父子の確執
「父さん……?」
ぽつりと、そんな呟きが融け消える。
心なしか重さを増した空気の中、初めていつも笑顔を浮かべていた和海の驚いた顔を見た。言葉を失い立ち尽くす彼は自身をここへ連れてきた吸血鬼と果たして同一人物なのだろうかと、そんな問いさえ頭に浮かぶ。
「なんで、ここに」
「おや、ここは私の家でもあるのですよ。それにお前が気付いていないだけで、私はずっとここにいました」
「だって、一度も……」
「200年間会うことがなかったのは、私がここにはいないと信じ込んでいたからです」
(……あれ)
──『今はこの家に誰もいないけど』
ふと蘇る、和海の言葉。
あまり気に留めることのなかったその発言だが、よく考えてみれば頻繁でないにしろ何度か帰ってきていなければ、誰もいないなど分からないのではないか。
彼の言動を顧みるに、この家に関する苦い思い出があることは間違いない。
ならば何故、『帰ってきたくない』とまで断言した場所へと訪れていたのだろう。
「……っ」
1歩、2歩と和海が後ずさる。
そうしてくるりと踵を返そうとした彼だったが「和海」と、ただ一言だけ紡がれた名前でぴたりと動きを止めた。その言葉で再度、海色の双眸がこちらへと戻される。
その表情は困惑、葛藤などが窺える苦悶に満ちたもの。
しかし何故だろう、彼から恨みに相当する『怒り』を感じることが出来ないのは。
(本当に恨んでたのかな……)
そんな疑問がぼんやりと過ぎる静寂の中、先に空気を揺らしたのは低く穏やかな声だった。
「誰よりも母を慕っていたお前に、悪いことをしました」
「っ、やめ」
深々と頭を下げる誠泰に対し当惑の色を強めた和海。しかしその口から溢れる弱々しい言葉を受けてもなお、父は頭を上げる素振りを見せなくて。
そしてその光景に一瞬だけ目を見開いた翔はすぐいつもの表情に戻り、両者のやり取りを黙って見守っている。
「顔あげてよ。なんで、父さんは何も」
「翔と海斗を連れて家を出たのだって、紬を助けられなかった私を恨んでいたからでしょう?」
「っ違う、俺はそんなこと」
揺れる青の瞳が再び色違いの双眸とかち合う。
ここで察した、和海が実家を敬遠していた理由。
彼の母が亡くなったことが、そもそもの発端だったのだろう。
(私はまだ身内亡くなってないからあれだけど、だいぶ辛いんじゃ……)
大事な者を失う悲しみは想像こそ出来るが、実際はそれを絶するほどの苦痛であろうことは間違いない。加えて他者から見ても慕っていることが一目瞭然であったのなら、尚更苦しみは大きかったのだろう。
そのことにキュッと締め付けられる感覚を覚え落ち着かないまま無意識に腕を摩っていれば、不意に口を開いた和海が言葉を溢す。
「……父さんだって、理不尽に苛ついてた俺のこと嫌いでしょ」
諦めたように緩く笑う彼をぼんやりと見つめていたが「……私がですか?」と驚きの滲んだ声で我に返る。
そうして声の主を見やれば、それはそれは予想外とばかりに大きく見開かれた色違いの双眸が目に入った。
まるで『嫌う』などという選択肢すら、最初から思い浮かんでいなかったとでも言うように。
(……もしかして)
和海の『親とは仲良くない』という発言は、おそらく親から嫌われていると思い込んでの言葉。
対する誠泰もまた、和海に対して負い目を感じているようで。
つまり、お互いにすれ違いを起こしてしまっているのではないだろうか。
「……なんだ、違ったんだ。っ、はは」
ふと溢れた、呆れと自嘲が混ざった笑い声。静寂を打ったそれが消えるのを待ってから、和海は思い出すようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「あの時、俺だって母さんを治してあげたかった。そんなこと出来ないことくらい解ってたのにね」
懐かしむような声色だが、よく見れば左手の指先が右腕に食い込み波を作っている。それほど辛い過去をさも当たり前であるかのように話す彼にどうしようもなく胸が痛んだ。
「父さんが手を尽くしたことは知ってたよ。だから恨んでなんていない。ただ」
