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29話 結婚前夜

 その日からナナリは、表情を殺した。

 今の幸せは自分にとっても、周りの人々にとっても毒となる。


「あきらめなくちゃ、だめなんだ」


 頭ではわかっていても、心は追いつかない。

 無理を言ってメイドの仕事に復帰したものの、ナナリにしては珍しく小さなミスが頻発した。パイを作ろうとして指を切った時など、過保護なアーネ達に囲まれて町医者まで運ばれていった。


 呆れる医者を前にして恐縮して縮こまるナナリとは対照的に、アーネ達は過剰なほどの治療を要求し、その姿はまるで暴走機関車のようだった。


 リオネルからの猛アタックも、今のナナリには苦しみでしかない。

 そのまま受け入れることができないのだから。


「明日は、新居のカーペット選びがあるので」

「今週は結婚式に向けてボディーオイルの開発で忙しくて」

「お休みはしばらく返上してますので」


 リオネルからの誘いは、ことごとくお断りしてきた。

 そのたびに懐中時計の針は動きを早めていく。


 それが悲しくて、心はもう張り裂ける寸前であった。

 早く結婚式が来て欲しい。

 そればかり願い、ただただ日々をやり過ごしてる。


 リオネルはめげない人だ。

 これだけ冷たい態度をとっても、ナナリを嫌うことなど頭の片隅にもないかのように、ハンスとともにあれこれと新しい戦略を立ててアプローチし続けてくる。

 しかし、もうこれ以上は駄目なのだ。


「もういやだよ、こんなの」


 夜は涙が溢れ出して止まらない。

 リオネルを傷つけ、時計の針が進めば進むほど、ナナリの精神はすり減っていった。

 しかし、ようやく明日、念願の結婚式が来る。


 アーネやグラベルとの接触も、結婚式準備を名目に極力控えてきた。

 おかげで、懐中時計の針も今や十分な速さで刻をきざんでいる。


 こんなに苦しいなら、恋心など捨ててしまえばいい。


 懐中時計を握りしめてベッドに横たわるが、いつまでたっても睡魔は襲ってきてくれなかった。

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