気を付けて」


ヒラヒラと振る手に、ナナリは深くお辞儀をして応えた。

肩から腰にかけて広がる大きなショールは、黒絹シャンティイ・レースだ。

サラサラと流れる髪の輝きを引き立てる最高のアイテムといえる。


どんな貴族が来ようとも、今夜のアーネが引けを取ることはあるまい。

ナナリはやりきった満足感と、心地よい疲労に包まれていていた。


もっとも、実を言うとほんの少し私欲もあった。

そっと触れたエプロンのポケットから、余ったオイルで作ったハンドクリームを取り出した。


「効くといいなぁ」


治りますようにとハンドクリームの神様にお願いし、あかぎれにオイルを塗り込むのだった。

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