吸血鬼の痕跡
衝撃的な言葉の雨が降る中、芽衣は混乱する情報を言葉にして整理しようと試みる。
「ええっと、まず吸血鬼の話から聞きたい。実在するってなんで分かるの?」
「見たことがあるからな」
「えっ!?」
さも当たり前のように、翔の口から紡がれたその言葉。
見たことがあるなど、到底信じられる話ではない。しかしながら、翔が冗談を言っているようにも見えない。
情報を整理するつもりだったが、早速疑問が増えてしまった。
そもそも、芽衣は幽霊などの類は自分の目で見ない限り信じない質である。
例え他者がいくら見たと主張しても、心のどこかで否定的な仮説が生まれる。
見間違いではないか、それこそ夢ではないのか、と。
吸血鬼の存在を信じていないのに、何をどうやって調査すればいいのか。
小説の読み過ぎだと言われた方がまだしっくりくる。だって、実在しないのだから。
その結論に至った芽衣は、翔の提案を丁重に断ることにした。
「とりあえず、さっきの調査?の話だけど…」
歯切れ悪く、芽衣が切り出す。
翔が真っ直ぐこちらを見ているのが、なおのこと断る罪悪感を煽っていた。
「私は信じていないし、そんな夢の話に翔を付き合わせるわけには…」
若干言い淀みながらも、自身の考えを伝えた。
瞬間、彼の形のいい眉がピクッ、と僅かに動く。そしてこちらと視線を合わせたまま
「なぜだ?」
と、短く問いかけてきた。いつの間にか、纏う空気から愉楽の色が消えている。
「自分の目で見ないと信じられなくて」
そう答えれば、翔の無表情が若干呆れを含んだものに変わる。
「信じるも何も、お前も実際見てるだろ。何が駄目なんだ」
確かに見てはいる。それが現実の話ではない、というだけで。
「だって、あれは夢で…」
「またそれか。一体、お前はどうすれば信じるんだ?」
「うーん」
そう言われても、と口にする代わりに黙りこんでしまう。
もしまた吸血鬼が現れて、それが本当だとして。仮にそうだとしても、おそらく夢だと結論づけるだろう。
人間や動物なら信じるだろうが、相手は空想上の存在である吸血鬼。
ならば、『吸血鬼』を証明できるものがあればいい。
「目に見える証拠があれば、かなあ」
どうせ無いだろうと、軽い気持ちでそう口にした。
「証拠か。そこまでしないと信じられないのか?」
「そうだねえ…。折角提案してくれたのにごめんね」
「いや、いい」
そう答えた翔は視線を逸らし、しばし思案するような様子を見せる。
やはり、断ったことで不快にさせただろうか。
そう考えながらぼうっと翔を見ていると、不意に視線をこちらに戻した彼と目が合う。
「まあ、気が変わったらいつでも言ってくれ」
どこか違和感を覚える発言をしたかと思えば、ガタッと椅子を引いて翔が席を立つ。
突然のことに驚いていると、「じゃあな」という言葉が降ってくる。
そうして発言の真意を探る間もないまま、彼は西陽が包む図書室を後にした。
1人残された芽衣は、先ほど覚えた違和感について考える。
まるで、今後気が変わることを予言しているかのような言葉だった。
今のところその予定は無いのだが。
一気に与えられた情報をぐるぐると考えながら、芽衣も静かな橙色の空間を後にして帰路に着いた。
──その日、芽衣は吸血鬼の夢を見なかった。
翌朝、なんとなく首元に視線は向かうものの跡もなければ疼くような感覚もない。
やはり今までのは夢であり、何度も見ていたのは偶然だったのだ。
ほっと息を吐くが、どこか腑に落ちない。微かな胸騒ぎを感じるが、芽衣はその違和感に気づかないふりをした。無理矢理目を背ければ消えていくような、ほんの僅かな違和感。
ザアザアと、昨夜から降り続いているであろう雨音が窓を打つ。それが心地よく響くほど、芽衣は束の間の安息を覚えていた。
しかしそれから4日後。
月のよく映える晩に、刹那の平穏は打ち砕かれることとなる。
**
この3日間、寝るときには必ず窓を閉めていた。
雨模様も理由の1つだが、『吸血鬼は実在する』という話を聞いてからというもの、夜になるとどことなく心が落ち着かない。もちろん、存在を信じているわけではないのだが。
しかし結果として3日間、吸血鬼は現れなかった。
だからこそ、油断して窓を開けてしまったのだ。
その日は前日までの雨模様とは打って変わり、宵闇に丸い月が映えていたのを覚えている。
そういえば、あの時も月夜だったような。
眠れずに月明かりの中、そんなことをぼうっと考えていた、その時だった。
不意に、強い夜風が部屋に吹き込む。まだ冷たさを含んだその風に、思わずタオルケットを頭まで被る。
数瞬の後、少しばかり冷えが薄らいだ芽衣はもぞもぞと顔を出した。
そして直後に目に飛び込んできたのは、前回同様月光を背に浴びた人影──吸血鬼だった。
姿を認識した途端ひゅっ、と息が詰まり鼓動がドクドクと激しく脈打つ。
感じたのは前回体験したものと全く同じ、それでいて全く慣れない恐怖と絶望。
手足と喉が氷のように凍てつくのを感じながら、芽衣は吸血鬼を凝視していた。
まるで何もかもが前回の再現のような状況に、芽衣はただひたすらに慄然するばかり。