言葉を区切り、息を一つ吐く。緊張とも困惑ともつかないその表情は、やはり今までの彼からは想像も出来ないほどに感情の乗った表情。
「どうしても、母さんがいなくなったことに耐えられなかったんだよ。それこそ父さんの顔を見るのが嫌になるほどに」
大切な者がいなくなってしまったことは、誰のせいでもないことは分かっている。
だからこそやり場のない感情の矛先が『救おうとして救えなかった者』に向いてしまったのだろう。
(っ……)
ふと翔を見やれば、その鮮血の双眸は真っ直ぐに兄を捉えたまま動かない。一体何を考えているのか読めないままじっと見つめていれば不意にその瞳がこちらを射抜き、すぐに逸らされる。
彼もまた、内心穏やかではないのかもしれない。
「2人を連れて家を出たのだって、本当は寂しかったんだ。翔も海斗も母さんと似てるのに、俺だけ全然似てないし」
もちろん重ねてたわけじゃない、弟として大事にはしてきたつもりだよ。
そう続けられた言葉が耳朶を打った刹那、翔の瞳が大きく見開かれた。その赤が映し出す和海の顔は、泣きそうなほどの笑顔を浮かべていて。
──『紬を看取った時、実はもう一人いたのですが』
実は。つまり、母の前にいたのは誠泰一人。
その時、和海はどんなことを思っていたのだろう。
「和海、私は」
次に胸中を紡ぎ出した低い声。心なしか今までよりも感情が籠っているのは、きっと気のせいではない。
「紬を亡くした時点で、お前たちに恨まれても仕方がないと思っていました。自分の意思以外で死が訪れることなどまずありませんから」
(自分の意思以外、ってことは)
先ほどの特異体質の話や翔の年齢から考えるに、もしかしたら吸血鬼には寿命という概念がないのではないか。
本来であればそれほどまでに永い間を共にする相手を失った父の痛みも、相当に大きかっただろう。
「それでも彼女との約束通り成長を見守るつもりでしたが、それももう叶わないとばかり」
「っ……」
一瞬だけ海色の双眸が大きく見開かれる。そこに滲むのは全ての感情を覆うばかりの後悔と、ほんの少しの絶望。
意図せず『約束』を破らせてしまったことへの、手遅れともいえるものだった。
しかしそんな後ろ向きの感情すら包むように、誠泰はふわりと微笑み口を開く。
「ですから今日、お前たちに会えてとても嬉しかったのですよ。それに海斗も、もう大きくなっていることでしょう?」
思えば、特に翔と再会した際の彼の顔には自身でも分かるほどの安堵が滲んでいた。和海と顔を合わせた際も困惑の感情こそ見え隠れしてはいたものの、浮かべていたのは柔らかく綻んだ笑顔。
(……翔のお父さん、本当に嬉しかったんだ)
「っなんで、そんなことが言えるの。俺の我儘で全部台無しにしたのに」
「ふふ、そう言うところは紬によく似ていますよ。彼女は私を振り回すのが好きでしたから」
嫌味など一切含まれない、本当に母と似通った部分だけを掬った誠泰に言葉を詰まらせた和海はそのまま糸の切れた人形のように崩れ膝をつく。
そうして下を向いたまま微動だにしなくなってしまった彼に、芽衣はたまらず声をかけた。
「っ、和海さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫だよ。ほんっとうに優しいね」
次に顔を上げた彼の表情。それはまるで憑き物が落ちたようにも思える、翳りが薄らいだ無邪気な少年のような顔だった。
それほどまでに、彼の心に巣食ったわだかまりは手に負える代物ではなかったのだろう。すぐにいつもの大人の表情へと戻った彼を見ながらそう考えていればふと、誠泰が和海に向けて口を開く。
「なぜ、髪を伸ばしたのです?」
どこか嬉しそうに眉尻を下げ質問するその姿は、心なしか先ほどよりも一層穏やかな気さえする。
しかし芽衣には今ひとつ理解の及ばないその問いかけ。そうして事情を知っているであろう翔へと無意識に視線が向かったが
(……あ)
ほんの刹那、ふわりと優しくなった目線を父と兄に向ける彼に目を奪われる。
夏風が200年のわだかまりを攫うように流れる中、芽衣はその表情に滲んだ安堵をただぼんやりと見つめていた。




