別れの挨拶
芽衣がこの部屋で翔を待っていた理由。
それは単純に他の部屋で待機するという選択肢が思い浮かばなかったのが一つ。
「吸血鬼に襲われるのは嫌なんだろ。なんでここに残っていた」
しかしそう問われ、ここで彼を待って何がしたかったのかと、自身でも気が付いていなかったもう一つの理由が顔を出した。
「翔とっ、話がしたくて」
そうだ、彼に聞きたいことが沢山ある。
息を詰まらせながら質問に答えれば、ほんの一瞬だけ赤い瞳が大きく見開かれる。しかし直後「……は?」と、心底不思議そうな声が返ってきた。
まるで何を言っているのか解らないと、言外に言い捨てるように。
「……はあ、これだから人間は飽きないな」
月明かりに照らされ輝く白髪とは対照的に、目元を覆う黒髪から見据える瞳はどこまでも翳っている。そして彼が言い捨てた言葉は芽衣との時間をどこまでも『ゲーム』としか見ていなかったのだと、否が応でも突きつけるものでしかなかった。その言葉に熱いものがじわりと込み上げて目元を滲ませれば、不意に肩から移動した彼の指がそれを優しく拭う。
「泣くな。今更どうにもならない」
ぽつりと呟かれたそれはまるで、彼自身にも言い聞かせるような言葉。どこか吹っ切れた、言い換えれば何かを諦めたような態度をやけに鮮明になった思考で見つめていれば「さて」と前置きの言葉が降ってきた。
その表情は優しさなど微塵も感じさせない、最早見慣れたあの仏頂面。
「……ゲームオーバーだからな。罰ゲームでもするか」
「え」
そうして言い終わるが早いか、気が付けば芽衣の両手は頭の上で一つに纏められていた。両手首を抑えるのは彼の左手のみのはずだが、振り解こうと咄嗟に力を込めてもびくともしない。
幾度となく思い知った男女の力量の差。それをまざまざと見せつけた後、翔の顔が無防備な芽衣の首筋へと埋められる。
これまでに何度も繰り返した行為。しかし今日ばかりは彼の余裕が言い表せないほどに恐ろしい。
「なに、待っ……や」
「動くな」
痛くされたくないだろ。
そうぴしゃりと言い放たれた言葉は、刃の鋒のような冷たさを帯びて抵抗を奪う。目元を優しく拭ったのが嘘のように自身を組み敷く彼は、本当に今まで会話を重ねてくれていた翔なのだろうか。
(っ……)
いつも自身を導いてくれていた翔はもうどこにもいない。あの彼は、全くの別人へと変わってしまった。
あるいは、これが彼の本性なのか。
見知ったはずの目の前の知らない男が、どうしようもなく──。
「……っ、こわい」
一度そう感じてしまったが最後、今まで持ち堪えていた何かが音を立てて崩れ落ちた。迫り上がる恐怖を溶かした熱い雫が頬を伝ってとめどなく溢れ落ち、水の膜に乱反射した月明かりが視界を奪う。必死で酸素を取り込もうにも閊えた呼吸はしゃくりに変わるばかりで、全く意味を成さなかった。
「やだ、おねが」
彼を退かせるため足を動かそうと図るものの、両足で芽衣の大腿を左右から押さえつけるように跨った彼を前にしてはそれすらも叶わない。
以前とは違い身体の動きを全て封じられた状態で、耳元にだけ彼の呼吸音が伝わる。一向に咬む気配が見られない彼が何を考えているのか分かるはずもなく背筋にぞわりと寒気が走った。
「もう、はなれて、どいて」
そうして一刻も早く逃れたい一心で紡がれた、明確な拒絶の言葉。
「……ほう」
しかし、どうやらその態度が彼の何かを刺激してしまったらしい。
