確信②
「あ、の……翔?」
「なんだ」
なおも抱き締めるような体勢のまま動かない彼に対し、これ以上は心臓が持たないと視線で抗議をしてみる。するとどうやら伝わったようで、数瞬の後に彼の腕が背から離れていった。
しかし熱を帯びた顔は、一向に冷める気配がないままで。
「……顔が赤いが、息でも苦しかったのか」
「ん!?」
……まさか、この密着する距離感の所為という発想がないのか。
そんな予想外の言葉に驚いていれば、いつかのように頬に冷たい彼の手が触れる。その温度は熱くなりすぎた顔にとってはとても心地良いものであり、思わず頭を預ければだんだんと熱が引いていくのが感じられた。
──そういえば吸血鬼に反撃を敢行したあの日、あの時ばかりは、彼の温かい体温がとても心地良かった気がする。
彼の大きな手を感じながら何故か、ぼんやりとそんなことを思い出した。
が、だんだんと冷静さを取り戻した思考が状況を飲み込んだ瞬間。
「っ!?」
また、反射的に彼の腕を掴む。すると一瞬眉根に皺が寄ったように見えたものの、すぐに彼の体温が離れていった。
今、自身は一体何を。
(なにしてんの……!?)
混乱していたとはいえ、彼に顔を預けるなど普段ならありえない。そんな自身の行動を信じられないまま、口は勝手にその場しのぎの言葉を紡ぎ始める。
「送ってくれるのはありがたいんだけど……学校でいいよ?」
「逆方向まで歩くのか。家の近くまで行ってやるから」
「うち結構遠いよ……」
そう呟いている間にも、気付けばこちらに背を向けた彼が外廊下を歩く音が空に響く。慌ててその背中を追い階段を降りれば、翔は数歩先で立ち止まりこちらを振り返った。
(?)
どうしたのだろうと疑問に思いつつ距離を詰めた、次の瞬間。
「!?」
パシッと、左手首が大きな手によって掴まれる。反射的に視線を彼の顔に向ければ、無表情を僅かばかり歪ませた彼と視線が絡んだ。
「兄さんに何された」
低い声に乗せられた言葉で脳裏を過ぎる、あの無機質な瞳。だが和海の実弟を前にして、兄に関する負のイメージを口にするのはかなりの抵抗があるというもので。
「…べつに、何も」
咄嗟に取り繕った言葉は、何に対しても明確な答えを残さないもの。
しかし扉一枚隔てただけのあの距離で、会話が聞こえないことがあるのだろうか。
「……」
感情の見えない瞳が見下ろす中、握られた手首がだんだんと熱を帯びる。払われた時のヒリつく熱さとは違うそれが濃く現れるにつれ、心臓の音が大きくなっていくのが分かった。
誤魔化しなど全てを見透かすような瞳は、感情がすぐ顔に出ているという指摘の証明に思えて。
(……でもさ)
なら、さっきのあれは一体何だったのだろう。
再び鮮明に蘇る、底なしの昏い漆黒。
そんな瞳でこちらを見据えた和海のあの言動は、表情を読むなどという話ではなかった気がする。思えば最初に自身に声を掛けてきた時もそうだったが、下校時間帯のあの状況と翔の話だけで自身を特定出来るはずがない。
無意識のうちに頭の片隅に押し込めていた違和感が顔を出すと同時に、先ほど感じた冷気までもが蘇る。
湿った違和感を残す彼の言動はまるで、思考を直接見透かしているような。
しかし果たして、そんな人間が存在するのだろうか。
「……連れてくるんじゃなかったな」
ふと、そんな言葉が耳を掠めた。
言い捨てられたそれに含まれた意味は分からないが、翔が心底そう思っているのは確かなようで。
何か、気に触ることをしてしまったのだろうか。そう思ったのも一瞬、払われた左手に無意識に視線が縫い付けられる。もしかして、これが原因だろうか。
(あ……)
そうして手首の熱が冷たさに変わろうとした、その時。
「手、大丈夫か」
未だ握られた左手に視線を落としながら問いかけた声色は、いつもの落ち着いた低い声。それが耳を打つと同時にぎゅっと、彼の手に力が籠ったのが分かった。
切れたことを心配してくれているのか、はたまた払ったことに対する言葉なのか。
だが、どちらに対しても答えは同じ。
