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16話 恋愛前夜(前編)

 うららかな春のある日、ナナリは朝早くからホールにある階段の手摺りを磨いていた。

 ドアノブも綺麗に磨き終え、いつにも増して念入りに邸内を清掃している。

 高級なリネンスプレーを使って、ほんのり香る程度にミントをカーテンに染みこませておいたり、真っ白なシクラメンをホールに飾ったりと細部にいたるまで余念が無い。

 

 しかし、気合いの入ったナナリとは正反対に、本日の主役たるルンドベリ邸の当主はいたって平常運転であった。

 

 「ナーナ、ねむい」

 「お早うございます。眠気覚ましにどうぞ」

 「うぇ」

 

 差し出されたローズマリーティーは、さっぱりした味のくせに香りが強いため、アーネはあまり好きではない。

 好きではないが、スッキリ起きることができるので仕方なく飲む。

 

 「はぁふ」

 

 ほわっと蒸気をまき散らしながらティーカップを置くと、何かを考えるような仕草で目を閉じた。

 一見考え事をしているようで、その実二度寝である。

 その幸せそうな顔を前にして躊躇うことなく肩を揺さぶることが出来るのは、ナナリくらいなものだろう。

 

 「わ、わかった、わかった。起きるから」

 

 いつもより、僅かに強めに揺さぶられたのには理由がある。

 今日は午後からグラベル達が顔を出すのだ。

 先日いわゆるピクニックのお誘いがあり、二度断ったのだが彼は諦めなかった。三度目に根負けしてナナリ同伴を条件に参加することとなった次第である。


 まあ自分はシエラちゃんのオマケのようなものだし、気負っても仕方ないのよとヒラヒラ手を振るアーネに対して、ナナリは無言で作業を進めていく。

 いつもより念入りに髪を梳かし、グレープフルーツを多めに摂取させ、胸元のフリルが可愛らしい若草色のドレスを着せた。

 

 「ちょっとこの服、若すぎない?」

 「大丈夫です」

 「でもフリルって年じゃ」

 「大丈夫です」

 「そ、そう」


 ナナリからとてつもないプレッシャーを感じたのか、それ以降は沈黙を守った。

 今日という日は、アーネの人生において最大の分岐点となる。

僅かなほころびすら、許されないのである。


 天気は上々、ほんわかした気温に色とりどりの花が咲き始めていた。

 まさしく絶好のピクニック日。


 (全てがパーフェクトです)

 

 ハンパーと呼ばれるピクニック用の巨大な籠に大量の食料を積み込みながら、ナナリはグッと拳を握りしめた。


 ライ麦パンにバター、ハムとスライスチキン、ハードチーズにサラダ、最近お気に入りのホットウォータークラスト、加えて乾燥フルーツのケーキ。これでもかというほど積み込んだハンバーは、両手で運ぶのも大変な程の重量となっている。


 カトラリーセットを入れたら大人二人でも重くて厳しそうなその大荷物を、手際よく木製のラックに積み上げていき、最後はきっちりとベルトで締め上げた。

 全ての準備が整い、ふうと額の汗をぬぐうのと同時に、正面玄関の呼び鈴がカラカラと音を立てた。


 本日のメインディッシュがご到着である。

 

 ナナリが扉を開けると、執事と思われる中老の男性が恭しくお辞儀をし、グラベル達の来訪を告げるのだった。



 †-†-†-†



 「それにしても本当に素敵、凄く素敵なお屋敷だわ。ねえ、グラベルもそう思うでしょ」

 「ああ、調度品一つとってもセンスがある。ほのかに香るのはミントかな、いっそこのまま一生住んでもいい」

 「あら、それならアーネさんに引き取ってもらいましょうか。ねえ、アーネさん」


 ひくりと頬を引き攣らせ、アーネはティーカップに手を伸ばして誤魔化すことにした。

 この手のブラックな冗談は苦手なのだ。

 

