招待
「──…ん」
「……ちゃん」
遠くで誰かが何かを呼びかけている。そうして次に、朧げながらも鮮明に耳に届いた明るい声。
「芽衣ちゃん」
「ん……」
呼びかけに意識が浮上する。ぼんやりとした意識で薄らと目を開ければ「おはよう」と、どこからともなく低い声が聞こえた。
そうして寝ぼけ眼が捉えた、紺碧の天井を背負ってこちらを見下ろす大きな人影の姿。
「……かけ、る?」
「はは、残念。でも起きられるなら大丈夫だね」
そう愉快そうな声色が耳朶を打つが、それに対して反応を返すには芽衣の思考が十分に覚醒しきってない。そんな彼女を見下ろす、冷たい色を帯びた双眸。
数瞬の後ゆるく唇が弧を描いたかと思えば、薄く開いたそこから明るい声が紡がれる。
「さて意識が戻るのも確認できたことだし、寝てたほうが連れて行きやすそうだから」
区切られた言葉の合間に近付いた唇から「ふふ」と軽い笑い声が直接右耳に注がれる。そうして、次の瞬間。
「『眠っていて』」
「っぇ……」
不意に瞼が力を失い、世界が暗闇に閉ざされる。
まるで深い海の底に沈んでいくように、芽衣の意識はまたも微睡の中へと消えていった。
「よっと」
芽衣を横抱きにし寝顔を見つめる青い瞳は優しく細められているが、それはどこまでも無機質で無感情なもの。
そうして彼女を抱えたまま窓際まで歩を進めると、男はそのままベランダから飛び降りた。
**
「……ん、?」
だんだんと意識が覚醒する。瞼の裏に光を感じるとともに、なにやらふわふわとした感触が全身を包んでいるのが分かった。
そうして目を開けば飛び込んできた、全く見慣れない明るい天井。
──ここは、どこだろう?
「!!!」
瞬間頭が凍てつくような感覚に襲われた。自身にかけられたタオルケットを震える手で剥がし勢いよく上体を起こしたものの、反動でぐらりと目眩に襲われ再度ベッドに背をつける。
翔と会った後の記憶は無いが、自身は確かに自室にいたはず。ならばこの状況は
(誘拐……?)
「そんなに怖がらないで」
「……っ」
声がした方向へと視線を上げた時、思わずはっと息を呑む。
洋室の一角に備え付けられたダブルサイズのベッド。その縁に腰掛けながら肩越しに淡い笑みをこちらへ向けるのは、腰まで伸びた灰色の髪を一本に結い、どこか翳った青い瞳を持つ見知らぬ男性だった。
「勝手に連れてきちゃってごめんね」
しかし見覚えがないはずの男性だが、芽衣は直感的に理解する。
髪型も外見の色も全く違うがその切れ長の鋭い瞳と口元を飾るほくろ、首元に映える青い石には覚えがあって。
「……和海さん、ですよね?」
考えるよりも先に口を衝いた名前。それに対し自身でも瞠目していれば「おお」と感心したような音が耳を掠めた。
「よく分かったね。見た目全然違うでしょ」
どうやら当たっていたらしく、彼は目を細めて愉快に笑う。
確かに見れば見るほど和海には見えないその男性を彼だと判別するのは難しい。外見の色だけでも違えば別人に見えるというのに、顔以外の全てが違うのだから。
そして翔の白黒髪の姿が本来のものならば、これが和海の本来の姿。
(翔も髪の色から目の色まで違ったけど、和海さんは髪長くなってるよね)
しかし彼だと分かってしまえば恐怖心も幾分ばかりか薄らぐわけで。鉛のように重い身体をゆっくりと起こしベッドボードに背を預ければ、彼との目線の高低差が大きく縮まる。
それにしても、まるでホテルのように広々としたこの部屋だけはやはり見覚えがない。
(っていうか、ここどこ?)
「知りたい?」
「っえ?」
「どこか分からないと怖いもんね」
(っ……)
まただ。またこの感覚。
まるで脳内を全て見透かされているような気味の悪さにさあっと体温が下がるのが分かった。
「なんで」
分かったんですか。しかしその言葉が音に成ることはなく、水分を失いぴたりと張り付く喉へと沈む。
そうして言い淀む芽衣を見据える和海から、さも当たり前のように告げられたこんな事実。
「俺ね、人の考えてること読めるんだよね」
トントンとこめかみを人差し指で軽く叩きながら紡がれた言葉。
瞬間頭を独占したのは驚きと、どこか腑に落ちたような冷静な感情。これが、今まで感じていた湿った違和感の正体。
「考えてることって」
「まあ『読心術』ってやつだけど、俺は相手が目の前に居なくても読めるよ。応用で名前とか居場所とかも分かるんだけど」
「あ……」
だから初めて会った時、あの大勢の中から自身を見つけることが出来たのか。大きな驚きもなくそんな事実をするりと飲み込むが、ならば翔も自身の表情ではなく感情を読んでいたのだろうか。
そう思ったのも束の間、次に聞こえたのは「翔は読心術できないよ」という言葉。どうやら自身は本当に顔に出やすいだけらしい。
「まあそれは置いといて。ここは俺らが生まれた家、この部屋は俺の部屋ね」
「え、実家、ってことですか?」
「そうだね。まあ、帰ってくることはあんまりないけど」
淡く弧を描く口元とは対照的に、目元はどこか物憂気に伏せられる。そんな彼の姿も一瞬、すぐにいつもの余裕な表情へと戻った和海はこちらへと言葉を紡いだ。
「聞きたいことがあるなら、なんでも答えてあげるよ」
何故、彼はこんなにも優しくしてくれるのだろう。そこに少しの疑問と足元が浮くような不安を覚えるがその感情さえ見透かされてしまうのであれば、いっそ割り切った方がいいかもしれない。
「じゃあ……、なんでこんな大事なところに私を連れてきたんですか?」
「大事って、この家のこと?まさか」
「え、でも実家なんですよね……?」
関係のない人間を易々と連れてきていい場所ではないのではないか。そんな疑念をまたも見透かしたように「俺にとってはもう大事じゃないから」と、含みのある明るい声が聞こえた。
(もう?)
