三文字
翌朝、ぼんやりと開いた目が白く染まる天井を視認した瞬間ガバッと勢いよく身体を起こした芽衣。血液を多量に失った身体が眩暈を誘発したものの構わず部屋の中をぐるりと見渡す。
「いる、わけないよね」
はあと大きなため息を溢せばくらりと力が抜け、そのまま体温の残るシーツに再度背を預ける。開いた窓から吹く温い風も室内に置かれた段ボールも、昨夜の出来事は全て夢だったのではないかとさえ思えるほど変わり映えのしない光景。
しかし、耳奥にはっきりと残る『きらい』の三文字。
それを反芻するたびにギュッと苦しくなる心臓が、月明かりの下で交わした会話は全て現実だったのだと如実に物語っていた。
加えて無意識に喉元をさすればピリッと走る僅かな痛み。いつかのような咬み跡だろうかと携帯のカメラを鏡代わりに確認してみれば、そこに映ったのははっきりと赤黒く染まった皮膚。以前咬まれた時と明らかに違うその色に目を見開いた時蘇ったのは、唇のみで皮膚を吸われたあの湿った痛みだった。
「え……」
恋愛経験のない芽衣でもこれが所謂キスマークだということはすぐに分かったが、嫌いだと思っている相手にわざわざこんなことをする意味は解らない。そう思い検索エンジンでキスマークを付ける心理について調べてみるものの、そこに並んでいたのはやはり『愛情』『独占欲』などおおよそ彼の言葉とは結びつかない文字ばかり。
なら色濃く主張するこの痕は、彼なりの嫌がらせのつもりだったのだろうか。
(っ、なんでこうなっちゃったかなあ……)
沈む気持ちとは裏腹に嫌味なほど広がる晴天が網膜を刺激する。目を背けるように白い壁へと視線を移すも、気分が空のように晴れることは一向にないまま。
自身はただ、翔の望み通りに吸血鬼の正体を暴いただけ。
彼が自身を騙し続けていたことも大変なショックではあるが、それを上回ったのはやはり心に深々と突き刺さるあの三文字。彼に自身と同じ気持ちを求めていたわけではもちろんないものの、好意的に思っていた人物に嫌われていたという事実はどうしても辛いものがある。
「どうすればいいの……」
誰に言うでもなく溢すと携帯に指を滑らせ電話帳を開き、ら行までスクロールして見つけた『涼崎翔』の文字。一度タップし出てきた発信のアイコンを見つめるが、詰まる呼吸がそれを押下することを許してくれない。
今更電話をしたところで何になる?着信拒否でもされていたら、もう打つ手がなくなってしまう。
ならこのまま何もせず、何も知らない方が幸せではないのか。
「嫌いな人から電話かかってきたら、迷惑だよね」
口を衝いたのは、そんな言い訳。彼に半ば強制的に登録させられた連絡先も、欠席した時電話越しに聞いた低い声も、いつかほんの少し苦い思い出くらいにはなってくれるだろうか。
「っ、私が、翔の言う通り忘れちゃえば済むし」
別れの挨拶と彼は言っていた。つまり、自身の前に現れるつもりはもうないという意味。
胸に重石が乗ったような心地に襲われ、思わずギュッと顔を顰める。呼応するように目元を滲ませる寂寥感は、忘れることなど出来るはずがないと言外に主張していて。
そうして耐えるように噛み締めた唇から伝わる痛みが、早送りでこれまでの日々を思い出させる。
ベンチの座面を払う気遣いも、勝手に負の方向に考えて落ち込む自身の背中を押す心強さも、公園で見せてくれたあの笑顔も。
ここで逃げてしまえば、二度と目にすることは叶わない。
──寂しい。
このまま息苦しさを無視して、やらなければ後悔するであろうことから逃げるのは容易い。
だが果たして、それで本当にいいのだろうか?