「大丈夫だよ」
そう答えを返せば、一瞬だけ彼の表情が苦々しいものに変わった気がした。しかしどうやら見間違いだったようで、いつもの仏頂面から
「お前に触れられるのが嫌だったわけじゃない」
と言葉が紡がれる。その言葉は、芽衣の肩を軽くするには十分なもので。
「本当?」
「嘘ついてどうするんだ。まあ、お前は俺が顔に触れるのは嫌みたいだが」
左手首を捕えつつ、もう片方の手をヒラヒラさせながらこちらへそう投げかける。しかしその光景を見つめながら彼の言葉を理解するのに、少しばかりの時間を要した。
「……え?」
ここで、芽衣はあらぬ誤解を生んでいたことにようやく気が付いた。以前同じ状況下で彼の手を掴んだ際の、あの苦い顔の原因はそういうことだったのか。
「あ、これは違くて、その」
──触れられると、頭の中がぐちゃぐちゃになるから。
しかしその言葉が音になることはなく、そのまま芽衣の喉元へ沈んでいく。その代わり、彼女の口が紡いだのは全く別の言葉。
「……あんまりこういうの人にしない方いいよ?勘違いされちゃうから」
そう言いつつ、彼の体温を感じる左手首を軽く持ち上げてみる。事実、自身もこの距離感を勘違いをしそうになったことがないと言えば嘘になるのだから。
それこそ彼も好意的に思ってくれているのではないかという、ありもしない期待が過ぎったり。
「?そうか」
しかし目の前の男は今ひとつ理解出来なかったようで、どこか納得出来ないような短い言葉だけが空に融ける。
そんな彼には何を言っても解らないのだろうと苦笑いが溢れるが、彼の手は一向に離れる素振りを見せない。男性だと実感する大きなそれを感じながらも、ついに芽衣はその手を解くことが出来なかった。
**
その夜、久しぶりに歩き疲れた身体をベッドに投げ出し大の字にして沈ませる。ぐぐっと伸びをしながら天井を見上げれば、そこに映し出されるようにして目の奥に今日1日の光景が蘇った。
(手握られちゃった……)
窓から差し込む白い月明かりと、枕元を照らすスタンドライトの暖色。2つの色に包まれながらぼうっと、少しばかり皮膚の切れた左手を目の前にかざした。
その手を振り払われた時のヒリつきは思い出そうとすれば容易に蘇ってくるが、それ以上に握られた手首の熱も濃く蘇って。
翔を吸血鬼かと疑っては優しい面に触れてそうではないと思い直す。初めて疑念を抱いたあの日からだいぶ経つが、ぐらつく感情と目の前の事実は一向に落ち着く気配がなかった。
極端な話、翔と吸血鬼の両名を一度に見られれば簡単に疑念が払拭出来るのではないかと考えたこともあるが、相手は神出鬼没の吸血鬼。現れるのが月夜とはいえタイミングが掴めない以上、とても現実的な策ではないだろう。
(どっちも何かと優しいところはあるんだけどね……いや違うか)
少なくとも自身を咬んでいる時点で吸血鬼は優しくないと首を振る。だが翔の方は無愛想の中にも優しさが垣間見えているのは確かで。
例えば、今日わざわざ送り迎えをしてくれたこととか。
往路は学校、帰路は芽衣の自宅から300mほど手前のスーパーまで歩いてもらったのだが、合計すれば明らかに学校の行き帰りよりも距離はある。彼が普段何をして過ごしているかは分からないが、少なくとも余計な運動を増やしてしまったことだけは事実だろう。
(あんな長い距離歩かせちゃって申し訳ないけど……っていうか、翔も同じこと言って──)
……あれ?
ピタッと、脳裏に浮かんだ景色が一時停止する。
瞬間芽衣の耳元で再生されたのは、翔の家に向かう道中のこんな発言。
──『あの距離を歩かせておいて』
あの距離。一見すればこちらを気遣う『優しい』発言であり、普段が無愛想なだけにより心に響く言葉。
しかし。
それはあくまで、距離を分かっている者が発する言葉で。
「翔、私の家知らないよね……?」
無意識に溢れた呟きは、月明かりに融けて消えていく。
時が止まった部屋の中でカチッと、パズルのピースが嵌る音が聞こえた気がした。




