払われた手
宙で行き場を失くした自身の左手。やや遅れて、触れ合った手首がジンジンと熱を帯び始めたことに気が付いた。
そんな手を一瞥し翔へと視線を戻せば、何故か見開かれた瞳がこちらを凝視する姿が目に入る。
自分で、手を払ったというのに。
「あ……」
まるで己自身の行動が信じられないとでも言うように揺れる漆黒の双眸。それをぼうっと見つめる中、遅れて襲ってきた驚きが脈打つ鼓動となって大きく響き始める。テレビの音さえ掻き消すように耳を支配するそれは、一体何に対するものなのか。
そうして部屋に、一瞬の沈黙が訪れた。
「翔」
宥めるような、それでいて叱責するような。そんな短い声が、芽衣の後ろから翔へと届く。
たった三文字。しかし低く紡がれたその三文字で、張り詰めた空気が僅かばかり揺れた。
「……悪い」
珍しく謝罪を口にしたかと思えばすぐに黙りこみ、翔はそのまま芽衣の左手に視線を落とす。振り払ったことを気にしているような視線が帯びた熱に追い討ちをかける気さえしてしまい、芽衣は庇うように無意識のまま右手でそれを隠した。
やがて彼の瞳は揺れこそ止まったものの、今度は気まずそうに斜め下を向くばかりで視線が合わない。
(びっ、くりしたあ)
払われた手はさほど痛いわけではないが、何故だか左胸の辺りがチリチリと痛みを帯び始めた。やがて、それは締め付けられるような苦しさへと変わる。
……触られるのが、そんなに嫌だったのか。
そんな暗い考えが、どこからともなく湧き上がった。
しかし、自身に落ち度がなかった訳ではないはずだ。
たとえ止血したとはいえ、直前まで出血のあった手で触れられるのは誰しも嫌悪感が湧き上がるはず。具合が悪い人間に対して不用意に触れようとしたのも悪手だったかもしれない。
だから、翔は『芽衣自身』を拒絶した訳ではないはず。
自身の心を庇うための原因探しで浮き彫りになった浅慮。それを反省し「ごめんね」と小さく呟くが、なおも引結ばれた口元から言葉が紡がれることはなかった。
(悪いことしちゃったなあ……)
そうして落ち込む芽衣の耳に、先ほど開きかけたお菓子の袋が裂ける音が届く。俯きがちにそちらを見やれば、和海がお菓子の袋をローテーブルの中央付近に広げているところだった。
「ほら、みんなで食べよう」
その言葉で先にお菓子へ手を伸ばしたのは対面に座る海斗。それをぼうっと見ていれば『大丈夫?』と、口パクで言葉を紡ぐ紗季の姿が目に入った。反射的にOKサインを掲げて見せたものの、長年の親友には心の中などお見通しのようで。
事実、内心全く大丈夫などと言える状態ではなかった。
短絡的な行動で翔に不快な思いをさせてしまった。そして何より、彼に手を振り払われたことが思ったより心に重くのしかかっているらしい。
たったあれだけの行動で心が乱されてしまうほどに翔を意識していたのだと、否が応でも気付かされてしまった。
「せっかく持ってきてくれたんだから、芽衣ちゃんも」
トーンの落ちた優しい声が、冷気さえ感じる耳にじんわりと馴染む。しかしそんな声色を紡がせてしまったことすら申し訳なく感じてしまい、最早どうすればいいのかも分からない。
ただ、この時間を楽しみたいだけなのに。
テーブル上に広げられたお菓子の袋。向かい側で美味しそうに食べる姿を見ながらも手を伸ばすことが出来ず、それを誤魔化すようにサイダーを喉へと流し込む。
しかし本来甘いはずのオレンジも、今の芽衣にはどことなく苦く感じられた。
(せっかく誘ってくれたのに……落ち込んでばかりじゃいられないのは分かってるんだけど)
どうしても気持ちの切り替えがうまく行かない。指折り数えたこの日を、こんな形で終えるのか。
とめどなく溢れるひんやりとした感情が喉奥まで迫り上がる中、ぼんやりと思考が諦観へと傾き始める。
そんな沈んだ感情を強引に引き上げたのは、突然紡がれた海斗のこんな問いかけだった。
「そうだ芽衣さん、吸血鬼の小説持ってるって本当?」
「んっ!?」
思わず気管に入り込みそうになった炭酸をなんとか食い止める。そうして反射的に顔を上げれば、楽しいとでも言うように細められたベージュの瞳と視線がかち合った。
吸血鬼の本。つまり、翔と初めて会話らしい会話を交わしたきっかけとなったあの本のこと。それが何故、目の前の弟の口から飛び出したのだろうか。
「なんで……!?」
「知ってるの、って聞きたいんでしょ〜?そりゃあ、翔兄にあの本あげたの僕だもん」
「!?」
心の奥底に触れそうになるくらい沈んだ感情が、それを超える衝撃で瞬く間に覆われていく。
そういえば確かに、あの時翔はこの本を『貰った』と口にしていた。『誰に貰ったのか』といつか尋ねてみようと思い、気付かないうちに忘れていたその答え。
「どんな気持ちで翔にあれを……?」
気が付けば、信じられないと言わんばかりの声色に乗せて聞き返していた。それに対し「僕が読み終わったから〜」と、答えになっているのかいないのか、そんな曖昧な言葉が聞こえる。
(すごいね……?)