しかし以前と違う点は、身体が良く動いたこと。
恐怖に支配されたのは相変わらずだが、前回の夢の記憶が残っているだけに素早く行動に移すことは出来た。
相手は自分を殺すことが目的ではない。今回もそうとは限らないが、そう思うだけで幾分か動きやすくなったのは事実。
震える足をなんとか床に下ろし、相手を凝視しながらゆっくりと、確実に距離を取り後退する。
そうして相手と同じ床に立って分かったのは、吸血鬼が芽衣より頭ひとつ分程度背の高い男性であること。それを確認できる程、芽衣の心には余裕が生まれていた。
しかし窓を開けてしまったことからも分かるように、この日の芽衣は何かと油断していた。
背中が部屋のドアに触れる。心のどこかで、ほんの僅かな安心感が生まれた。
相手が一向に動かないことを確認すると同時に、ドアノブに手を掛け背を向けた時だった。
いつの間に接近したのか、急に背後から腰へ腕が回される。それを認識すると同時にグイと腰を引かれ、バランスを崩す芽衣。されるがまま足が勝手に後ろへ進む。
そうして次の瞬間には身体がベッドに投げ出されていた。背中に感じた衝撃に、思わず目を瞑る。
慌てて上体を起こすよりも早く、吸血鬼は芽衣に跨るようにして覆い被さった。右手で芽衣の両手を素早く一纏めにすると、彼女の頭上でベッドに縫い付ける。
反射的に足をばたつかせ抵抗を図るが、全て空を切るだけで空振りに終わる。そうしている間も、吸血鬼には怯む様子が一切見られない。
一気に動きを封じられ、脳裏に鮮明な感覚が蘇った。
嫌でも次にされることが容易に想像でき、茶色の瞳が涙で潤む。視界がぼやけ、相手の顔も何もかもが見えなくなった。
「お、ねが…ぃっ、痛いの、っ、ぅぅっ…やだ…」
気がつけば、そう懇願していた。
「泣いても無駄だ」
一瞬の静寂の後、無慈悲な声が耳に届く。
得体の知れない者の前では自分は非力なのだと、痛いほどに思い知らされた。
最早抵抗する気にもなれず、見えない顔を精一杯睨む。
「──ればいいんだったな」
微かな呟きを理解するよりも早く、吸血鬼の顔が首元に埋められた。
次に来るであろう鋭い痛みが呼び起こされ、目を瞑り奥歯を噛み締める。
恐怖と緊張の涙がこめかみを伝い、無造作に広がった芽衣の髪を濡らしていた。
(…?あ、れ?)
が、いつまで経っても痛みは訪れない。気配は変わらずそこにあるというのに。
その間が更に恐怖を煽り、芽衣はおそるおそる目を開けた。
芽衣の僅かな動きを感じ取ったのか、おもむろに吸血鬼が首筋に舌を這わせる。
ゆっくりと、それでいて体重を乗せるようにして舌の表面全体を押し付けていた。
「!?っ、やっ、め、なにして…っ」
その声に反応したのか、首筋から鎖骨へ、皮膚の薄いところををなぞるようにして冷たい舌先が這う。息を呑むような冷たさに思わず身慄いした。
暫くすると、くすぐったいような、それでいて恐怖を感じるような未知の感覚が襲ってくる。
そうして鎖骨の下で止まった舌先は、何度がそこを確かめるように舐めていた。
混乱のあまり痛みを忘れかけたその時。
牙が突き立てられる僅かな感覚と同時に、プツッと柔肌を破り異物が侵入する激痛が走った。
心の準備が出来ておらず思わず叫びそうになるが、それより早く吸血鬼の左手が芽衣の口元を覆う。
「んーっ!ぅ、んん、っう」
くぐもった音が、宵闇に吸い込まれては溶けて消えていく。あまりの痛さに首を振って逃れようとするが、縫い付けられた両手は全く動かない。
「っ…うぅっ、ん、んぅ」
叫ぶような声が次第に嗚咽に変わる。それでもなお、吸血鬼が顔を上げることはなかった。
身体の動きを封じられ逃げることも出来ず、口を塞がれて助けを求めることも出来ない。
なす術が無い絶望的な状況で、吸血鬼の息遣いだけが耳朶を打って響いていた。
「目が覚めたら、鏡を見るといい」
ひとしきり吸血行為を終えた後、耳元に顔を寄せた吸血鬼がそう告げる。
その囁きは、何故か芽衣の記憶にはっきりと残った。
相変わらず表情は見えなかったが、吸血鬼は僅かに、そして確実に笑っていた。
**
そして今朝、起床するや否や階段を駆け下り洗面台に向かった。「どうしたのそんな慌てて」と母の声が聞こえたが、返事をする余裕などない。
昨夜の言葉に導かれるまま鏡の前に立ち、無意識にゴクリと唾を呑む。
昨夜咬まれた場所は、左側の鎖骨のすぐ下あたり。その場所に覚えのある疼きを感じながら、震える手でおそるおそる襟を下に引っ張った。
──そうして芽衣の瞳に映ったもの。それは仄かに紅く色づいた、2つの牙の跡が残された自身の肌。
瞬間、芽衣は突然床が無くなったような感覚に陥った。
急激な眩暈を覚え、足元が覚束ない。無意識に後退りをすれば、背中が壁にぶつかる。
そのまま壁に寄りかかるようにして、ズルズルと床にへたり込んだ。
嘘。嘘だ。こんなことがあるはず無い。
必死に首を振り否定する。確かに証拠があれば信じるとは言ったが、あれは軽い冗談のつもりで。
視界が暗くなるのを感じながら、震える指先は無意識に跡をなぞる。そこから伝わる裂かれた肌の感触は、今までの『夢』が現実だったことを如実に表していた。