少しばかり引っかかったものの、それ以上の追及を許さないように浮かべられた冷めた笑みに押し黙る。
心なしか気温までもがじわりと下がる中、止まった空気を先に切り裂いたのは和海の方だった。
「なんで、の部分に答えてなかったね。芽衣ちゃんには俺の目の届くところに居てもらいたくてさ」
(……?)
一体何故だろう。そう不思議に思ったのも束の間、続けて彼が口を開く。
「翔、怖かったでしょ?あいつが悪いわけじゃないから許してほしいんだけど」
「っ……」
瞬間鮮明に蘇る、こちらを見下ろす真っ赤な瞳。一瞬無意識に呼吸が浅くなったものの「落ち着いて」と宥める言葉で胸の辺りがすうっと軽くなる。
「翔は月が出てないとダメでね。俺らと違って『特殊』だから」
「え」
──『吸血鬼は月夜にしか現れない』
最初に立てた仮説の、答え合わせ。
「特殊って、前にも言ってたやつですか……?」
「ん、俺らは『特異体質』って呼んでるんだけどね、目が赤い吸血鬼のことをそう言うんだよ」
そう言われてふと気が付いたのは、海のように深い青を宿す和海の瞳が翔とは似ても似つかないものであること。「海斗は緑の目なんだけど」と続けられた言葉を加味するに、やはり鮮血の瞳を持つのは兄弟間で翔だけのようで。
「髪だって白とか灰色とか色素が薄いのが多いんだけど、特異体質は黒髪が混ざったり色素もバラバラでさ」
「あ、だから」
脳裏に過ぎる、白黒髪の吸血鬼。外見だけでも彼だけが『特殊』と言われている理由がなんとなく理解できたが、月が出ていないと駄目とは一体どういうことだろう。
「俺らと違って翔は人間に化ける時も体力使わないし。でもまあ、その代わり月が出てないと理性が消えちゃうんだけど」
「っ……」
だから、雨が降った途端に様子がおかしくなってしまったのか。そう理解した芽衣を見据える、ゆるりと細められた青い瞳。
「あとは……翔は人間化する時首に何か巻いてないと出来ない、くらいかな」
月が出てない時は人間に化けて凌いでるはずなんだけど。と付け足された言葉で一瞬、思考が止まった。
(……そうだ、あの時)
翔はあの時、自身にチョーカーを見せるために外していた。
なら、ああなってしまったのは、
「芽衣ちゃんのせいじゃないよ。大丈夫」
「!」
言葉にするよりも先に紡がれた他意のない言葉に、無意識に布団を握りしめていた両手の力が緩む。
「たまに着けてないとああなるんだよ。普段なら外さないはずなんだけど、よっぽど芽衣ちゃんに甘いんだね」
低い声にじわっと頬が熱を帯びる。やはり、彼は自身に対して甘いのは気のせいではないらしい。
そうして恥ずかしさのあまりだんだんと下がる目線を再び持ち上げ和海を見やれば、ふと彼のネックレスに視線が留まった。
「和海さんのそのネックレスは、なんで着けてるんですか?」
頭に浮かんだ疑問をそのまま投げかける。すると一瞬青い瞳が瞠目した後「ああ、これね」と、柔らかい声が耳朶を打った。そうしてネックレスを左手で弄びながら、和海はゆっくりと言葉を続ける。
「俺も海斗も首に飾りをつければ、翔だけが仲間外れじゃなくなるからね」
「あ…なる、ほど」
(っ……すごいなあ)
胸を打ったのは、翔に対する本物の兄弟愛。彼だけが特殊で首飾りが必要なら、全員何かを飾れば同じになる。
人間と同じ深い感情がじわりと染み込む中「それに」と、和海は言葉を続ける。
「可愛い弟とその大事な人には辛い思いしてほしくなくてね。だから隔離するために、ここに連れてきたんだよ」
飄々として掴みどころのない和海だが、少なくとも『可愛い弟に辛い思いをしてほしくない』は本心なのだろうと、芽衣はまた直感的に理解した。




