彼女の幸せ
「また鳴ってるな、あれ、違う名前だ。これも女の子か?」
「……兄さんだな」
音を立て続けるディスプレイに表示された『和海』の2文字。無視すれば後が面倒だが出る気にもならないと逡巡するうちに振動が止まったかと思えば、続けてメッセージアプリの通知がロック画面に浮かび上がった。内容は【東京土産待ってるね。それはそうとして】。
「兄弟に行き先伝えるなんて、仲良いんだな」
「……言っていないが」
「え?」
前屈みのままぴたりと動きを止め二の句が継げなくなった龍から携帯へと視線を落とす。実際、昨夜芽衣の部屋を後にしてからこの家に着くまで誰とも言葉を交わしていないのだから、和海が自身の居場所を知るはずがないのだ。
「あの人は、少し特殊なんだ」
やはり、兄には敵わない。
ぼんやりとそんなことを思っていればヴヴッと再度振動した携帯。手に取ったそれに通知が浮かび上がった瞬間、それまで気怠げだった翔の漆黒が大きく見開かれた。
【芽衣ちゃんが会いたがってるよ】
「……は」
吐息が空気に融けるよりも早くさあっと、自身の中で何かが温度を下げた。何故、芽衣の名前が出てくる?何故、兄は芽衣と言葉を交わしたんだ?
自身は彼女の顔を見ることすらもう叶わないというのに、何故。
「……気持ちが悪いな」
胸中を一気に満たした正体不明の苛々。それは以前覚えた玩具を横取りされたような幼稚な感情ではなく、もっと重くて暗いもの。そうして次に感じた顎の鈍い痛みは、自身が無意識に歯を食いしばっていたことを如実に表していて。
「ん、なんか言ったか?」
「……」
ヴヴッ。
【そんなに簡単に手放せるんなら、俺が貰ってもいいよね】
──は?
ヒビが入りそうなほど携帯を握りしめた手の甲にくっきりと浮かび上がった青筋。目の前の色違いの双眸が瞠目したかと思えば左右に大きく揺れる様を見るに、自身は今酷い顔をしているのではないだろうか。
何故そうなる。
一体なんのために、彼女を手放してやったと思っているんだ。
「翔、顔怖いよ」
いつの間にか龍の隣へと腰を下ろした成実にそう指摘され、翔はシワを伸ばすように眉間を左手の親指と人差し指で押さえる。
分かっている。他者に興味のない兄の言葉が、自身を焚きつけるための出鱈目であることくらい。
だがそうだとしても彼女は吸血鬼の隣ではなく、人間の男の隣で笑っているべきだ。
そう、頭では解っているのに。
「……大体、俺は別に好きじゃないんだ」
言い聞かせるようにあえて音に乗せた言葉。『好き』という感情がどんなモノかも解ってはいないが、自身のような化け物の傍では笑顔で居続けることなど叶わないと、それだけははっきりと解る。
だから解放してやるつもりで、思ってもない言葉で彼女を突き放したのだ。
「そんなに食いしばると歯が折れんぞ。はあ……お前はその子にどうなってほしいんだよ」
不意に聞こえた龍の声。柄にもなく真面目な表情で問いかけられ、色違いの双眸から逃れるように斜め下へと視線を落とす。
「……不幸にならなければそれでいい」
「回りくどいな、幸せになってほしいんだろ?それが好きって感情だと思うぜ」
──幸せ。
ああ、そうか。
「りゅーかっこいいー、惚れそー、さすが保護者」
「うるせ」
そんな茶化しが遠くから聞こえるほどに、『彼女の幸せを願っていた』という事実が胸にストンと落ちる。
しかし、同時に気付いてしまった。
確かにあの移り変わる表情が曇ることは望んでいないが、他の男の隣で笑う彼女を描く度にどうしようもない苛々が腹の底から込み上げてくる。
本心から彼女の笑顔を望めないのなら、それは『好き』とは程遠い感情なのだろう。
「……他の男の隣にいるのを想像しただけで駄目だな。殺したくなる」
勝手に動いた口が紡いだ、自身でも理解が及ばない胸中。それが音になった瞬間ぴたりと、それまで小競り合いを続けていた2人が一斉に瞠目したのが目に映った。
「おまっ、彼氏でもないのにその独占欲はやべーって」
「もう好きとは別物じゃん?ここまでくると愛だし、だいぶ拗らせてんね」
一斉に異口同音を並べられ目線を逸らすことしか出来ない。苦しさを覚える感情の矛先も噛み砕き方も解らないものの、非難する口調からして決して褒められた感情でないということくらい理解出来る。
「ちなみにその物騒な発言はどっちに対して?まさか女の子の方じゃないよね?」
「さあな」
今までの相手には覚えたことのない喉の渇きと、満たされているはずなのに感じる底知らずの空腹感。らしくもなく他者に興味を持ち入れ込んだ理由はやはり、初めて『調査』に対する刺激を感じることが出来たからだろうか。だとしても、これは『遊び相手』に対して抱いていい代物ではない。
