18話 恋愛前夜(後編)
アーネは、リビングのテーブルに置かれた小さな紙切れを凝視していた。
『ありがとう、ございました』
そんな短い一文が書かれたメモを、もう何度見返したことだろう。
ソファに身体を投げ出し、目を閉じるとグラベルが気遣うように声を掛けてきた。
「アーネ、少し休んだ方がいい」
「ええ、そうする。ありがとう」
深く沈み込むように身体を預けると、束の間のまどろみへと落ちていった。
†-†-†-†
それはグラベルからの告白を受け、お付き合いをすることになったあの晩から、一ヶ月ほど経った日の朝であった。
前夜はユニオンとの合弁事業が正式に決定したという事で、ナナリと二人でささやかなお祝いをした。
一緒に踊ったり歌ったりと楽しすぎて、飲み過ぎてしまったらしく起きた時にはもう日が高くなっていた。
「ナナ、起こしてくれてもいいのに」
だが、寝ぼけ眼で部屋を見回してみても、ナナリの気配がない。
ぬぼっとした顔でガウンを羽織り、1階に降りてみれば朝食が用意されているものの、やはりナナリの姿はなかった。
その代わりに、メモが置かれている。
― ありがとう、ございました ―
「え、何、どういうこと?」
寝起きで働かない頭を無理矢理叩き起こして、考えてみる。
これは、所謂世間で言うところの『退職届』というものではなかろうか。何かの悪戯だろうかとグルリと見渡すが、綺麗に掃除が行き届いているいつもの光景だけで、ナナリは見あたらなかった。
するともしかして、本当に辞めてしまったのだろうかと不安が押し寄せてくる。
「私、何かやらかしたかしら」
しかしいくら考えても思い当たる節が無い。
多少羽目を外してお酒を飲んだが、絡むようなことはしていないし、お給料もきちんと上げている。
首を捻っていると、裏口の呼び鈴が鳴らされた。
なんだ、悩んだ自分が馬鹿馬鹿しかったと頬を膨らませながらも裏口へと駆けていく。
だが良く考えてみれば、ナナリが呼び鈴を鳴らすわけがないのだ。
「もうナナ、どうし―」
言いかけて、開きかけた扉が途中で止まった。
そこに立っていたのは、グレーのスーツを着て微笑むグラベルだった。
「やあ、来てしまった」
「来てしまったじゃないわよ、グラベル。お仕事はどうしたの」
「予定がキャンセルになったんだ。先方の船舶が海難事故に遭ってね」
貴族ではないので先触れなどは不要だが、それにしても突然来られると女性としては色々と困る。常々言っているのだが、この男は一向に気にせずふらりと立ち寄る。普段ならば文句の一つも言ってやる所だが、今日に限っては素晴らしいタイミングだった。
「そう、丁度よかった」
「どうかした?」
「ちょっと相談したい事があって」
この時はグラベルもまだ、昼過ぎには帰ってくるんじゃないかと楽観的にアーネを慰めていた。
†-†-†-†
すっかり日が落ちた邸内に、アーネはそっと蝋燭で明かりを灯した。
比較的治安が良い地域とはいえ、少女が一人で出歩く時間ではない。こうなると本当に辞めてしまった可能性が高くなってくる。
この家か、もしくは自分に対してよっぽど何か気に入らない事があったのだろうか。
いやもしかすると、事故にあったのかもしれない。
アーネは勢い良くソファから立ち上がった。
「グラベル」
「どうした」
「警察に行ってくるわ」
「いや、ちょっと待った」
まあ落ち着けと再びソファに座らされた。
グラベルの目が思ったより真剣だったこともあり、アーネは素直に従う。
その彼の口から語られたのは、予想もしていない話だった。
「密入国者?」
「そうとは限らない。だが、ナナリちゃんが入国したという記録が無い。下手に警察を頼るのは不味い気がする」
ナナリという名前は入国者リストに該当がなかった。
外交官という職業柄、結婚を前提にお付き合いする相手の身辺調査は必然であり、ナナリに対する素行調査も早々に行われていた。
特に色々と疑問の残る発言をしているナナリについては、かなり綿密に調査が実施されたのだが、結果は芳しくなかった。
実績のある興信所が2週間にわたって調査をしても、何一つ過去の経歴が浮かび上がってこない。出生から、家族構成まで一切が綺麗さっぱり無いのである。
「一切痕跡がない。というか、存在していないんじゃないかというくらい、綺麗に過去が無いんだよ。移民した人達の家族もあたってみたんだが」
「孤児だったとか」
