確信
(っ!?)
突然閉じられた扉に驚いたのも束の間、後ろから伸びてきた手がカチャリと扉を施錠した音で我に返る。
「そうだ芽衣ちゃん、もう1つ聞きたいことがあって」
ふわりと鼻を掠めた清涼感と、ほのかに混ざった煙草の香り。それが分かるほどに密着した身体と扉に挟まれたことを悟ったのは、和海の言葉を遅れて理解したのとほぼ同時だった。
だが『聞きたいこと』が全く分からない。動揺するまま幾分か暗くなった視界に視線を泳がせれば、自身の顔より少し上に骨ばった大きな手が置かれているのが目に入る。
まるで閉じ込めるように置かれたそれは、一向に動く気配がなく。
「おいっ」
(わっ!)
ドンドンと音を立てた目の前の扉、その向こうから顔を見なくても分かるほどに苛立った翔の声が聞こえる。それに答えようと口を開きかければ「シー」っと制止する声と共に、自身の唇の前に和海の人差し指が立てられた。不意に現れたそれに驚いていればむにっと、唇が僅かに押される感触が伝わる。
「んっ!?」
突然唇に感じた冷たさに瞠目したのも一瞬、気付けば指が目の前から消えていた。しかし静かになったのはどうやら思惑通りだったようで、僅かばかり喉を鳴らした和海がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「翔のこと、どう思ってる?」
「っえ」
ドクっと心臓が大きく跳ねる。それは間違いなく、突然聞こえた名前のせい。
しかし『どう思っている』というのは好きとか嫌いとか、そういう類の話なのだろうか?それも何故このタイミングで。
……まさか、扉一枚を隔てた向こうの男に対する感情すら、表情から漏れている?
(いやまさか……)
冷静に考えれば弟の交友関係を気遣う兄の発言だと分かりそうなものだが、一気に熱を帯びた頭ではそんなことを考える余裕もなく。
一体、なんと答えるのが正解なのだろうか。
そうして質問に答えあぐねていれば不意に、先ほど鼻を掠めた香りが強くなる。そして次に耳元に感じたのは、ふわっとした温かい空気。
つまり。
「!?」
咄嗟に振り返った自身の視界を支配したのは、こちらに一気に距離を詰めた端正な顔。その近さに思わず退きそうになったが、顔の横についた手がそれを阻んだ。
瞠目する芽衣とは対照的に、彼はほくろが飾る口元に薄く笑みを浮かべているだけ。そんな大人の余裕が妙に色気を醸し出していて、気付けば反射的に顔を背けていた。
視覚から入ってきた情報が鼻腔をくすぐる香りと相まって、くらくらと目眩がしそうになる。
しかし問いかけに答えられていないことに気が付き、ぼうっとした頭でもう一度視線を絡ませた時。
思わず、息を忘れた。
目が、全く笑っていない。
(っ…!)
ヒュッと、声にならない空気が静寂に融ける。それは以前、公園で彼と会話を交わした際にも覚えがある瞳。
一気に思考が冴えるのを感じる中、彼の香りがより一層強くなった気がした。
「ん?」
優しげに回答を求める声色とは裏腹に、こちらを見据えるのは底冷えするほどに無機質な漆黒。気を抜けば吸い込まれてしまうのではないかと錯覚するほど、底の見えない昏い瞳。
「……ぁ」
咄嗟に目を逸らしてしまった。
数秒遅れで後悔するとともに、血の気が引いた頭の中がぐちゃぐちゃと混ざっていく。
早く、答えなければ。
(っ、いい人って、言わないと)
今まで何度も翔を形容した言葉を、温度の下がった空気の中で頭に浮かべる。そうして声に乗せようと強張った口を開きかけた瞬間。
「……ん、好意的に捉えてくれてるようで嬉しいよ」
次に耳に届いたのは、そんな満足げな声色。まだ何も答えていないのに。
それほどまでに表情を読むのが上手いのかと感心さえした時、はたと思い至る。
──今、顔は見えているだろうか?
(っ……あ、れ?)
刹那、足元から氷が這い上がった。それが身体をじわじわと蝕む錯覚に襲われながら、芽衣は残った思考を素早く回転させる。
背を向けた自身の表情など、和海に見えるはずがない。
ならば何故、自身の思考と未だに会話が出来ている?
まさか彼が読んでいるのは、自身の『表情』ではない?
(……じゃあ、なんで)
今まで彼と接するたびに感じていた小さな違和感。ぼんやりと顕になったその輪郭が、少しずつ見えてしまった気がした。
「どうかした?」
先ほどより耳元に口を寄せた和海が喉を鳴らせば、呼応するように耳に早鐘が響き渡る。
夏だというのに身体の芯が凍える中、芽衣は無意識に目の前にいるであろう翔に助けを求めた。
しかし先ほどとは打って変わって静かな扉は、彼女を更に不安にさせるには十分なもので。
(え、行っちゃった……?)