際どい表紙のあの本を渡したことに感心していれば「あ、ドラマの続き見なきゃ」との言葉と共に海斗がこちらへと背を向けた。
そんな屈託のない姿に、僅かばかり心が軽くなる。
そうして海斗の背中を見やっていれば、自然と視界には翔も映ってしまうわけで。
しかしギュッと胸を締め付ける感覚は相変わらず残っていたらしく、左端に映る彼を視界から除外しようと瞳が右方向へと勝手に泳ぐ。
「……チッ」
そんな舌打ちが、微かに左から聞こえた気がした。
「面白かったね〜!2時間あっという間だったし」
ドラマのエンドロールをBGMに、紗季の満足げな声が届く。その言葉で何の気なしに窓を見やれば、すっかり太陽が南の空へと昇っているのが目に入った。続けて時計を確認すればもうそろそろ午後の1時半。
「お昼だし帰ろっか、ご飯の邪魔しちゃ悪いし」
「だね〜、うちはドラマ見れて満足だし」
そう言いながらほぼ同タイミングで立ち上がると、芽衣は後ろに置いてあったカバンへと手を伸ばした。
「わざわざ来てもらって悪かったね」
ごめんね、と和海の申し訳なさを含んだ声が背後から届く。それに対し「私もお話し出来てよかったです」と本心からの言葉を紡げば、彼の眉が満足げに上へと上がった。
事実、彼の言葉のおかげで吸血鬼の現れる間隔が長くなっていることに気が付くことが出来たのだ。
しかし何故かは分からないまま。あの時のように飢えているのなら、逆に頻度が増えそうな気もするのだが。
「そう言ってくれると助かるよ。渋られても粘った甲斐があった」
「え?」
「ああいや、こっちの話」
小さく呟かれた言葉に首を傾げたものの、それ以上の言葉を紡ぐつもりはないらしい。そうして和海はゆったりとした動作で頬杖を付くと、上目がちにこちらを見据えた瞳を楽しげに細めた。
次の瞬間。
「ほら翔、送ってあげなよ」
「えっ」
耳を疑う提案に思わず飛び出た驚声を慌てて覆い隠す。しかしやはり手遅れなようで、じとっと睨めつけるような視線が左下からこちらへと向けられた。咄嗟にそちらを見やれば、いつの間にか元通りになった彼の姿が飛び込んでくる。
が、その様子に覚えたのは僅かばかりの安堵と、何故か込み上げてくる居心地の悪さが綯い交ぜになったようなぐちゃぐちゃとした感情。
「……不満か?」
「そうじゃないけど……」
「ならいいだろ」
(別にいいのに……)
申し訳ない、とその場しのぎを口にする前に立ち上がった翔を今更座らせることなど、今の芽衣には到底出来るはずもなく。そして助けを求める意味で紗季を見やれば、彼女は彼女で何やらニヤニヤしているようで。
(?)
何を考えているのか読めないが、とりあえず助けにならないことだけは分かった。そうして部屋から出て行こうとする翔の背中をぼうっと眺めていれば、続けて紗季も居間を後にする。
どうやら自身の目論見通りには行かないらしい。とうとう観念せざるを得なくなった芽衣は苦笑しつつ「お邪魔しました〜」と室内の2人に声を掛ければ
「また来てね〜!!大歓迎だよ!!」
と、思わず眉尻が下がるほどに明るい声が見送ってくれた。
そうしている間にも翔は外に出ていたようで、玄関ドアから差し込む白い陽光が玄関を照らす。土間で靴をトントンと軽く鳴らした紗季が外へと出たタイミングで、芽衣も自身の靴に足を下ろした。
そうして、2人の後に続いて外へ出ようとした時。
「あ、そうだ」
すぐ背後から聞こえた低い声。
次の瞬間ぐらりと後ろに傾いた身体と共にバタンと音を立てて、気付けばドアがすぐ目の前に迫っていた。