加えて芽衣の言う『好き』がどれ程のモノかは解らないが、それはきっと自作自演の『調査』で手助けを続けた自身に対する感情を、まるで親鶏を追う雛のように盲目的に勘違いしているのだろう。
そうであるべきだ。
「ったく、俺らより何年も生きてるくせに好意が分からないなんて、お前もまだまだだな」
「素直じゃないのは今に始まったことじゃないんだけどね、殺したくなるくらい好きなんでしょ?」
「その発言もやべーけどな、俺らが理解あってよかったぜ全く」
そんな言葉を受けていた時ふと、とあることに気が付いた。
それはいつの間にか、芽衣が自身の視界のどこかには存在していたという事実。
気付けば目で追ってしまうほどに、不在なら途端全てがつまらなくなるくらいには異質な存在。自身はこんなにも他者に関心が持てたのかと、他人事のように驚きさえ感じられた。
やはり、らしくない。
「っていうか話変わるけどさ、なんで東京からわざわざ地方に行ったの?新幹線の距離じゃん」
そんな成実の問いかけではたと我に返る。考える間もなく翔は咄嗟に、そして珍しく素直に答えを返した。
「……あの近くに、俺の生家があるんだ」
「へえ、里帰りって感じ?」
意思とは関係なく言葉を返した口。しかしそれを気に留める前に脳裏に蘇ったのは、ずっと昔の家族の姿。
「……そうだな」
人間は他者を忘れる時、まず声から忘れていくのだと耳にしたことがある。確かにもう何年も会っていない両親の声など、とうの昔に忘れてしまった。
あんな形で家を出てしまったのだから無理もない。特に兄はこの話題をひどく嫌っているため口にすることもなく、思い出すことさえ今までなかったのだ。
自身が次の『調査』に出生地を選んだのも偶然。そこで芽衣と出会ったのも、偶然のはず。
「生家なあ。帰るにしても日没迎えるだろうし、この時間に来たってことは泊まっていくんだろ?」
「ああ」
「いつまでここにいる気だ?」
そう問われ、翔は頬杖をつきながら明後日の方向へと視線を向ける。
芽衣が兄と言葉を交わしているという事実は不快でしかない。自身が手を離してやった意味がないのだから。
だが、それでも彼女と再び会う気にはなれなかった。今度顔を見てしまったら、おそらく今以上の空腹感に苛まれるはずだ。正体の解らない苛々も増すことだろう。
これからも続くであろう永い生の一瞬。その刹那さえ我慢すれば、いずれこの感情も消えてなくなるはず。
「……俺が、あいつの声を忘れるまで」
「声?あー、なるほどな。俺の方が早く世間から忘れられるなこれ」
そんな皮肉混じりの返しを右から左へと流すと、ここまでずっと握りしめていた携帯から漸く手を離す。
これで、良かったんだ。
そう言い聞かせつつ、翔はまだ耳に残る少女の声から目を背けるようにゆっくりと瞼を伏せた。
***
「まだこれしか経ってないんだ……長い」
翔に嫌いと明言されたあの日から1週間と少しが経過した8月7日、火曜日のこと。月を跨いでも翔、和海両名から一向に音沙汰がなく、たったの1週間が何年にも感じられ始めていた。
「連絡ついたとは言ってたんだけどなあ、海斗くんにも聞いてみる?」
和海と連絡したあの日の夜、【連絡はついたんだけど頑固でさ。あと1週間くれないかな?】とのメッセージに安堵と落胆が混ざったため息を吐いたのが記憶に新しい。結果的に和海の手を煩わせることにもなってしまい、今更後悔の波が押し寄せた。
(めっちゃ嫌われてるじゃん私……)
こんなに他人を巻き込んでいるというのに、この期に及んでもなお自身は彼に何を言いたいのか、なぜ顔を見たいのかは解らない。想いを真っ向から否定されて、もう伝えるべきこともないのに。
しかしただ一つだけ確かなことは翔が吸血鬼であろうと高校生であろうと、自身の中ではどちらでも違いないということ。
(だって、どっちも翔だし)
心の中で呟きつつ無意識に、芽衣の右手が喉を摩る。しかし唯一翔の存在を証明していた喉元の痕はもう綺麗に無くなっており、それが今までの時間をも消してしまったようで寂しくなった。
以前なら間違いなく隠し方に試行錯誤していたであろう赤い痕も、翔の部屋を訪れた際は隠す余裕もないほどだったのだからおそらく目立っていたことだろう。初めて抱くそんな感情に対し、戸惑いの混ざった苦笑いが溢れる。
──ヴヴッ
不意に振動した携帯に意識が引き戻される。反射的に視線が向かうもののおそらくアプリの通知だろうと諦観するまま手に取った瞬間ひゅっと、時が止まった。
「え、待っ、うそ」
呼吸を忘れるほど、茶色の双眸が裂けそうなほど大きく見開かれた目の先に表示されたメッセージの送り主。
それは今、最も目にしたかった3文字の人物からの通知だった。