最悪な状況が脳裏に浮かぶ。この状況で置いて行かれるなど、絶対に勘弁してほしい。
そうして心細さがだんだんと募る時間が、まるで永遠のように感じられた時。
「ああそうだ、さっきのアレのことだけど」
突然ぱっと背中から体温が遠のく。そうして次に降ってきたのは、先ほどまでとは違い含みの感じられない明るい声色だった。その温度差にぎこちなく振り向けば、変わらず薄い笑みを浮かべた和海と視線がかち合う。
「翔に悪気はないからね。許してあげてくれると嬉しいなあ」
文脈から察するに、『アレ』は手を払った出来事のこと。弟のために弁明の言葉を並べた彼からは、先ほどまでの重たい冷気は感じられない。
しかし垣間見えた兄の気遣いを理解こそすれ、依然として冷たく張り付いた喉からは言葉を外に出すことが叶わないまま。
そしてやはり、彼の瞳はちっとも笑っていないようで。
だが、返事をしなければ。
考えるよりも早く石のように重くなった頭を上下に振り、精一杯の理解を示す。数瞬の後『ありがとう』と、心地よく満足そうな声色が耳に届いた。
「ん、それじゃあお礼に、俺からの最後のヒント」
(最後?)
唐突に降ってきたのは、まるで未来を見通しているかのような単語。それが思考に浸透するのを感じていれば一呼吸置いて、再度言葉が紡がれる。
「吸血鬼も人間と同じでお腹が空いたら動けないからね。もし学生や社会人だったら、休みがちなんじゃないかな」
彼の瞳が長い睫毛で隠される。
浮かべた笑みが本当の感情かは分からないが、教えてくれたヒントは何故か嘘だと思えない。
しかしだからと言って、全部を信じるにはあまりにも──。
「和兄?」
不意に、和海の体越しに声が届いた。そうして、張り詰めた空気がふっと柔らかくなる。
ゆっくりと振り返った彼の視線を追えば、居間から覗いたベージュが不思議そうにこちらを見ているのが目に入った。すると緩やかな動きで、和海が一歩後ろへと距離を取る。
(お、わった……)
ようやく解放された実感と海斗の姿に安堵するあまり、足からふっと力が抜ける。そうしてへたり込みそうになった身体を咄嗟にドアノブで持ち堪えた。
「引き留めて悪かったね、行っていいよ」
そうして降ってきた声と共に伸ばされた和海の手がカチャっと、鍵を回した次の瞬間。
「わっ!?」
掴まっていたドアノブが動くと同時に身体が前へと引っ張られる。急に明るくなった視界に思わずぎゅっと目を瞑れば「……おい」との声が頭上から届いた。
明らかな怒気を孕んだ男の声に恐る恐る瞼を持ち上げれば、これでもかと眉間に皺を寄せこちらを睨む翔の姿が視界に飛び込んできた。その隣では紗季があちゃー、とでも言いたげな視線をこちらへと寄越している。
置いて行かれたわけではなかった。その事実に目頭が熱くなるものの、依然としてこちらを見下ろす瞳には冷めた色が浮かぶばかり。
しかし途端ぐらりと前のめりに身体が揺らいだかと思えば、次の瞬間にはドンっと硬いものに勢いよく頬をぶつけた。それが翔の胸板だと悟ったのは、規則正しい鼓動が耳に伝わった直後。
間髪入れずに首の後ろに回った体温。それを理解できないまま顔を上げれば、普段見慣れない角度にある不機嫌そうな漆黒と至近距離で目が合った。
まさか、抱き締められている?
(っ!?)
「そんなに囲わなくても、もう何もしないよ」
からりと言ってのけた和海の声がどこか遠くから聞こえるほどに、芽衣の耳は直に伝わる鼓動でいっぱいになる。視界がぼんやり滲むほどの熱を帯びた顔を離そうと胸板に視線を戻すも、力のこもった腕を回された状態では叶うはずもなく。
今にもはち切れそうなほど早い鼓動は、明らかに自身の中から鳴り響くもの。
「面白いものが見れて満足だよ。また来てね」
柔らかく、それでいて含みのある言葉は今度こそ扉に遮られ、和海の姿と共に消えていった。直後ふっと、背に回った翔の腕から力が抜ける。
「……行くぞ」
ゆっくりと顔を上げた先にあったのは、なおもこちらを射竦める双眸。しかし心なしか、先ほどより幾分か柔らかい気が。
そんなことをぼんやり思っていれば「じゃあうち道覚えてるから大丈夫!2人でごゆっくり〜」との紗季の声が飛び込んできた。慌てて視線を移した先にいた彼女と目が合えばそれはそれはいい笑顔と共に、グッと親指を立ててウインクをしてくる。何か、誤解をしていないだろうか。
(ちょっと待ってよ……)
そうして小走りで遠くなっていく背中を見つめながら、なおも密着した翔との間に気まずい沈黙が訪れた。