 「それにしても、今日はまた一段と可愛らしい服ですね。とても良く似合っている。」

 「え、いえその。そうですか」

 「ほんと、ほんと。恐ろしいほどグラベルの好みを把握してると思うわ~、アーネさんって」

 「は、はあ」

 

 ごにょごにょと照れ隠しをするアーネの横で、ナナリはすまし顔で立っている。

 何故彼女がグラベルの好みを知っているのか、あるいは偶然なのか気になる所ではあるが、今は話題を変え事が先決だ。

 

 「ところでナナリ、今は何時くらいかしら」

 「はい。9時をすこし回ったところです」

 「じゃあ、しばらくゆっくりできそうね。クッキーと、ミントティーをお願い」

 「はい」


 ほっと安堵のため息をつくアーネの横でお辞儀をして退出するナナリを、グラベルはじっと見つめていた。

 顎に手を当てて身じろぎもせず見つめ続ける姿は、ちょっと怖いくらいだ。


 「あの、うちのメイドが何か粗相をしましたか?」


 不安になってアーネが尋ねるほど、グラベルの目は真剣だった。

 

 「いえ、同郷の人間は珍しかったもので。申し訳ない」


 実際には、珍しいどころの騒ぎではない。オリオンブルーの髪はグラベルの祖国でしか見る事が無い稀少な色だ。まだこの国と国交を結んでいないため、ほとんど見かける事がないはずなのだ。


 自分達のように外交官以外では、通訳や伝統芸能などの特殊技能を請われて来た人々ぐらいなもので、全ての名前をリスト化できる程度のごく少人数であった。

 それにリストにある人々は全てが濃いオリオンブルーの髪を持つ純血種であり、ナナリのような髪を持つ混血が居るとは聞いていなかった。

 

 (混血があんな風な色になるって、大昔に聞いた事があるな。しかし、そんな事よりも…)


 そう、グラベルにとって問題なのは髪の色などではなく、ナナリがエプロンから取り出した時にちらりと目に入ってしまった懐中時計だった。


 隣のシエラを見ると、やはり同じようにそれを目にしたのだろう、困惑した顔を浮かべていた。

 スタンピード家の長男に代々受け継がれているものとそっくりなのである。

 

 青いギロッシュエナメルにローズカットダイヤモンドが光るスタンピード家の懐中時計は、見事なエンジンターンが施されている逸品だ。


 ギロッシュエナメルの技法は大昔に失われているため、すでに現存する懐中時計は国内で2つだけ。その内一つは深紅だったと記憶している。

 グラベルは、思わずベストに収めた懐中時計に手を当てた。

 

 『お兄様、まさか無くしてないわよね』

 『馬鹿をいえ、きちんとここにある』

 『ではアレは一体何?』

 『一瞬だったしな、見間違えたか。もしくは近いデザインなのかもしれん』

 『ありえないよ、どうみてもギロッシュエナメルだった』


 ヒソヒソと小声で話し合う二人を、恋人同士の語らいだと勘違いしたアーネは、そっとしておこうとひたすら紅茶を飲み続ける。

 それでも仲睦まじい二人の様子が目に入ると、何だか胸の奥がモヤモヤするような、嫌な感じをぬぐい取ることができなかった。

 運ばれてきたナナリ特製のクッキーですら、ほろ苦く感じる。

 

 (おかしいわね、風邪かしら)

 

 感じたことのない感情に、ひたすら首を捻っていた。



 †-†-†-†



 ピクニックは、グラベルの招きで外交官公邸のある広大な敷地の一角で行われた。穏やかな水面を見せる川が庭園を横切り、育ち始めた芝生が庭園を覆っている。こうして人の手が入った優美な自然を形作るのは、この国が得意とする技術の一つだ。


 「この辺りでございます」


 執事がそう伝え、風よけの森から少し離れたところに馬車を止める。グラベルがアーネをエスコートする間に、オレンジ色のハンパーが乗せられたキャリアが馬車から降ろされた。