「っ」
ベッド上で何をするでもなく壁を睨んでいても、無情に時を刻む秒針の音が響くだけ。
行動を起こさない限り、このまま何も進展しないことくらい分かっている。
「……当たって砕ければ、楽になれるかな」
あんな結果を招いたとはいえ、自身の想いははっきりと伝えることが出来た。それに既に嫌われているのであれば、ここから更に突き落とされることはないはず。
そんな考えに導かれるまま再度発信ボタンに指を伸ばす。しかし触れる直前になって、芽衣ははたと思い至った。
「どうせ最後にするなら、会いたいな」
電話で何かを言われるくらいなら、彼に直接会って思いの丈を全部言ってもらった方が諦めがつくのかもしれない。嫌いな相手が押しかけてくるなど拷問でしかないだろうが、最後にわがままを聞いてはくれないだろうか。
聞きたいことはたくさんあるが、おそらくそれを彼に尋ねることは出来ない。なら、せめて自身の後悔が少ない方を選びたい。
(私ってこんなにわがままだったかな)
思わず苦笑いが溢れる。翔に出会ってからというもの、彼に対する行動は自分自身でさえ時に予測不可能になっていた。
だが彼に対するわがままもこれが最後。そう思いつつ壁掛け時計に目をやれば、時刻はすでに10時を過ぎたところ。
「よし、行くか」
そうして出血多量のせいか怠さの残る足を無理やり動かして自室に戻ると、クローゼット内の箪笥から適当な服を引っ張り出す。寝間着のカットソーを手早く脱ぎ着替えを済ませると、次に視線が向かったのは机の引き出し。
その引き出しの中からお守りを取り出しポケットに入れる。中学に進学したタイミングで祖母から貰ったそれは、緑色の輪っか状の組紐に薄青色の鈴が付いたシンプルなもの。運動会などの勝負事の際や緊張する発表会などの時は必ず持ち歩いている、芽衣にとっての願掛けアイテムだった。
(これのおかげでなんとかなればいいけど……)
ほんの少し膨らんだポケットを軽く1回叩き「よし」と気合を入れると、芽衣は急いで自宅を飛び出した。
──ピンポーン。
「……出ないかあ」
息を切らしながら辿り着いたアパート2階の角部屋の前。そこで呟かれた言葉は、誰に拾われるでもなく蝉の鳴き声にかき消されていった。夏真っ盛りだというのに足先から冷えていくのは、おそらく緊張のせいだろう。
髪が肌に張り付くのも構わずダメ元でもう一度インターホンを鳴らしてみるものの、ドアの向こうから人の気配は感じられない。居留守までして会いたくないと思われているのなら申し訳ないが、ここで帰ってしまえばそれこそ二度と機会がない気がした。
(私だいぶヤバいやつじゃ……?でもここまで来ちゃったし)
そしてピンポーンと、半ば自暴自棄で指をもう一度押し込んだ、その時。
ガチャリ。
(えっ)
不意に聞こえたドアの開く音。しかし目の前のドアは依然として閉ざされたままであり、ここから先ほどの音が出るのはあり得ない。そんな耳からの情報が目からのそれと結びつかずに軽く混乱していれば「どうしたの」と、左隣から低い声が聞こえた。
反射的にそちらを見やれば思わず「あ…」と声が漏れる。そこにいたのは開け放ったドアを片手で固定しながら、こちらを見据えつつ首を傾げるスウェットを着崩した男性。肩まである黒髪と真ん中で分けられた前髪は、さながらロックバンドのメンバーのような風貌だった。しかし年上風だというのにどこかで見たことがある気がするのは、果たして気のせいだろうか。
「あれ、君そこの家主の友達?」
気怠そうにそう問われ若干身構えたものの、友達かと問われれば決してそうではない。そんな芽衣の逡巡を見抜いたように「あー、深くは聞かないけどさ」と答えた彼に内心安堵していれば
「その子なら今朝早くに出て行ったみたいだけど」
と、芽衣にとってはおおよそ予想外の言葉が降ってきた。壁薄いから聞こえるんだよね、とつけ加えた男性の言葉に肩透かしを食らったような気分になりながら、心なしか気温が下がった気がした。




