26話 天体観測(前編)
短い秋が過ぎ去ってゆく。
植物園で美しく色づくイロハモミジを眺めていたリオネルは、突然ナナリへと向き直って言った。
「火星を見に行こう」
肌寒くなってきた風に帽子を飛ばされまいと、小さな両手で抑えていたナナリは、唐突なその誘いに首を傾げた。
火星といえば空の星であり、夜にならないと見えないものだ。しかるに、メイドでありナナリにとって、容易に夜間外出など出来るはずもない。
ましてや彼女は未成年である。星が見える時間帯に男と二人で外出などアーネが許すとは到底思えなかった。
「あの、夜はちょっと無理かも」
「大丈夫、策があるんだ」
「策?」
ますます傾げる首の角度が深くなっていくナナリの手を握り、リオネルは力強く主張する。
「絶対に上手くいくはずだ。一緒に火星を見よう!」
「え、う、うん」
勢いに押されて頷いたが、どう考えても無理がある。
しかし、どさくさに紛れてそのまま握られた手の暖かさにすっかりのぼせ上がってしまい、すぐにどうでも良くなってしまった。リ
オネルだって本気ではないだろうと、そう思っていたので、二三日もすれば、すっかり記憶から抜け落ちていた。
†-†-†-†
赤と黄色の芳醇な季節が過ぎ去り、街を白と灰色の荒涼とした景色が覆い始めたある日、封書を開けていたアーネの口から小さな驚きが発せられた。
アーネに紅茶を入れようとしていたナナリは、手招きされその作業を中断する。目の前に差し出された一枚の紙には、真っ赤な星が描かれていた。
「赤い、星ですか?」
「火星の会から招待状よ」
「はあ、火星、ですか」
どこかで聞いた名前だなと思いつつ、次の言葉を待っていると、アーネからじっとりした視線が送られきた。
「ナーナ、またミセス・ラブールに何かとんでも無いものを贈ったでしょう。私に内緒で」
「え、ええっ。思い当たるフシが、無いです。この前いただいた帽子のお礼に贈ったお菓子ぐらいしか…」
「それだわ」
「だ、だってただのゼリーですよ」
「どんなゼリーだったの」
本人曰く、ただのゼリーであるが、それはアーネが聞いたこともない素材で出来ていた。白餡とやらを赤く着色した「ゼリーのようなもの」に包んでから絞り、ほおずきのように見せたお菓子だという。
「白餡って何かしら」
「あまいねっとりしたお菓子です」
「ゼリーのようなものって」
「こう、透明な感じのプルプルしたやつです」
「どこで手に入れたのかしら」
「ランデールさんへ送るお礼の品に悩んでいて、リオネルに相談したんです。そしたらこの時期は、赤いお菓子が良いって教えてくれたんです。一つ美味しいレシピを思い出したんですけど、食材が珍しくて今の時代は手に入らないから諦めていたんです。そうしたら、オリアナ号のランデールさんに聞いたらどうかって言われまして」
「リオネル君に?」
「いえ、ハンスさんに」
アーネの眉がぴくりと動いた。
「それで、聞いてみたら偶然在庫があったらしくて。翌日には持ってきてくれたんです」
「手回しの良いこと」
「でも日持ちしないお菓子なので、どうしようかと思ったんです。そしたらリオネルが」
「まかせろ、俺がすぐに運んでやる、とか言ったんでしょう」
「どうしてわかったんですか!?」
目を丸くして驚くナナリとは対照的に、アーネはこめかみを押さえて唸っていた。失礼無く断る言い訳が即座に五つほど思いついたが、結局諦めた。
これは名目上、アーネへの招待状ではあるが、実質的にはナナリへの招待状なのだ。溺愛するナナリの来訪を邪魔しようものなら、どんな仕返しがくるかわかったものではない。
「来週は、一週間不在ね。お店潰れないかしら」
「お留守はお任せ下さい」
「何を言ってるの、ナーナを置いていったら、私が社会的に抹殺されるわ」
「え」
事情がわかっていないナナリに支度を言いつけて、アーネは一人渋くなった紅茶に口を付ける。眉をひそめ、そして呪詛を吐くようにつぶやいた。
「ハンス君の入れ知恵ってわけ。なるほど、私をはめてナーナを手に入れようってことかしら。面白いわ、十年早いって思い知らせてあげる」
わずかにあがった口角はすぐに元に戻り、冷酷な貴族の顔へと変貌していた。




