表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/63

鮮血

 雨音だけが耳朶を打つ濃紺の空間。

 そんな暗がりの中自身に跨り両肩に手を添え、じっとこちらを見下ろす翔の姿。飢えた時とも正体を明かした日とも様子の違う据わった鮮血に捕えられ指の一本でさえ動かすことが叶わない。


(っ……)

 カヒュッと小さい吐息が漏れる。様子を窺うように彼を凝視するも一向に言葉が落ちてくることはなく、底なしの昏い瞳がこちらを見据えるばかり。

 そんな彼の手には力が込められていないというのに、それ以上の圧がのしかかるようにして身を縛り付ける。


「……ね、翔、どうし」


 先ほどまで会話を交わしていた姿の次に過ぎる、苦しそうに呻く彼の声。しかし今の彼からは苦しそうなどという様子は一切見受けられない。むしろ、そんな感覚が()()()()()()()()()かのような。

 そして震える声で投げた問いに、答えが返ってくることもなく。



 ぞくりと寒気を覚えるほどの余裕を纏った翔だが、何故だろう。

 今の彼が、まるで感情のない機械に見えてしまうのは。



 助けを呼ぼうにも現在この家には自身と翔の2人だけ。ベッドに縫われた身体では携帯を手にすることすら叶わない。

 そうしてポツポツと響く雨音の中、先に空気を揺らしたのは自身に跨る翔の方だった。


「──っ!!」


 ふわりと首筋を掠めた吐息に身構えたのは彼の顔がそこに埋められた直後。いつの間にかシーツに波が出来るほど沈んだ肩に気付く余裕もないまま、芽衣は咄嗟に彼の名を呼ぶ。


「翔、ちょっと、待……ひっ!?」

 首筋を這う冷たい舌にぞわりと背筋が凍る。言葉を遮ったそれは幾度となく経験した行為のはずだが、今までとは違う彼の静かさが違和感と不安を加速させる。まるで人形のように言葉も発さず、ただ吸血のみを行おうとしている彼に感じた本能的な危機感。


 いくらヒトと同じ姿で優しい彼であったとしても、『吸血鬼』は自身とは全く別の生き物。

 そう理解した瞬間さあっと、手足が氷のように感覚を失っていく。


 果たして、抵抗してもいいものなのだろうか。


「返事してよ、お願い」

 そう言葉を投げかけるものの彼の耳には全く届いていないようで。飢えたあの時でさえ言葉を発していたにも関わらず、ただ無言で自身の首筋に唇を寄せる今の彼はまるで知らない人物。


 そうして、次の瞬間。


「──()っ、ああぁっ!!は、ぁっ」


 柔肌を牙が突き破る激痛に思わず首が仰け反る。はくはくと喘ぐような呼吸は酸素を逃すばかりで取り込むことをせず、今までの焦りや違和感がぐちゃぐちゃに混ざったものが一瞬にして脳を支配した。

 じわりと、久しぶりに彼の姿を見た時とは違う恐怖が目元を滲ませる。


「いたい、やめ……っぁ!?」


 刹那がぶりと肌を噛まれる衝撃が首筋を襲った。吸血とは違い牙を突き立てるだけのその行為はまるで、獲物の味を確かめる本物の獣のような。

 明らかに様子の違う彼に当惑している間も、翔は同じ箇所へと何度も何度も甘噛みを繰り返す。


 牙が突き刺さったのは一度だけ。鋭いそれよりも強く肌に残る、じわりとした鈍い痛み。


「っうぅ……」

 がぶがぶと()まれる度に、皮膚に開いた穴から肌へと生暖かい液体が滴り落ちるのが分かる。

 それを熱い舌の表面でべろりと舐めとる彼は、やはりどこまでも穏やかで冷え切った空気を纏っていて。


 そうして顔を上げた彼の口元を彩る真っ赤な鮮血と、それと同じ色に染まる据わった双眸。



 直感的に理解した。今の翔に、理性など存在しない。

 それでいてどこまでも理性的かつ冷静に獲物を追い詰めるだけの、ただの捕食者になってしまったのだ。


 そして彼が『捕食者』なら、自身はこれからなす術なく喰らわれてしまうだけの『獲物』。



「はっ、はっ、ぁ」

 一体、何が原因でこうなってしまったのか。

 彼に問いかけようにもその言葉が届くことはないのだろうと無意識で理解する。既に呼吸が喉元で繰り返されるほどに浅くなっており、それに比例するように深く思考を巡らせることが出来ない。


 しかしそれでも呼び続ければ彼の意識が浮上するかもしれない。考えるより先に動いた口が『翔』と三文字を紡ごうとした、その瞬間。


「っ!?んん、む、ぅ」


 気付いた時には既に彼の双眸がすぐそこまで迫っていた。遅れて感じた、唇をこじ開けるように噛みついた柔らかいもの。


(ちょっ、なにして)

