彼の家
「芽衣は宿題いつやるの?」
「月曜にうちの学担からもらったやつは終わったよ〜」
「早くない!?」
青空の下に紗季の声が響く。「いつものことだよ〜」と受け流した芽衣だったが、今日という日を心待ちにするあまり気付けば課題が終わっていたというのは内緒の話。
そして視線を横に移せば大きなため息を吐き、分かりやすく落ち込んでいる紗季の姿が目に入った。また宿題を後回しにする気だなと思いつつ「早いとこ終わらせた方楽だよ〜」と、気紛らわしも兼ねて冗談混じりに言ってみせる。
そんな会話をしている間も前を歩く男はずっと静かなまま。以前の芽衣なら通常運転だと気にしなかったその沈黙も、ここ最近彼と会話する機会が増えていた彼女にとっては物足りなく感じてしまうわけで。
だが、声を聞いたら聞いたで途端に心臓がうるさく鼓動を刻み始めるのは分かりきっている。いよいよ手の付けようがなくなってきた自身の感情を前に、芽衣もひっそりと息をひとつ吐いた。
(ほんっとにどうすればいいの……)
吸血鬼と翔の関係を疑った時とはまた別の感情が胸を詰まらせると同時に、まるで彼の家に近づくのが怖いとでも言うように身体に変な力が加わり続ける。楽しみという感情の裏側を支配する緊張から目を背けるように、静かに歩き続ける男の後ろでなおも明るく振る舞った。
「ほら、着いたぞ」
頭の片隅でぐるぐると渦を巻く思考に差した翔の声と共に、それまで先導していた彼が立ち止まる。一拍置いて彼が足を踏み入れたのは『紅葉荘』と書かれた、年季の入っている2階建てのアパートの駐車場だった。
「2階の1番奥。もう来てるから先に行ってろ」
端的に言い残すとくるっと踵を返し、彼はたった今通り過ぎた自動販売機の前で立ち止まったのが目に入る。いつの間にか目で追いかけていたことに気付きバッと視線を外すと、芽衣は言われた通りに目の前の建物に向かって歩き始めた。
カン、カン。
外階段を登るたび乾いた音が青空にこだまする。それがまるでカウントダウンのように聞こえてしまうほど、この後に及んで『翔の家』という字面に緊張を覚え続けていた芽衣。
そうして長くない距離では、あっという間に部屋の前にたどり着いてしまうわけで。
自分の家に来ないかと提案した際は何も緊張しなかったのに。そう懐古しつつインターホンに指を添えるが、その指は一向に前へと進む気配を見せない。
「押さないの?」
見かねた紗季からそんな声がかかる。押すよ、と口にしたものの中々に緊張している芽衣は大きく深呼吸をするのが精一杯。
「押してないじゃ〜ん、えいっ」
「わっ」
添えたまま微動だにしなかった指。それが紗季の手によって前へと押しやられた直後ピンポーンと、室内からチャイムの音が響く。
「は〜い!!」
その言葉と共にトタトタと小走りの足音が聞こえた、次の瞬間。
「あ、芽衣さんだ〜!!いらっしゃい!」
ガチャっと、音を立てて玄関ドアがこちらへ迫ってくる。そうして高い声色を響かせながら顔を覗かせた海斗の笑顔を見た瞬間、先ほどまで身を縛っていた緊張が一気に解れたのが分かった。「そっちのお姉さんは〜?」との問いかけに反応して紗季を見やれば、こちらからでも分かりやすすぎるほどに黒い瞳がキラキラと輝いている。
「芽衣の友達の若葉紗季だよ。よろしくね」
可愛い年下男子を前にしてやや早口で自己紹介をした紗季。「僕は海斗っていうんだ、こちらこそよろしくね!」と彼が自己紹介を返せば「海斗くんっていうんだ……!」との声と共に彼女が両手で口元を覆う。どうやら、会いたがっていた相手の名前を知れて浮かれているらしい。
「改めて2人ともいらっしゃい!」
「俺の家だ」
「うわっ!?」
ドクっと、背後から聞こえた低い声に心臓が大きく跳ねる。
いつの間にか後ろに立っていた翔に思わず驚声を上げると、彼はこちらを一瞥したのち「早く入れ」と促してきた。
「翔兄ずっと立ってたもんね、声掛ければよかったのに」
イタズラが成功した子供のように跳ねる声色。楽しげに細められたベージュの瞳に視線を戻した時、海斗はわざと翔がいることを伝えなかったのだとなんとなく理解した。
まるで小悪魔、そう思いつつも弾けるような笑顔の前ではなんでも許してしまいそうになる。
「ほらほら入って!」
その言葉に促されるように靴を脱ぐと「お邪魔しま〜す」と控えめなトーンで呟いた。そのまま海斗に付いて行き、玄関から少しばかりの距離を進む。
そうして居間のドアをくぐり最初に目に入ったのは、ベッド手前のカーペット上に座りローテーブルに頬杖をついた翔の兄、和海の姿。
「ああ、芽衣ちゃん久しぶり。お連れは紗季ちゃんって言うんだね、どうぞよろしく」
「お久しぶりです」
(……あれ?)
