彼の声
「か、ける!?」
ディスプレイに表示された【涼崎翔】の文字とメッセージ。あまりに突然のことに理解が及ばないままそれを見つめ続ける芽衣だったが、そこに見えた文字ではたと我に返る。
【兄さんの方が良くなったか】
「え」
画面上に並ぶ無機質な文字から滲み出るのは、どこか子供のように拗ねているような感情。
おそらく和海と連絡を取ったことを指しての言葉だろうが、あの時『嫌い』だと明言した相手に対してこれはあんまりではないのか。そんな理不尽とも言える文言にモヤモヤを抱えながら【そんなことないけど】と簡潔に返信した、次の瞬間。
ヴヴッ、ヴーッ、ヴーッ。
「わっ!」
不意に始まった長い振動が直に掌へと伝わる。浮かび上がった画面に表示されたのはもちろん翔の名前であるが、芽衣は指を動かすことも出来ないまま立ち尽くすばかり。思考が置いてきぼりのままぼんやりとそれを見つめていれば、数瞬の後痺れを切らしたように振動が止まった。
ヴヴッ。
【出ろ】
「ええ……」
なんとも彼らしい物言いに思わず眉尻が下がる。そうして緊張と嬉しさが綯い交ぜになったような感情が湧き上がったことで実感したのは、久しぶりに名前を見ることの出来た彼の存在そのもの。
自身を騙していた吸血鬼、嫌いだと言われた相手にこんな感覚を覚えてしまうほど、この3ヶ月で自身はどうにかなってしまったようで。
ヴーッ、ヴーッ。
再度着信画面が表示されるとともに携帯が音を立て始める。かと思えば被せるように表示された【早く】とのメッセージ。選択肢など与えないような物言いに深呼吸をすれば、指が自然と応答ボタンへ伸びる。
「も、しもし?」
『……』
「……?えっと」
(なんで無言なの!?)
切れてしまったのだろうかと咄嗟に携帯を眼前に持ってくるものの、表示された通話時間は1秒毎の時間を刻み続けている。早く出ろと急かしたのは翔であるというのに、出たら出たで沈黙が続くこの状況。
もしかして、揶揄われているのだろうか?
「どっか行っちゃった……?」
『なわけないだろ』
「わっ」
久しぶりに耳に染み込む低く落ち着いた声。脳にじわりと広がったそれは、どうやら目頭を熱くしてしまうには十分すぎるものらしい。
思わず声が震えそうになるのを誤魔化すように意識を逸らせば、芽衣の口は取り繕うようにして中身のない言葉を紡ぎ始める。
「今どこにいるの?」
別に今知りたいのはそんなことではない。躓くような前のめりの動揺を隠しきれずに動こうとする口を固く引き結んでいればしばしの沈黙の後『東京』と、彼らしい端的な返事が電話口から届いた。
「え、いいなあ。修学旅行でしか行ったことないや、はは」
跳ねる鼓動に押し出されるように漏れ出る言葉。思考とは関係のないそれが更なる悪循環の入り口だと悟った芽衣は目を瞑るとゆっくりと深呼吸をする。
『そんなに慌てることか』
「えっ、まあ、っ、電話くれると思わなくて」
『……お前が話したいって言ったんだろ』
(あ……)
瞬間、肩の力がふっと抜ける。低い声に乗せられたその言葉は、深呼吸よりも早く芽衣の動揺を落ち着かせることの出来るもので。
しかし、次に聞こえたのはこんな言葉。
『俺に会ったところで、言いたいことなんてもうないだろ』
「っ……」
ぴしゃりと言い切られてしまえば、自身の期待が入り込める隙間などあるわけもなく。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあるのに彼はそうではないのだと、改めて突きつけられたような気がした。
そう、落ち込んだのも一瞬。
『……まあ、いい。あそこまで言われて黙ってられるか』
「ん?」
『いや』
突き放すことなく言葉を続けた彼に対しパッと、芽衣の心に一筋の光が差し込む。
だが彼の声はこちらに向けた呟きというより、まるで遠くへ言葉を投げているようなもの。不思議に思っていればこれまた唐突に、電話口からとある宣言が聞こえる。
『12日の夜、お前の部屋に行く。窓を閉めて鍵をかけておけ』
「え?」
宣言というよりもはや命令。しかし何故、わざわざそんな指示を出すのだろう。
「来るなら開けといた方いいんじゃない?」
『いいから』
相変わらず言葉足らずだが、こうして以前のように会話が出来ているだけで奇跡に近い。
しかしその言葉で顔を覗かせた欲深さが、彼に早く会いたいという思いを加速させる。
「12日は分かったけど、まだ東京にいたい感じ?」
流石に『すぐに会うのは嫌?』と聞くほどの勇気はないため周りから理由を探ってみる。すると電話の向こうが不意にしんと静まり返ったかと思えば、すぐにこんな答えが聞こえた。
『……別に新月が近くなかったらすぐ行くが』
(新月?)
