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03話 バケツの幽霊(前編)

―おはようございます。


鈴の音を思わせる心地よい声が、まどろみの中で響いてきた。

アーネは僅かに身じろぎしながら、寝返りを打つ。


(誰かに起こされるのって、素敵だ)


小さな喜びを噛みしめながら、ベッドで丸くなっていると、カーテンを引くわずかな音とともに、朝の光が射し込んできた。


やがて、カチャリと陶器が触れ合う音とともにふんわりしたミントの香りが漂い出すと、ようやくもぞりと顔を出して挨拶をする。


「おはよーぅ」


「お茶をお持ちしました」


「ありがと」


ほつれた髪もそのままに、ベッドサイドに置かれたハーブティーのポットを手にする。蓋を開けた直後に漂うこの香りが堪らない。


「んー」


アーネが起きるまでの4~5分が丁度良い蒸らし時間となり、ほどよい香りと味が抽出される。一口飲んでまた香りを楽しんだ。


ふと横に視線をずらすと、ナナリが化粧の間にあるドレッサーの横でブラシの準備を整えていた。欠伸をしながらカップを手にそこへ移動し、椅子に腰掛けると自然にナナリの手が伸びてきた。


丁寧に髪にブラシを当てていく。

ああ、今日も気持ちが良いわぁと感動しつつ、鏡に映ったナナリの姿をチェックする。


(やっぱり濃紺で正解だったわね)


アーネはメイド服の完成度に満足すると、ゆっくりと目を閉じた。

サラリと衣擦れの音がアーネの耳に届く。


黒ではなくあえて濃紺を選んだ生地は実用性優先で綿。

袖や襟は特にこだわった。白のステッチで飾り、微妙なアールで構成されているのでふんわりしたイメージを受ける。


腰のリボンは邪魔にならない程度の大きさで我慢したが、カチューシャは特注だ。本来の髪留めという役割を果たすべく、余計なフリルは無いが細かいレースをあしらい、椿の花を模した小さなアクセサリーをピンポイントに飾ってある。


エプロンの縁にも細いチェック柄を入れたり、花柄を混ぜてみたりと、遊びゴコロを忘れていない。

来るべき日のために、長年アーネが考え抜いたメイド服である。抜かりなど有ろうはずが無い。


(ああ、今週はチェック柄エプロンで押してみようかしら。控えめに入れると大人っぽくて良いわよね)


などととりとめも無い事を考えながら、思考はナナリ自身のことへと移っていった。

当初は『掃除ぐらいは出来るだろう、駄目ならゆっくり教えてあげよう』なんて思っていたのだが、とんでもなかった。


お茶の煎れ方も知っているし、料理も絶品だ。一つ一つの所作が丁寧で、よけいな事を言わない。

小さいせいで一生懸命走り回って掃除をしなくてはならないが、静寂より明るさを好むアーネにはちょうど良い。


(まさに理想のメイドではないか)


メイドとして雇う事を決断した過去の自分を、心の中で誉めた。

それはもう、べた褒めした。


「あの」


「ん?」


自分に誉められてニヤニヤするなんて不審者みたいだわと思っていたら、控えめにナナリが耳元で囁いた。


「そろそろ、お時間が」


「あ、もうそんな時間?」


いつの間にか髪を梳かし終わり、ミントティーも空になっていた。

ナナリはブラシの使い方がとても上手い。


毛先から始めて毛先のもつれを取ると、中間部分を、そして生え際からゆっくりと撫でるようにブラッシングをしてくれる。

使うブラシも変えながら適度に頭皮もマッサージするものだから、気持ち良すぎて油断していると涎が出てしまうので要注意だ。


ハッと気を引き締めた次の瞬間にはもうトロンと目が落ち…なんて事を繰り返すうちに、いつの間にか時間が経っている事がしばしばある。


「適当に服を選んでおいてくれる?」


ナナリは黙って頷くと、クローゼットのある部屋へと下がっていった。

無愛想な訳ではない、物静かという感じだ。うまく表現できないのがもどかしいが、アーネはその空気感が好きだった。


それに何故かナナリはすごく馴染んでいる。まだ一緒に住み始めたばかりだというのに、ずっと前から側にいたような感じなのである。


「なーんか、不思議」


もう一度欠伸をしながら食堂へと下りると、こんがりと焼かれたクルミパンの良い香りがした。中にはカリカリベーコンとオニオン、レタスが挟まったシンプルなサンドイッチが置かれている。余計なドレッシングはかかっておらず、塩と胡椒だけ。