「っぅ、やめっ…んあっ!?」


 次の瞬間ぬるりとしたものが口腔内に侵入する。同時に鼻腔を突き抜けた、つんとした鉄の匂い。

 溢れる水音を全て封じるように隙間なく蹂躙するキスは以前のそれとは全くの別物であり、呼吸さえ余さず食べられてしまうかのような苦しさを伴って芽衣を襲う。



 紺碧の空間に響く2人分の呼吸音。鼻からくぐもった声が抜ける度、芽衣に噛み付く翔の息遣いが呼応するように荒くなり空気を震わせる。



 深くまで捩じ込まれ、離れた一瞬で呼吸をしようにもそれごと喰むようにまた唇が押し付けられる。自身の血を塗り込むかのように絡んだ舌から逃げようにも、こんな経験がただの一度もない芽衣がそれを止められるはずもなく。


「ふ、ぅ、んんぅっ」

(く、るしっ)


 そのまま酸素を奪われ続けいよいよ意識がぼんやりと歪み始める。いつもの『優しい』彼ならここで止めてくれていたであろうこの行為も、一向に終わりが見えることはなく。

 本当に、喰われてしまうのか。


 そうして諦めの感情が顔を覗かせたその時ふと、とある違和感を覚えた。

 先ほどまで耳朶を打っていた雨音がだんだんと小さくなっていることに気が付いたのは、ふわふわとした意識の波の狭間を漂っていた時。


「……あ゛っ、うう゛」

「っ、?んんっ、ぅ」


 一瞬、翔が苦しそうに呻く声が鮮明に耳へと届く。しかしそれを深く気に留める前に再度唇を塞がれてしまい、最早何も考えることが出来ない。


(も、むり、ごめ)


 雨足が遠のき、極限まで細い月が西の空へと姿を現す。

 それをぼんやりと視認した瞬間ふわりと身体が浮くような感覚を最後に、芽衣はついに意識を手放した。




「……芽、衣?」

 呆然と少女を見下ろす男の呟きが濃紺の空間に融ける。咄嗟に彼女の胸元に手を当てれば弱いながらも規則正しく上下する感覚が掌から伝わった。

 そうして()()()甘さの残る口元をぐいと拭い、やけに風を感じる手の甲を見下ろせば目に映ったのは真っ赤な鮮血。


「──っ!」


 反射的に彼女の首元を見やる。そこに染みついた鮮血が口元のものと同じものだとするのなら、これをやったのは


「俺、か?」


 瞬間ばっとベッドから飛び退いた。そうして未だに信じられないとでもいうように瞠目し続ける、芽衣の鮮血と同じ真っ赤な瞳。

 一体何故。確か自身は芽衣と言葉を交わして、それから──


 雨が、降ったような。


「……っクソ」

 自身に起こった出来事を理解した瞬間苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた翔。そのままぐったりと横たわる芽衣に近付き頬に手を添えれば「ん…」と小さい声が耳を掠めた。


 結局、こうなってしまうのか。


「……あ゛ぁ」

 首に血管が浮き出るほど歯を食いしばり、翔は忌々しげに髪をぐしゃりと乱す。

 それでもなお湧き上がる苛立ちは引くことはなく、全身を包む業火のように勢いを増すばかり。


 だから、会ってはならなかったんだ。 


「……悪いな、芽衣」

 失意の呟きが部屋に融ける。

 そうして涙の跡が残る眦に口付けを落とすと、翔はチョーカーを拾い上げ覚束無い足取りで月が見下ろす濃紺へと消えていった。


 ***


「あーあ、そうなっちゃったか」

 同時刻、電気が照らす部屋の中で男が呟いた。「和兄なんか言った?」との問いかけに「なんでもないよ」と返せば、弟はそれ以上詮索する気がないようにふいと顔を逸らす。


 そうして数瞬の後不意に何かを思いついた和海が再度、海斗に向かって口を開いた。


「ところで海斗」

「ん〜?」


「生家の記憶、あるかな」


 問いかけた瞬間ぴたりと海斗が動きを止めた。その双眸は大きく見開かれており、ギギギとぎこちない動きでその視線が和海へと向けられる。


「……和兄からその話出てくるの、珍しいね」

「まあちょっとね。聞いといてあれだけど、多分記憶ないでしょ」

「分かってるなら聞かないでよ。僕あそこにいたのほんの少しなんだから」


 まるで何かから解放されたように胸を撫で下ろす弟を一瞥した後、今度はソファから腰を上げた和海。


「どっか行くの?」

「ん、まあちょっと散歩。それより翔がそろそろ帰ってくると思うけど、俺の居場所聞かれたら適当に答えといてね」


 そう言い残した和海もまた翔の部屋を後にし、か細い月が見下ろす濃紺の夜へと消えていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