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12話 ルンドベリの猫(後編)

 昨晩からしとしと降り続けている雨は、一向に止む気配が無い。水滴が窓を伝っていく様子は、寒さを引き立てるスパイスだ。

 そして実際にガラスに手が触れると、凍ってしまいそうなほど冷たかった。


 「はあ~っ」


 ナナリは、かじかむ指先を暖かい息で励ましながら、拭き掃除を続けていた。

 1月にもなると、バケツの水は凍るように冷たい。

 ぎゅうと絞った雑巾で窓枠の汚れを取っていると、突然呼び鈴がガランガランと自己主張を始めた。


 「はい、いま出ます」


 エプロンで手を拭うと、慌てて裏口へと駆けていく。

 この時間に訪問してくるのは、保険引受人の団体か郵便配達だろうと当たりをつけて扉を開ければ、予想に違わず配達員のリオネルが立っていた。


 「や、やあ」

 「こんにちは、いつもお疲れさまです」


 ペコリとお辞儀をして、配達物を受け取ったのだがリオネルが立ち去る様子がない。不思議に思って眺めていると、何やらモジモジとしている。

 そして意を決したように鞄に手を入れると手紙を取り出した。

 

 「あ、あのさ。君の名前って、ナナリさんかな」

 「え、はい。そうです、けど?」

 「そそそうなんだ。やっぱり、うん。そんな感じがしたんだ」

 

 きょとんと首を傾げるナナリに、一通の手紙が差し出された。

 宛先はナナリとしか書かれていない。

 

 「宛先の住所はルンドベリさんの所だから、もしかして君のことかなって」

 

 彼女宛に手紙を出してくる人など、一人しか思い浮かばない。

 リオネルから受け取った手紙をひっくり返してみると、やはりミセス・ラブールの名前と家名入りの封蝋印があった。

 

 「ありがとう、ええとリオネルさん」

 「い、いや仕事だから」

 「いつも助かります」


 あまりに純情無垢な顔で返されたせいで、リオネルはポケットから出そうとしていた左手をそれ以上動かすことが出来なかった。

 わずかな逡巡があり、そして再び左手をポケットに戻した。


 じゃ次の仕事があるから、と帽子をかぶり直して立ち去ったのは、仕事には誠実でいたいという彼なりの信念である。半分以上は格好つけだったが。

 ルンドベリ邸を後にして、2ブロック先にある次の配達先へと向かう途中、リオネルはポケットから2枚のチケットを取り出して眺めた。


 「やっぱ、仕事中はダメだよな、うん」


 週末に開催される有名なサーカスの観戦チケットは、ため息とともにポケットへと戻された。

 ちなみに、主人の仕事の関係でナナリが週末に休みを取れない事を彼が知るのは、もうすこし先のことであった。



 †-†-†-†



 雪がちらつき始めた1月の終わり。

 ルンドベリ邸の庭で、ミセス・ラブールを迎える馬車が静かに佇んでいた。


 見送るのはアーネとナナリの二人。

 世界をまたにかける豪商の訪問に、緊張しないわけがなかった。


 「長居して申し訳なかったわね、ミス・ルンドベリ」

 「とんでもない、こちらこそ何とお礼を申し上げたらよいか」

 「あらあら、私はナナリちゃんとクッキー談義をしていただけよ」


 楽しそうに笑う老婦人は、ナナリと雑談をする中でいくつもの情報をちりばめていた。それは何気ない会話の中に潜り込ませたのは販路情報であったり、新規に取り扱う商品の販売時期であったりした。

 今すぐ影響があるわけではないが、上手に活用すれば将来包装店が大化けする可能性もある。それほどの情報であった。


 もっとも、ミセス・ラブールも無料で情報をプレゼントしたわけではない。そこは小さな店舗を一代で豪商と呼ばれるまでに育て上げた女傑である。

 きっちりと対価は得ていた。


 「それじゃ、ナナリちゃん。こうじだったかしら、今度その秘密のお塩についてレシピ教えてちょうだいね」

 「はい、クッキーに隠し味で使うと美味しいんです」

 「さっき頂いたクッキーにも入っていたのよね」

 「はい」

 「楽しみだわ」


 何気なくナナリと会話を交わすミセス・ラブールの顔は、やり手商売人のそれである。

 すでに珍味として売り出す算段をしているのだろう、執事に何事か指示していた。

 

 (こりゃ、うっかり見た目に騙されると痛い目にあうわね)

 

 勘違いした行動をすれば、バッサリと切り捨てるタイプだ。

 お土産にと用意したナナリ作のミトンセットの包装には気合いを入れておいて良かったと胸をなで下ろす。

 中身だけでなく、包装にも大変な褒め言葉をいただいたからだ。

 

 「今度は、是非お店にお邪魔させていただくわ」

 「お待ちしております」

 「そういえば、大切な顧客の一人に貴女のお店を紹介したのだけれど、どうやら気に入ったみたいよ」

 「え、ありがとうございます。どなたかしら」

 「髪の色が珍しい男性よ」

 「あ、ああなるほ、ど…」


 (グラベルさんの事、だよね)


 アーネは内心どっと冷や汗をかいていた。

 初対面で粗相をしてしまいまった事、その後良好な関係を築けたとは思うものの、対応を間違えなくて本当によかったと安堵する。

 


 こうして客人が帰った後、アーネはグッタリとソファーに崩れ落ち、反対にナナリは一気に忙しくなった。

 だらりと肘掛けに身体を預けるアーネに紅茶を届けると、サロンに残された食器を片付け、夕食の下ごしらえを始めた。

 もちろん、風呂の準備も並行して行うが、その前にアーネの着替えとブラッシングも手伝う。

 くるくると小さな身体を器用に回転させながら、てきぱきと仕事をこなしていった。

 

 もともとルンドベリ邸ほどの大きさなら、あと2人くらいはメイドがいてもおかしくはないので、全てを一人でこなすには少々厳しいはずだった。


 それでもナナリは流れるような手順に仕事をこなしていくので、家事が滞る事はない。まるで10年以上勤めているベテランメイドのように、ルンドベリ邸に関する全てを把握しているのだ。


 「そうは言っても、そろそろお休みをあげないとね」

 

 だらんとソファから片腕をぶら下げながら、怠惰にクッキーを頬張る。

 ナナリのクッキーは本当に美味しい。

 市販のクッキーが食べられなくなるほど、癖になる。

 

 その時、ふと楽しげな考えがアーネの頭をよぎった。

 

 (気分転換も、いいわよね)

 

 むふふと子供のような微笑みを漏らしつつ、急いでアイデアを紙に書き付けてくのだった。



 †-†-†-†


グラベル邸の暖炉前には、仲睦まじい兄妹の姿があった。


「それで、お兄様。アーネさんとのお食事はどうだったの?」


「別に、普通だよ」


「ふぅん。あのあと随分と上の空だったみたいけど」


まだ夜は始まったばかり。

むっと黙り込んで逃げに徹する兄を追い詰めていくには、十分すぎるほど夜は長いのだ。

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