やけに隣が静かだと思い紗季に目を向けた芽衣。直後、その視界には耳まで真っ赤になった顔を手で抑えている彼女の横顔が映った。
和海はどちらかと言えば翔寄りの顔つきであり、鋭い切れ長の瞳はとても印象的なもの。頭の上部で束ねられた黒髪や口許を飾るホクロも相まって、弟2人とは違った大人っぽさを醸し出している。
兄弟揃って顔立ちは整っているが雰囲気は三者三様だと、やけに冷静になった頭にそんな言葉が浮かんだ。
「芽衣ちゃんはここ座りなよ」
ぽんぽんと、和海が彼の左横のカーペットを軽く叩く。一瞬目を見張ったものの話があると言っていたことを思い出し、芽衣は言われるがままに彼の隣に腰を下ろした。カバンそっちに置いていいよ、との和海の声に続いて海斗が「紗季さんはこっち座ったら?」と、テレビ前に座った自身の横を指差す。
(わ、なんか緊張する)
などと考えていると先ほど買ったであろう飲み物を両手に持ち、そのまま無言で居間へと足を踏み入れてきた翔。途端顔を顰めたかと思えば飲み物を棚に置き、おもむろに黒のベストを脱ぎ始めた。そうしてこちらへ距離を詰めると、今の今まで着ていたそれを兄へと差し出す。
「返す」
「別に着ててもいいのに」
「兄さんのベストは俺には合わない。大きいんだ」
どうやら着用していた黒のベストは兄からの借り物だったらしく、当の和海は「はいはい」と返事をしながら受け取っていた。
「翔兄押しに弱いところあるからさ、これも和兄に押し付けられてたんだけど」
ベストを指差しながら海斗が補足する。それに対し「余計なことを言うな」と制した翔だったが、そんな言葉を受けた海斗はどこ吹く風と受け流している様子。
「押し付けてなんかいないよ、白シャツ1枚だとあれかなと思っただけで。っていうか身長そんなに変わらないでしょ」
そんな兄の言葉を受けため息を吐くと芽衣の斜め左前、ローテーブルを囲むようにカーペットに腰を下ろした翔。いきなり兄弟に挟まれるような形になってしまい、芽衣の鼓動が急に早くなる。
(落ち着かないんだけど……)
そんな気持ちなどお構いなしとばかりに、彼女を挟んで翔が兄へと口を開いた。
「……7cm。だいぶ差があると思わないか」
呆れたように言い捨て、翔はローテーブルに緩く頬杖を付くとそのまま瞼を伏せる。そんな彼に対し「身体測定って翔くんも受けたんだよね?何センチだったの?」との質問が紗季から飛んできた。だが彼は一向に目を閉じたままで、その口元は動く気配を見せない。
「んっとね、179cmって言ってたよ〜」
至極不機嫌とでも言いたげに黙りこくった翔の代わりに、海斗の明るい声が耳に届く。改めて数字で表された高身長に驚いたのも束の間、芽衣の頭では素早く計算が始まった。
179cmの7cm上、つまりは
「186!?」
でっかい、と思わず芽衣から驚声が漏れる。それに対しあははと愉快そうに笑いながら窓側に顔を逸らした和海を見ていれば、
「僕はもう伸びないと思うからなあ、170もないし」
といじけたように目を瞑り、緩く重心を後ろに倒した海斗が視界に映った。確かに兄2人に比べれば低いが、別に気にするほどの身長でもないように思う。
だが本人にしてみれば相当不服なようで、いつの間にか弟に視線を移していた翔からの「羨ましいか」という問いにべっと舌を出して反抗していた。
「男の子は18歳まで伸びるらしいし、まだ大丈夫だよ」
慰めるような紗季の言葉を特に否定も肯定もしないまま「そうかな?」と、いじけた顔が眉を下げた笑顔に変わる。それと同時に機嫌も直ったようで
「翔兄、テレビ見てもいーい?」
と、マイペースな問いかけが聞こえた。好きにしろ、との回答に顔を綻ばせると、彼は早速リモコンを手に取りテレビを点ける。