「まだこの国とは正式に国交を結んでない、入国した人は全て把握しているし、没落している人は居ないんだ。この色の髪をした孤児なんて存在しないと思う」
「でも、ハーフだって言っていたわ。それなら、こちらで愛人を作ったりした人が…」
「13~4年前に入国していたのは7人しかいないんだ。全員妻帯者で敬虔な正教会信者だった。家族ごとこちらで暮らしていたし、火遊びの可能性は低いかな」
アーネは、グラベルの言葉に深く考え込んでしまう。
あまり深く家族について聞かなかった事が仇になったのだろうかとも思ったが、それするとナナリとの関係を崩してしまいそうで怖かったし、必要もなかった。
ナナリがどこの出身で、どんな経歴を持っていようと、アーネには関係無い。もう彼女の事は家族同然に思っているのだから。
「そうね、警察はやめておく」
「その方がいい…って何してるんだ」
「何って、警察が駄目なら自分で探しに行くわ」
「いやいや、今何時だと思ってるんだよ。大人だって女性には危険だ」
「時間なんて関係ないわよ、ナナリが困ってるかもしれないんだから!」
「頼むから落ち着いて」
飛び出して行こうとするアーネと、それを止めようとするグラベルのもみ合いが始まったその時だった。裏口の扉がカラリと音を立てるのが聞こえた。
グラベルが入ってから、きちんと鍵をしめたはずの扉が、である。
硬直する二人の耳に、ゴロゴロと何かが廊下を引きずる音が響いてくる。
それは、迷うこと無くサロンへ向かって、近づいてきていた。
「え、な…何…誰なの」
「わからん。アーネは俺の後ろに」
突然の侵入者に怯えてしがみつくアーネを庇い、グラベルは手近にあった火かき棒を手にしてドアを睨みつけた。
ゴロ、ゴロ、ゴロと音がサロンの前で止まる。
腕を掴むアーネの手に力が入り、グラベルはゴクリと唾を飲み込む。
女性一人と知っていて進入した賊かもしれない。いざとなれば、アーネだけでも逃がす決心を固め、火かき棒を握り直した。
キィ
ゆっくりと扉が開いていく。
目を見開く二人の前で、陰から現れた右腕がぺたりと壁へと張り付いた。
「きゃあああ!」
「うおおおっ」
アーネの悲鳴を背に飛び出したグラベルだったが、雄叫びをあげて侵入者へと火かき棒を振り上げた直後、侵入者の上げた小さく可愛らしい声にそのまま固まってしまった。
「誰ですかっ」
侵入者の腕が壁を探り、パチリと音がしたかと思ったら部屋の照明が灯った。
暗い部屋のなかで蝋燭一つしか灯していなかった事に、今更ながら気付く。
「あの…?」
明るくなった部屋には、怯えるアーネと火かき棒を振り上げたグラベル、そして大きなトランクを持ったナナリが立っていた。
ナナリは若干怯えた表情でグラベルを見、そしてアーネへと視線を移し、ペコリとお辞儀をした。
「い、いらっしゃいませ」
あまりに日常の風景すぎて、グラベルはただ曖昧に「ああ、うん」としか応えることができなかった。
一方のアーネはというと、淑女にあるまじきスピードで突進してナナリを抱き上げたのだった。
「ナナ、戻って来たのね!」
「え?はい、あの…遅くなりまして?」
「良いのよ、無事で戻って来てくれただけで、いいのよっ」
「は、はい…えと?」
ナナリは涙目できつく抱きしめてくる主をどう扱って良いのかわからず、グラベルに助けを求める視線を送ったが、苦笑いが返ってきただけであった。
†-†-†-†
「つまり、市場で買い物をしてきただけだと」
「はい」
「タオルや石けんの他にメジャー、スケッチ、それにブーツや小物入れ…確かに時間がかかるね、こりゃ」
グラベルはソファに深くもたれながら、買い物メモに目を通していた。
少し乱れたアーネの筆跡で、様々な品物が書き出されている。
「で、昨晩酔ったアーネからこれを渡されたと」
「はい」
「グラベルは、意外とイジワルなのね」
アーネは頬を膨らませ、ソファの反対側でそっぽを向いている。
そう言われてみれば、酔った勢いで旅に必要な物を書き連ねたような記憶がぼんやりと蘇ってくるのだが、何故そんなものを書いたのか全く思い出せなかった。
「しかしまあ凄い早とちりだったな」
「だって、『ありがとう、ございました』でしょ!? 普通そう思うじゃない、朝起きたらいないし、行き先がかいてあるわけじゃないし―」
「ところで、どうして『ありがとう』だったんだい?」