急に張り詰めた空気に身構えていればぬるりと、首筋を氷のように冷たい舌先が這う。突然感じたそれに小さく身体を跳ねさせれば、彼は顔を埋めたまま愉快そうに舐る範囲を喉元へと移動させていく。じゅっと強く吸われた皮膚の痛みに喉を仰け反らせるものの依然として彼がそこから退く様子は感じられなかった。
唇のみで吸われた皮膚が、牙を立てられた時とはまた違ったヒリつきを帯びる。
(っ、なんで)
翔と吸血鬼が結びつかない頃なら、この行為もただの吸血行動の一環だと思うことが出来た。その方がマシだったなどと、一体誰が考えただろうか。
今目の前にいるのは、無愛想から確かに優しさの垣間見えていた『いい人』だったモノ。知らない相手に組み敷かれた時に感じたのが恐怖なら、知っている彼にされたこの行為で感じるのは裏切られた悔しさ。
「っひど、い」
自身の想いさえ粉々に砕き割られたことに対する、底なしの虚無感と絶望感。
その感情に飲み込まれたまま芽衣が次に発したのは、自身でも全く口にするつもりのなかった言葉だった。
「好き、だったのに……」
刹那、空気が僅かに揺れる。その言葉にはっと息を飲んだのは、決して芽衣だけではない。
「……は……?」
ゆっくりと顔を上げた翔の、裂けるほどに見開かれた鮮血の双眸。それを視認した瞬間きゅっと左胸が締め付けられたのが分かった。
伝えるつもりのなかった、たった二文字。
初めて口にした甘い想いは、どこまでも苦くて。
翔の驚いた表情が今までの関係性を如実に物語っている気がして、閊えた胸を余計に詰まらせる。そして次に紺碧の空間に融けたのは、芽衣の感情をさらに揺さぶるものだった。
「何を言うかと思えば、とんだ勘違いだな」
「っそんなこと……んぅ!?」
大きな掌が、なおも言葉を紡ごうとした芽衣の口を塞ぐ。もう片方の左手は依然として両手首を捕え続けたままであり、言葉を遮るそれを引き剥がすことが出来ない。
「……俺は、お前のこと好きじゃない」
どくっと心臓が大きく脈打ち、喉から冷たいものが込み上げてきたのが分かった。
それ以上は聞きたくないと耳を塞ごうにも、遮ることの出来る手は動かせないままで。
そうして、次の瞬間。
「っはあ、は」
不意に口元から体温が遠のいたかと思えば、離れた右手はゆっくりと翔の首元へと移動しそこを緩く摩る。それを不思議に思ったのも束の間、こちらを見据えながら彼ははっきりと口を開いた。
「むしろ、嫌いだ」
「っ」
瞬間、目の前が真っ暗に染まった。
言い聞かせるように明言された『きらい』の三文字。涙はいつの間にか凍ってしまったように流れを止め、代わりにその言葉が心の奥深くに突き刺さる。
「ぅっ……」
眉ひとつ動かさないまま言葉を吐き捨てた彼を、揺れることなく見上げる茶色い瞳。そこに宿るのは絶望でも、ましてや恐怖でもない。
ただ、ひたすらに虚無だった。
「……これで、俺がお前にとって害だと解るだろ」
不意に呟かれた意味の読めない言葉。ぼうっと見上げた彼の顔が近付いたことを認識できる思考は、残されていない。
「……んっ!?」
次の瞬間、真っ赤な瞳と視線が至近距離で絡み合った。
隙間さえなくなった距離感ではたと我に返ったのは、実に数秒後のこと。
「ふぁっ、んん」
唇に触れた、冷たくて柔らかいもの。
ふにっと押されて出来た隙間から声が漏れ、それが空気に融ける前に彼の唇がゆっくりと離れていく。
──今、何を。
赤い舌で唇をぺろりと舐める様を見上げながら、自身が何をされたのか理解するのにまた数秒を要した。
「っえ…キス…?……初めて、だったのに」
瞬きを繰り返したところで、目の前の現実が変わることはない。しかしこの状況をまるで飲み込めずにいれば目の前の男が続けて口を開く。
