23話 オリアナと共に(5)
簡易テントの下で、ナナリはココアを配って歩いていた。つい先程まで、野戦病院のごとく傷病者が運ばれてくる中、応急手当要員として借り出されていた。
満足に治療する機材も無く、麻酔無しの切開手術が当然のごとく行われるので、悲鳴や罵声が響きわたっていた。
何より血の臭いで吐きそうになるのを堪えるのが大変だったが、それも一晩がすぎるとようやく落ち着いてきた。自身もボロボロだったが、治療に当たったスタッフ達をねぎらってあげなくてはという気持ちが勝り、こうしてココアを配り歩いている。
「ありがとう、生き返るよ」
「ありがとさん」
そうお礼を言われるだけで、ナナリの活力は充填される。再びココアを作りにテントへ戻ろうとしたところで、ランテールに捕まった。少しは休めと怒られ、しぶしぶ毛布とココアを持って海岸沿いの即席ベンチに腰掛けた。
海の先の、遠近感が狂うほど巨大な白い異物を見つめる。嵐が去って穏やかな海で、オリアナは静かにその身を横たえていた。
こうして改めてみると、人間には分不相応なほど巨大だ。それでも、自然の脅威には立ち向かえないのだから、恐ろしい。
ナナリは、オリアナから脱出した瞬間を思い出し、ブルリと身を震わせた。
†-†-†-†
「どうする。航海士長、今は君が船長代理だ」
「私は―」
進むも地獄退くも地獄という状態の中、ナナリはランテールの言葉を思い出し、わざと座礁させることを提案した。
そして航海士長はその案を選択したのだ。
すんなりと受け入れられたことにナナリが驚いている間にも、航海士長はテキパキと指示を出していき、遅滞なくクルーが動き出す。ナナリには、ただじっと見守る事しかできなかったが、一生懸命祈った。
そして祈りが通じたのか、無事オリアナは座礁した。
もの凄い衝撃と共に船が停止し、鉄の軋む嫌な音が鳴り響く。
クルー達は、手はず通り乗客を次々と救命ボートに乗せ、荒れた海へと降ろしていった。
女性、子供を優先せよという指示が徹底され、押しのけて入ろうとする男性は強制的に排除されていた。それでも極限状態では言う事をきかない人も多い。
もみ合いになったり、殴り合いに発展するトラブルがそこかしこで起こっていた。
そもそも救命ボートの数は、定員分用意されていない。そのうえ、初期の頃に降ろされたボートは、定員の半分も乗客が乗っていなかったせいで、圧倒的にボートが足りなくなっていた。
このまま沈没するという噂も飛び交い、そのまま海に飛び込む人も出始めたころ、ナナリはまだ船橋に留まっていた。
「なんとしても、君だけはボートに乗せる」
「ランテールさんがご一緒でないと、乗りませんよ」
ランテールの前でナナリは仁王立ちしていた。何度も繰り返されたやりとりに、船橋に残ったクルー達も苦笑いするしかない。設計に携わった者としての責任を感じて残ると宣言するランテールと、それならば自分も残ると言って聞かないナナリの言い合いは座礁後しばらく続いていた。
ナナリとしては、今後の客船設計に大きな影響を及ぼすランテールに、ここで死なれては困るという事情もあり、引くわけにもいかなかった。そんな膠着状態の二人をみかねた航海士長が助け船を出す。
「もう、あとは乗客の避難誘導だけですから、我々に任せて避難してください」
「そうはいかないだろう。私にも責任が…」
「乗客の安全は何よりも優先する、かつて尊敬する船長が口酸っぱく言っていました。あなた方は、今オリアナの大切な乗客です。ねえ、ランテール元船長」
「むぅ…」
「老いては子に従えと言うでしょう」
「手厳しいな」
「大丈夫、我々だって死ぬ気はありませんよ」
かつての教え子に言いくるめられ、ランテールは渋々頷いた。どのみち、ナナリを無事送り届けなくては死んでもしに切れないと思っていたのだ。
だが、救命ボートに乗ってからの方が生きた心地がしなかった。夜の嵐で視界は無いに等しく、岸までわずかだというのにまるで進んだ気配がない。永遠のような時が過ぎ、何度か転覆の危機を乗り越えて陸の明かりが見えた時には、誰彼と無く抱き合って涙を流していた。
丁度ナナリ達が上陸した時、嫌な音を立てて、オリアナ号が横倒しになるのが見えた。
†-†-†-†
嵐が去った後の空は、嫌味なほど青くて美しかった。
反対に海はといえば、正視に耐えない状況だった。オリアナの残骸に混じって、いくつもの水死体が打ち寄せている。その光景に最初の頃は何度も嘔吐を繰り返したが、今はもう慣れてしまった。
ココアを一口飲む。
感慨に耽っているとき、ポケットに入った懐中時計に指が触れた。
しっかりと防水袋に入れていたので、壊れてはいないはずだ。心配になって蓋を開いてみると、針はまだ、未来へと向かって時を刻んでいた。
だが、その動きにナナリは息をのむ。以前はあれほど速く進んでいた針が、明らかにその歩みを鈍らせている。まるで、この過酷な一夜で生まれた人々との絆が、重い錨のように彼女をこの時代に繋ぎ止めようとしているかのようだ。
ふと気になって近くの人に時間を聞いてみると、未来との時間のずれが、以前よりも明らかに縮まってしまっていた。
ナナリは黙って蓋を閉じる。
ココアをもう一口飲んだとき、風に乗って大好きな母の声が耳に届いたような気がした。ナナリは、優しく、柔らかな母の声で呼ばれる愛称が大好きだった。
『ナナ、ナ~ナ』
はじめは猫みたいだって、嫌がってたのよ。
母は笑いながら教えてくれた。
いつのまにか、その愛称で呼ばないと返事をしないようになったらしい。
あれは、いつからだったろう…。
「ナーナ!」
ああ、幻聴がやけに本物っぽく聞こえるなぁと振り向いたところに、アーネが飛び込んできた。ココアのカップが地面に転がる様子を視界の端でぼんやりと捉える。
「あれっ?」
「ナーナ、生きてた、生きてたよぉ」
泣きながら抱きしめてくるアーネに身を任せながら、懐かしい母のぬくもりを感じていた。




