再会②
ドクドクと、耳元に心臓があるのではと錯覚するほどに大きく鳴り響く鼓動。それとは別に右頬から伝わるゆっくりとした鼓動が、翔と隙間なく密着しているという事実を如実に物語る。触れて確かめる必要のないほどに上気した自身の顔とまたもや滲む視界が、この状況を飲み込もうとする思考の邪魔をしていた。
一体、彼は何を考えているのだろうか。
「ちょっ、翔?なにして」
「静かに」
宥めるように言葉を紡ぐと、翔は芽衣を囲う片腕を彼女の側頭部へと移動させる。まるで恋人同士がするような抱擁でついに溢れ落ちた生理的な涙が彼の服を濡らし、咄嗟に離れようと身を捩るものの彼の腕の力が増すだけで徒労に終わるばかり。
「……強がってるだけで、やっぱり俺が怖いんだろ」
「っ……?」
不意に溢れた小さな呟きが紺碧の空間へと融け消える。しかしどこか自嘲するような、それでいて何かを諦めたように彼自身に言い聞かせる言葉を紡いでもなお、翔が自身を解放するような気配は全く感じられなくて。
「別に、怖くはない……けど」
「説得力がなさすぎるな。それに、俺はお前をずっと騙していた男だぞ。危機感もねえのか」
確かに泣きながら離れようとしているのだから呆れられてしまうのも無理はない。それに加え、自身の行動も彼にとってみれば可笑しなものなのだろう。
吸血鬼の正体を彼に突きつけたあの日。あの時確かに、自身は一度真っ暗な空間へと堕とされた。
それまで信じていた人に裏切られていたという絶望感を、あの時身をもって経験したはずなのに。
「怖くないのは本当だよ……まあ確かに、騙されてたのはショックだったけど」
「……そうか」
「それにその……き、らいって言われたのも悲しかったし」
「ああ」
全てに相槌を打ちながら、翔は何かを確かめるように芽衣の側頭部を一定のリズムで軽く叩く。覚えのあるそのあやすような手つきは、確かに『吸血鬼』が自身にした行動と同じもの。
自身を欺き続けた吸血鬼。その言動に垣間見えていた温かさは紛れもなく『翔』と同じ。
「でも翔、なんだかんだ言って優しいよね」
「っ」
しかし口にした瞬間唐突に、彼の体温がふっと離れていく。湿った夜風が肌に残る体温を攫う度、夏に似つかわしくない肌寒さが芽衣を襲った。
「……俺が、優しいはずないだろ。だから好きだと勘違いしてるのか」
苦しげに眉を顰めた彼が紡いだ言葉はこちらを拒絶するようでもあって、彼自身を拒むようでもあるもの。
まさかとは思うが、騙していたこと対する罪悪感でも感じているのだろうか。
(翔に限って罪悪感はないと思うけど……それに)
自身のわがままを聞いて会いに来てくれて、あまつさえ話も聞いてくれる彼が優しくないと言うのなら一体どのような人物が『優しい人』と言えるのだろうか。
「勘違いじゃ、ないと思うけど。あと、騙してたこと許したわけじゃないからね」
「……ああ」
あえて口にした感情。しかしそれを紡いだ瞬間ふっと、彼の纏う空気が和らいだ。
もし彼の感じているのが本当に罪悪感ならば、『許していない』は一周回って救いのような言葉なのだろうか。そんなことをぼんやりと思っていれば「はあ」と、片手で目元を覆った彼の吐息が耳を打つ。
「お前といると駄目だな、俺がどんどんおかしくなる」
「っ、……なんか、ごめん」
やはり、彼は自身のことを嫌いではなくても快く思ってはいないのだろう。そんな現実を改めて突きつけられたような気がして斜め下へと視線を落とせば
「おい、勘違いするな。こっち見ろ」
との言葉と共にぐいと、頬を片手で掴まれ顔を上へと向かされた。突き刺すような、しかし柔らかさを帯びた鮮血の双眸に絡め取られてしまい視線が泳ぐことすら許されない。
そうして、永遠のような刹那の後。
「……お前のそばにいるのは、別に嫌じゃない」
「っえ」
不意に落とされた言葉が芽衣の呼吸を奪う。ぐらりと頭が揺さぶられるような錯覚を覚えながら、驚嘆を隠せない茶色の瞳は信じられないと言うように瞠目するばかり。
その言葉が自身をどれだけ自惚れさせるのかなど、彼は知る由もないのだろう。
「あんまりそういうの言わないほういいよ。それこそ勘違い、しちゃうから……」
「なにがだ」
「……その、」