「お前の初めてを貰えたのか。光栄だ」
嘘か本当か分からない、弄ぶような声色。
「待っ、なんで、……んぅっ!!」
角度を変え、先ほどよりも深いキスが降ってくる。反射的に目をギュッと瞑る直前に瞼に焼き付いたのは、こちらを射殺さんばかりに見据える赤い宝石。
「んんっ、ふぅ……んぅ」
体重をかけながら唇を重ねられれば、押し付けたそれが芽衣の唇をこじ開けて隙間を作る。鼻から抜ける甘い声色がどこか遠くから聞こえるまま、なす術なくその行為を受け入れ続けた。
顔を逸らそうにもベッドと翔に挟まれては動かせるわけもなく、どこで息継ぎをしていいのかすらも分からない。だんだんと頭がふわふわする感覚に警鐘が鳴り響いたところで、ようやく彼の体温が水音と共に遠のいていった。
「なん、で…、なんでこんなこと」
必死に酸素を肺に取り込みながら、右手で唇を拭う男に問いかける。
好きな人とのキスは嬉しいはずなのに、それを覆う困惑が目元を濡らす。これが今までの翔とのものであればどれだけ良かっただろうかなどと、今更意味のない考えが浮かんだ。
さっき、嫌いだと言ったばかりではないか。
そんな相手に、何故こんなことが出来る?
「別れの挨拶には丁度いいだろ」
「……え?」
ガツンと頭を殴られたような衝撃。続いて、強い焦燥感に襲われた。
「正体を知られた手前、俺がいつまでもここにいられると思っているのか?」
至って冷静に翔は言葉を紡ぐ。対して取り乱し始めた芽衣の頭に浮かんだ考えはただ一つ。
彼を、引き留めなくては。
「っ、でも!吸血鬼だって私しか知らないよ、だから」
別れなんて言わないで。
しかしその言葉が音になることはなく、代わりに寂しさが胸を押しつぶすようにのしかかる。
怖い、解放されたい。でも、いなくならないで。
相反する2つの想いに引き裂かれそうになりながら、芽衣は必死に動かない腕に力を込めた。
「……それが問題なんだろ」
ぎりっと、両手首を抑える左手に力が籠る。
淡々と言い切った彼の声は、どこまでも可能性を見出せないほどに低い。それが届いた瞬間ふっと、芽衣の両腕から力が抜けた。
彼の手を振り解いてその腕を掴むことが出来たところで、引き留めることは叶わない。
そう、悟ってしまったから。
「……行か、ないで」
「……まだ言うか」
そうして無言のまま見下ろされること数秒。不意に再度首元に埋められた顔に震えた瞬間、間髪入れずに首筋に走った痛み。
「いっ!」
久しぶりに感じた柔肌を突き破る痛みに耐えていれば、その虚勢を崩すかのように激しい水音と彼の呼吸音が耳朶を打つ。理性が残っているはずの彼が行うその行為は、飢えた時を彷彿とさせる獣じみたもの。
加えて肌を舐るでもなくただ無心に牙を立て続ける姿に覚えたのは、本能的な危機感。
このままでは、本当に死んでしまう。
しかしいつの間にか解放された両手で彼を押し返すことさえ、力が抜け続けていく身体では到底無理なことだった。
「吸血鬼の正体まで辿り着けたのはお前が初めてだ。楽しかった」
視界が閉ざされる直前に顔を上げた翔の口元を彩る、真っ赤な鮮血。
そうしてそこから紡がれた、線引きをする過去形の言葉。
「……俺のことなんて、もう忘れろ」
ふわりと、ほんの一瞬だけ大きな手が頬に触れる。しかしすぐに離れたそれを名残惜しむほどの余力は、もう残っていなくて。
「じゃあな、芽衣」
微睡みの中、低く冷たい声が聞こえる。
それが、意識が深淵に沈む前に届いた最後の言葉だった。