わたわたと言い訳をするアーネの言葉を遮り、次なる疑問を口にするが、それも直ぐに解決した。
ナナリにとって、アーネと共に食事をするということは、これ以上ない幸せだったのだ。
通常メイドが主と食事を共にする事はまず無く、ごくまれに年老いた主とメイドの二人だけで暮らすような場合に聞く程度である。
ルクスブルーの時とは違い、明確にメイドとして使えている空間で楽しく時間を過ごした事は、驚きでもあり喜びでもあったのだ。
それゆえ、感謝の言葉を書き綴ったつもりだった。
「ま、紛らわしい」
「確かにちょっと言葉足らずではあるな」
「すみません」
しょんぼりと俯くナナリを慌ててフォローするアーネの姿は、まるで親子のようだ。
そんな感想を抱きつつ、グラベルは最後の疑問を投げかけた。
「でも、なんで旅行用品なんだい?どこかに行くのかな」
「はい、2週間ほど北部地方へ」
「えっ!?何で、ナナどこにいくの?」
「えっ?」
むしろナナリの方が驚いていた。
北部地方行きは、昨晩アーネから告げられた事である。先日、有名なある生地問屋がシルクハットに入れる面白い吸収材を作ったという話がミセス・ラブールから持ち込まれた。ユニオンとの合弁事業で忙しかったアーネは、その視察にナナリを派遣することに決めたのだ。
そしてその時はすでに、相当酔っていた
「アーネ…」
「お、覚えているような気がしないでもないわね」
「あの、それで不在の間の家事の事なんですが」
「大丈夫よ、一人で。これまでも一人だったんだし」
失態を誤魔化すように胸を叩いて見栄を切るアーネだが、先程の醜態を見た後では説得力がまるで無い。グラベルとしては看過できない事態である。
先程はナナリだったからよかったが、本当に不埒者が侵入していたらと思うと、居ても立っても居られない。
即座に公邸から何人か臨時でメイドを連れてくる事を約束するのだった。
†-†-†-†
翌朝、サロンでは公邸のメイド達との面通しが行われていた。
「あの、でも3人は多くないかしら」
「ご心配いりません奥様。一人は交替要員ですので、常時おりますのは私メイループと、アンナの二名でございます」
「はあ、あの奥様じゃないのだけど、その、公邸のハウス・キーパーが抜けるのはいくらなんでも不味いのでは」
「問題ございません、奥様。部下は皆優秀です」
「どうしても自分がやると言ってきかないんだよ、奥様」
「だ・か・ら、奥様って誰の事ですか」
おどけるグラベルを睨みつつメイループの本音を聞き出そうとするが、ナナリに恩があるの一点張りで全く埒が明かなかった。
事実、メイループは、ナナリに大きな恩を感じていた。しかし今回メイドの長たる彼女自らが手を挙げた理由は別にあった。
「まあ、本人がどうしてもというので、お願いできないだろうか」
「こちらとしては、有り難いとしか言えないのだけど」
「奥様、2週間どうぞよろしくお願いいたします」
「だーかーらー奥様じゃな―」
「ナナリさん、寝室は2階で宜しいのかしら」
アーネのため息を軽く流したメイループに続いて、残る二人のメイド達はナナリを取り囲み、質問攻めにしていた。
「あの、お休みされる時のお召し物ですが、グラベル様はシルクがことのほかお好きで。奥様用に新調してもよろしいのでしょうか」
「いえ、シルクはお嫌いです」
「シーツとカバーへ香りですが、奥様はお嫌いな香りとかは?ご当主様は柑橘系がお好きですのでオレンジが良いかと思うのですが」
「ハーブの方がよろしいかと」
肉食獣に囲まれた草食動物といった感じのナナリだったが、受け答えは堂々としたもので、むしろ彼女の方が雇い主に見えるくらいだった。その光景を見ていたグラベルは、まるでナナリのメイドみたいに見えるなとのんきに笑うのだが、アーネの頬はひきつっていた。
(何かこの人たち、露骨に既成事実を作ろうとしてない?)
公邸のメイド達は、悲願の達成にむけて密かに闘志を燃やすのであった。
†-†-†-†
その晩、窓際で月明かりに照らされた懐中時計を静かに見つめていたナナリは、自分の目を疑った。
あれほど早く、未来へと向かって進んでいたはずの針の動きが、心なしか遅くなっているのだ。
まるで、この暖かい時間に、この幸せな日々に引き寄せられるように、その歩みを鈍らせている。
(え、どうして…!? 順調、だったはずなのに…)
ぼんやりと照らされた横顔は、喜びでも悲しみでもない、未知の不安に揺れていた。