 ナナリ特製のキャリアは、タイヤの付いた木製でかなりの重量物でも一人で持ち運びができるという優れものである。おそらく問題なく動かせるのだろうが、どうみても小柄なナナリには大きすぎる荷物であり、執事も困惑の表情を浮かべていた。

 

 「私もお手伝いいたしますが…」

 「全く持って、問題ありません。ご心配なく」

 

 ナナリは執事の申し出を丁重に、しかし有無を言わさず断る。知恵と工夫と根性で全てをこなすのがメイド・オブ・オールワークスであり、自分の力不足からアーネに恥をかかせるような事は断じてしてはならないのだ。


 大きめのケープやクロスの入った背嚢を背負い、ナナリはキャリアを転がしていく。

 グラベルが丁度良い木陰を見つけて腰を下ろした時には、心の中で歓声を上げた。すでに腕が悲鳴を上げていたからだ。

 それでも顔色一つ変えずに粛々とランチの準備を進めていると、シエラが興味津々といった顔でのぞき込んできた。


 「ねえ、聞いても良いかしら」

 「はい」


 カトラリーを並べる手を休めることなく、ちらりとシエラへと視線を投げると、予想外に真剣なまなざしがそこにあった。

 じっと瞳の奥をのぞき込んでくるシエラに驚き、僅かに身を引いたのだが、手を取られて逆に近づかれてしまう。


 「あなた、スタンピード家の親戚じゃない?」

 「いいえ、違います」

 「違うの」


 ナナリにしてみれば予想していた質問なので即答したのだが、あまりに早い反応だったせいかシエラは目を細めて探るような視線を送ってきた。


 「ハーフよね、父方がこちらの国なの?」

 「いえ母です」

 「母親なの」

 「はい、あの準備ができません」

 「あ、ごめん」


 シエラは慌てて手を放すと愛想笑を振りまいたが、頭の中ではナナリとの会話を咀嚼し、反芻していた。

 スタンピードの親戚筋ではなくとも、婚外子の可能性を考えてみる。祖国では珍しくないケースだが、国外に愛人を作るような男は親類縁者に居ないと思われた。

 考えれば考えるほど思考の迷宮に迷い込んでしまうようだったので、ストレートに聞くことにする。


 「ところで懐中時計を持っていたわよね」

 「はい」

 「あなたの、女性用にしては大きくないかしら」

 「そうでしょうか」

 「私も懐中時計好きなの。よかったら見せて貰えないかしら」

 「申し訳ありませんが」

 「え?」


 まさか断られるとは思っていなかったシエラは、ぽかんと口を開けたまま首を傾げる。

 

 「な、なんで?」

 「ピクニックですので、置いて参りました」

 「ちょっと、ピクニックだから必要なんじゃないの」

 「紛失すると困りますので」


 すまし顔のナナリだったが、スカートのポケットはわずかに膨らんでいる。

 

 (嘘だ、あそこに入ってるはずなのにっ)

 

 ギリギリと歯ぎしりをするシエラを、グラベルはハラハラしながら見守っていた。

 折角苦労してこぎ着けたピクニックを、険悪な雰囲気で台無しにされるのは避けたい。

 そんな雰囲気を救ってくれたのはアーネだった。


 「あら、シエラさんは懐中時計がお好きなの」

 「好きというか…いえ、大好きです」

 「今、猫をモチーフにした懐中時計を考えているのだけど」

 「えっ!」

 

 シエラの反応は想像以上に凄かった。

 いままでのやりとりなど忘れてしまったかのように、猫式懐中時計について熱く語り出す。針を肉球にしようだとか、竜頭を耳型にできないかだとか、女子二人でキャッキャと話し始めると、すっかり雰囲気は和やかなものへと戻っていた。


 「やれやれ」


 ほっとため息をつくグラベルの横で、ナナリは黙々とランチの準備をすすめていくのであった。

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