翔も、自身と同じ気持ちなのではないのかと。そんなことはないと、ちゃんと解っているのに。
芽衣の答えを静かに待つ彼が作り出した沈黙。気まずさを覚えるそれを破るように、芽衣はあえて明るく話題を変換させる。
「やっぱりなんでもないよ。それよりさっき鍵開ける前に入ってきてたけど、あれどうやってるの?」
あからさまなすり替えを不審に思わないわけがないのは百も承知だが、そんな芽衣の意思を汲み取ったかのように話題を深掘りする気はないようで。
「……質問が多いな」
「また会えなくなる前に、聞いておこうと思って」
自身に向けて張った予防線。強請って得たこの機会がもう二度とないものだと言い聞かせれば、自身の想いも仕方がないものだと割り切ることが出来るだろうから。
「お前の『好き』が勘違いじゃないのなら、もうお前の前から消える理由もねえだろ」
「っえ」
しかし翔はそんな決意をいとも容易く揺さぶる。まるで当たり前の事実を告げるように淡々と落とされた言葉は、彼にとってはきっと気に留める程のことでもないのだろう。
「『吸血鬼は招かれた家にしか入れない』、分かるか」
気の抜けるままにぼんやりとしていればそんな答えで意識がぐいと引き戻される。確か、そのような話があの小説にも書かれていたような。
「逆を言えば、俺らの存在を認識した時点で招いたことになるんだ。だから鍵が開く」
「ん〜、難しい」
「お前がこの部屋で起きていれば、俺は勝手に入ることが出来るんだ」
つまり、吸血鬼である彼が窓の外にいるという事実さえ確認出来ればいいということらしい。だから、彼はわざわざノックをすることにより存在を認識させていたのだろう。
そしてそれを最も分かりやすく説明するため、鍵を閉めておくように言ったのだ。
(なるほど……)
ストンと腑に落ちた事実を飲み込めば、また新たな質問が顔を出す。それは、芽衣が『調査』をする上で1番最初に気が付いた仮説。
「ずっと気になってたんだけどさ、なんで月の出てる時にしか来ないの?」
「……聞いてどうするんだ」
「ん、ただの興味?」
先ほどまでの質問とはどこか違う反応。もしかしたら聞かれたくなかったのかもしれないと後悔の念が浮かび上がるが、取り消しの言葉を口にするよりも早く翔は緩く瞼を閉じて息を一つ吐く。
「……仕方ないな。俺は──」
そうして言葉を続けようと息を吸い込んだ。
その時だった。
──ポツ、ポツ。
(ん?)
不意に聞こえたベランダを打つ音。それが雨音だと理解したのはほんの数秒後だった。反射的に窓の外を見やればいつの間にか、線のようにか細い月も雲に覆われ見えなくなっている。
だが雲の隙間からところどころ紺色の空が見えていることを考えるに、本降りの雨というわけではなさそうだ。
「──っ!」
刹那、翔がベッド上に置かれたチョーカーへと手を伸ばす。しかしその手がチョーカーに触れることも、窓を閉めようと立ち上がった芽衣がそれに気が付くこともなかった。
(すぐ止むかもだけど、とりあえず)
そうして一歩、前へと足を踏み出した時。
「わっ!?」
ぐいと腕を掴まれ倒れ込みそうになった身体を慌てて持ち堪える。遅れて伝わった、男のものだと実感する大きな手の感触。
そうして咄嗟に振り返った際、視界を一瞬にして支配したとある光景。
「っ、え、大丈夫!?」
そこにあったのは左胸の辺りを血管の浮き出る手で握りながら、肩を荒く上下させ苦しむ翔の姿。
まるで理解の及ばないままに触れようとするも、掴まれた腕のせいで身体ごと振り返ることすら叶わない。
「芽衣、俺から…離れ…っ」
苦しそうに呻く声とは裏腹に、腕を掴み続ける手には離さないと言わんばかりの強い力が込められる。鈍い痛みさえ感じるそれに眉を顰めつつ腕を引き抜こうとするも、それはいつかのように振り解くことが出来ない。
そうして、次の瞬間。
「っ!!?」
ぐらりと視界が反転し、気が付けば翔が天井を背負ってベッド上の自身を見下ろす。しかし
(いつもと違う……!!)
揺れることなくこちらを射抜く、捕食者の色を帯びた鮮血の双眸。荒い呼吸が一転、水を打ったように静まり返った彼にぞわりと鳥肌が立つのを感じつつ、芽衣の脳内ではひたすらに警鐘が鳴り響いていた。