「やったあ、紗季さんも一緒にどう?録画したドラマなんだけど」
「えっ見る見る、誰が出てるの?」
「んっとね〜」
そんな会話を聞いていた時不意に、こちらを向いたことでクリアになった翔の声が耳に届いた。
「話があるって言ってただろ」
「ああ、そうだった。芽衣ちゃんに聞きたいことがあって」
まるで今思い出したかのように呟くと、おもむろに声の主である和海の顔がこちらに近づく。いきなり右耳に近づいた気配に驚いていれば「驚きすぎだよ」と、内緒話でもしている時のように顰められた低い声が耳へと注がれた。
ドクドクと早くなった鼓動が聞こえてしまうのでは。そう思うほどの距離感の中、再度和海が口を開く。
「最後に吸血鬼を見たのっていつ?」
「っ……!?」
質問の内容にびっくり出来るほどの余力はあったが、今の芽衣はそれどころではない様子。
(くすぐったい!)
周りに聞こえないよう気を遣ってくれた結果なのだろうが、声を発するたびに空気が耳朶に触れゾワゾワとした感覚が這い上がってくる。
ギュッと身体に力を入れてそれに耐えていれば「覚えてないかな」と、返事を催促するような文言が再び注がれた。
(心臓に悪すぎるし……あれ、最後に来たのって)
「……ちょうど1ヶ月前、ですね」
そういえば、だんだんと現れる間隔が長くなっているような。
「へえ、だいぶ間隔開けたんだね」
こちらに返事をするでもなく、どこか感心したように和海は口元で小さく呟く。その言葉から察するに、吸血鬼を知る彼の感覚でもだいぶ長かったようで。
(あ、でも)
ふと蘇ったのは2週間前の土曜日、和海からヒントの答えを貰ったあの夜。
「そういえば、この前電話した時にも来てたみたいで……」
「ああ、そうなんだ。電話するタイミング良かったみたいだね」
まるで分かっていたとでも言いたげな声色。しかし確かに、和海のおかげで襲われずに済んだのも事実であり、それに気が付いた芽衣は心の中でお礼を述べた。
ところで、調査を開始して間もない頃に立てた『吸血鬼はある程度の期間血を吸わなくても大丈夫』という仮説。その『ある程度』がどういうわけか1週間、2週間と間隔をだんだんと広げていることに改めて違和感を覚え始める。
(あんなにお腹空いてそうにしてたのに……?)
飢えたように自身を組み敷いた吸血鬼の姿が脳裏に蘇る。そうして『ある期間』の再考と、疑問を組み立てようとした時。
ふと、左から視線を感じた。
(なん…)
「っ!?」
ひっ、と意図せず音が口から溢れる。瞠目した茶色の瞳がかち合ったのは、まるでこちらを射殺そうとしているかのような鋭い漆黒の双眸。途端に今まで和海と会話をした後のことが思い出され、その刺すような視線の意味を瞬時に理解した。
しかしそれに気付いているのかいないのか、和海は一向に耳元から離れる気配がない。その空気感に耐えられず、芽衣が僅かばかり目線を下へと外した時のこと。
ほんの一瞬、兄の視線が芽衣の後ろへと移動する。直後には盛大な舌打ちが彼女の左耳に届いた。
目の前の和海が目だけで弟を牽制したことを、もちろん芽衣は知らない。
「兄さん、もういいだろ」
不機嫌なような、それでいて呆れているような。そんな声色が、なおも至近距離で会話をしていた2人の間に割って入った。
しかし。
「まだ話し始めたばっかりだよ」
対する和海は弟を見据えつつも、口元は楽しげに薄く弧を描いたまま。一気に気温が下がったような錯覚に陥る中、室内にはテレビの音だけが無情に響く。
そうしてまた笑顔と真顔の睨み合いが始まろうとした、その時。
「あっ、涼崎翔だ!」
それまでテレビに釘付けになっていた紗季の、驚きと歓喜の混ざった声が室内に響いた。