アーネ好みの味付けだ。


「胃袋を捕まれたわ、女の子に」


ぽそりとつぶやいた所で、ナナリが紅茶を運んできた。

今朝はミントだったので半ば予想していたが、キャンディー紅茶の香りがする。


おそらくミントも少し入れてあるのだろう。

こんなちょっとした事が、楽しく感じられるのだから不思議なものだ。


「今日は晴れるかしら」


「東風の時は、晴れる事が多いようです」


この国は天候が変わりやすいので、予想する事はあまり意味がない。

わからなければ傘を持って行けば良いのだから。

ただ、なんとなくアーネにも晴れの予感があった。


「晴れたら、お掃除よろしくね」


「はい」


ナナリは心持ち緊張した顔で頷いた。


†-†-†-†


まず、『モップ』は柄の長さが重要である。

ナナリの背は140cm少々なので、一般的なモップでは水桶に入れるのが大変だ。

手にするモップは、短かく取り回しのよいオーダーメイド品である。


次に、『デッキブラシ』は柄の太さが重要である。

ナナリの手は小さく、一般的な柄では力を入れてゴシゴシ擦ることができない。

手にするデッキブラシは、グリップの付いた細目のオーダーメイド品である。


最後に、『バケツ』は控えめであることが重要である。

ナナリは体力があるものの筋力が低く、大きな木のバケツでは運ぶことができない。

手にするバケツは、小さめでキャスターが付いたオーダーメイド品である。


以上がアーネによってオーダーメイドされた掃除道具の一部である。

雑巾、ハタキ、洗剤などその他の掃除道具は既製品であるが、大物はすべて特注品。

この家の主がメイドにかける情熱はもう、執念に近いものがあった。


「壊さないように、気を付けよう…」


パタパタとハタキをかけながら、黙々と仕事をこなしていく。

ナナリはメイドの仕事中、気になった事柄を『こっそり帳』にメモをする。


【2階最奥ゲストルーム 蝶番 オイル】

【ロビー カーペット ほつれ】

【塩、オリーブ少な目 5日分】

【エビ好き】


など、手早くイラストを添えて記録していく。

懐中時計を除けばほとんど唯一の私物といって良いそのメモ帳は、縦開きの小さい物だった。

表紙は薄いオレンジとクリームの中間くらいの色合いをした皮で、中の用紙には薄い方眼の柄模様が描かれている。

最初の数頁が破られているのが残念だが、これは貰った時からそうだった。


何故破られているのか、その人に聞いた事があるが、笑うばかりで教えてくれなかった。

とても大事な事が書かれていたので、大切に切り取って保管してあるのだそうだ。貰った当初はそれが何なのか気になって、モヤモヤした日が続いていたが、今ではもう手放せない大切な存在になっている。


「無くさないようにしなくちゃね」


愛おしそうに手帳を撫でると、そっとスカートのポケットにメモ帳を戻した。


「あれ」


雑巾掛けも終わり、玄関周りを掃除しようと庭へ水を汲みに行く途中で、ミントの群生を見つけた。これは良い発見をしたと喜び、ついでに水をあげようとしてジョウロが無い事に気が付いた。

だが、古いブリキのバケツはある。


ジョウロをイチから作るのは難しい。

だが、バケツに穴をあけるくらいなら、出来るかもしれない。


その時、閃いた。

前面にたくさん小さな穴をあけて、バケツを抱えたらジョウロの代わりになる!


ナナリは、キラキラした顔で納屋へと道具を取りに行った。

古くて使われなくなったブリキのバケツ、木槌、ピック。

完成予想図は、こうだ。


前面に12個の小さな穴を空ける。

首からかけられるよう、紐を通せる穴を上にも2つあける。

取っ手を付ける技術は無いので、抱えて使う。


なんだか素晴らしい物が出来るような予感がする。

見上げた青空には、綿飴のような雲が流れていた。


†-†-†-†


「あははははは」


先程からずっと、アーネの笑いが収まらない。


帰宅してすぐ、オイルランプに照らされた玄関が、我が家とは思えないほど綺麗になっていることに驚き、ピカピカに磨き上げられた調度品に驚き、リビングのソファの香りを堪能したところで、ようやくナナリの様子がおかしい事に気が付いた。


いつもは両手を前に組んでしっとり佇んでいるのに、手を後ろに組み目が泳いでいたからだ。

なんとわかりやすい!

少女の愛らしい様子に心の中で悶えながら、理由を問いただしてみた。


『バケツでジョウロを作ろうとして、その、失敗しました』


最初はモジモジしていたが、覚悟を決めたのか恥ずかしそうに手を出しながら告白するではないか。

包帯だらけになったその両手を見た直後、アーネは庭へと走り出た。


絶対に面白いものが見られるはずだ、と確信があったのだ。

期待に満ちた顔で、子供のように駆けていき、そして期待通りの作品を見つけることができた。


哀れな被害者バケツさんは、無数の擦過傷と複数の打撲痕を残し、無惨な姿を晒していた。

何度か蘇生を試みたと思われるが、努力の甲斐なく昇天されたもようである。もはや生前の面影は微塵も残っていなかった。


「すみません…どうしても、元に戻らなくて」


しょぼくれたナナリの言葉を聞いて、ついに我慢も限界を超えてしまった。


「あははははは」


アーネの笑いが収まらない。

真っ赤な顔をしたナナリを見ても、どうにも止まらない。


こんなに楽しいと思う事は、久しく無かった。

家族に疎まれ、遠ざけられているのに名前に縛られている。どうせ子供の手遊びだろうと鼻で笑われている包装店。言い返せない自分。


今の仕事は、失敗が許されない。リボンの一結び、折り目の一本が、お店の評価を左右する。完璧でなければ、価値がない…。

面白い事なんて、何もない。ただ人生をやり過ごしているだけだと思っていた。


それなのに、こんな些細な事が、こんな不格好な失敗が、どうしようもなく楽しくて、面白い。


その笑い声は、まるで長い間固く結ばれていたリボンが、一気にほどけていく音のようだった。

完璧という名の分厚い包装紙で覆っていた自分の心が、この小さなメイドの愛らしい失敗によって、優しく、そしてどうしようもなく破られていく。


ああ、難しく考えることなんて、何もなかったんだと気づく。

自分が、少しずつ溶けていく感覚が心地よい。


いま頬を伝っている涙が、笑いからくるものか、嬉しさによるものかわからないけれど、しばらく流していたいと思う。


「ナナ、ありがとう」


なぜ感謝されるのかわからないナナリは首を傾げる。

きっと理解する事はないだろう。

それでも言わずにはいられない。


心の中でもう一度ありがとうと呟き、いまだ首を傾げ続けるナナリの背中を押して家へと戻った。


数日後、顔が描かれたベコベコの不気味なブリキのバケツがハロウィンのアイドルになろうとは、この時の二人には想像も出来ないのであった。

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