そう反芻した時はたと思い出した『吸血鬼は月夜に行動する』という仮説。しかしそれを深く考えるよりも早く芽衣の胸中を満たしたのは『すぐに行く』との言葉に対する温かさ。
「分かった、12日ね。なんかごめん、わがまま言って」
『……構わない。俺も言いたいことがあるからな』
(えっ)
刹那ざわざわっとしたものが左胸を締め付ける。嫌いだと明言した彼が改まって『言いたいこと』があるなどと、自身にとって嬉しいものではない可能性が高い。
せっかく温まった心が、またあの虚無感を味わうのは絶対に嫌だという感情に支配され温度を下げる。
しかし、次の瞬間。
『……もう嫌いだなんて言わない、あれは違う』
「っ…え」
ぴたりと、周囲から一切の音が消える。
電話口から届いた、耳を疑うような発言。しばし放心状態のまま目の前を見つめていれば『どうした』と、再度低い声が耳朶を打った。
彼は、自身を嫌っていたのではないのか。
『おい、芽衣』
「っ、なに?」
ぐいと引き戻された意識のまま返事をすれば、電話の向こうからふうと息を吐く音が聞こえた。
『とにかく、逃げずに部屋で待ってろよ』
「……逃げないよ」
そう返せば『そうか。じゃあな』と満足気にも聞こえる声がツーという無機質な音へと変わった。そのまま携帯を耳から離してテーブルに置けば、彼の言葉がぐるぐると耳奥でこだまする。
──『もう嫌いだなんて言わない』
どん底から引き揚げるようなあの言葉に、期待してもいいのだろうか。
ヴヴッ、ヴーッ、ヴーッ。
「ん、あれ」
不意に再度振動を始めた携帯電話。何か言い忘れたことでもあるのだろうと思いつつ、ディスプレイに視線を落とした時。
「って、え?」
そこに表示された『和海』の2文字に思わず瞠目した芽衣。つい1週間前に連絡を取り合ったばかりでどんな用事だろうと思ったものの、翔の声を聞くことが出来たのは彼のおかげ。
その礼を述べようと、指が戸惑いなく応答ボタンを押下する。
『芽衣ちゃん久しぶり、翔からの連絡遅くなってごめんね』
久しぶりに耳にした明るく低い翔の兄の声。「お久しぶりです、すごく助かりました」と言葉にしようとした、その時。
(あ、れ)
ひゅっと、礼の言葉は喉奥へと沈む。何故、翔との連絡が取れたことを知っているのだろうか。
(メッセージ送った……?いや、それにしたって)
今さっき電話を終えたというのに、そんな時間はなかったのではないか?
『どうかした?』
その言葉ではっと我に返る。いくら彼の放つ違和感に慣れを覚えてきたとはいえ、流石にここまでくるとぞわりとしたものが足元から這い上がってくるわけで。
しかし何故知っているのかを尋ねるのも憚られる。それに聞いたところで、おそらく答えてはもらえない気がした。
「いえ、黙っちゃってすみません」
『いいよ、気にしないで。それより芽衣ちゃんの役に立てて良かったよ』
はたから聞けば、まるで面倒見のいい年上の発言。
しかしその明るい声色が無機質に聞こえてしまうのは、一体何故なのだろうか。
(こんなにいい人なのに……)
『しかし、翔も翔だよなあ』
「っ?」
不意に聞こえた、まるで青空のように清々しい笑顔を想像させる声。違和感との温度差に思考が遅れをとる中、次に彼の口から紡がれたのはこんな発言だった。
『1週間ちょっとで決意が揺らぐようじゃ、ね』
どこか嘲笑するような呟きに背筋がぞくりと粟立つ。そうして蘇った、約1週間前の彼の言葉。
──『あと1週間くれるかな』
(っ……)
言葉通りの期間。まるで、最初からこうなることが分かっていたかのような。
そして同時に耳奥に再生された『あそこまで言われて』という翔の声。
「和海さん、翔になんて言ったんですか?」
あの呟きは、もしかすると兄に向けたものだったのではないのか。
『俺は別に何もしてないよ、少し煽っただけで』
一体どのように煽ったのか気にはなるが、聞いたところで無意味だということくらい解る。
やはり、翔も兄弟には敵わないということだろうか。
『ところで芽衣ちゃんはさ、翔の首のアレ見えてるんだよね?』
「アレ?」
不意に投げかけられた問いに、湿った違和感がたちまち霧となってどこかへと消えていく。
問われた『翔の首のアレ』という単語で思いつくものはただ一つ。
「あ、チョーカーのことですか?」
『そうそう』
満足気な返答が聞こえるものの、見えてるんだよねという問いがどこか引っかかる。
そんな芽衣の沈黙から言わんとすることを読み取ったように続けて和海の口から紡がれたのは、一瞬の呼吸を奪うこんな発言。
『アレね、本当は人間には見えないはずなんだよね』




