彼の体温
「はあ、はっ…、っは」
吸血鬼の声は確かに芽衣の耳に届いたが、混濁した脳が処理する前に朧げになって消えてゆく。もう自身が苦しいのかさえも分からずに胸を大きく上下させながら、速く荒い呼吸を繰り返す。時折首を左右に大きく振る度、茶色の髪がパサパサと揺れた。
怖い、苦しい、助けて──。
「落ち着け。目を開けて息を吸え」
ふわりと、あやすような体温が頬を撫でる。
暗闇の中、今度こそはっきりと届いた彼の声は芽衣の思考にじんわりと浸透した。
『目を開ける』。その言葉に導かれるように瞼を持ち上げれば、先ほどまで縫われていたことが嘘のようにすんなりと開眼した。
「はあっ、はっ…は、ぁ、」
薄らと覗いた茶色の双眸は輪郭が歪み、涙でぼやけた世界には月明かりだけがきらきらと反射する。
白く煌めく視界のあまりの眩しさに目を細めつつ、瞳に焼き付く眩い空間をぼうっと見つめていた。
「っはあ…ふぅ、はぁ、っ、ふう」
ゆっくりと息を吸い込み、数秒かけて吐き出す。いつの間にか側頭部に触れた片手がポンポンと一定のリズムを刻むのに合わせ呼吸を繰り返すうち、芽衣は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「やっとか」
芽衣の頭を軽く叩きながら吸血鬼は呟く。その言葉には僅かばかりの安堵が含まれていたのだが、その声が彼女の頭に届くことはなかった。
対する芽衣の視界は依然白に支配されたまま。濡れた睫毛がきらきらと月明かりを反射し、ぼやけた視界には彼の姿が歪に映る。
この後に及んでもなお、彼の顔が見たい。当初の目的に突き動かされるままに、無意識に近い感覚で芽衣は腕を持ち上げた。
「っひゃ」
すると不意に彼の大きな掌が頬を撫で、そのまま下に滑った指先がつうと首筋をなぞる。『首に手が掛かる』という普段なら経験することのない感覚に、芽衣は上げかけた腕を勢いよく引っ込め反射的に顔を背けた。
「いや、だ、ころさ」
まだ止まらない涙をぽろぽろと溢しながら呟けば途端はあ、と呆れたようなため息が降ってくる。重くのしかかる吐息の意味を理解することも出来ずに、咄嗟に身体をきつく強張らせた。
しかし、彼は一向に自身に危害を加える素振りを見せない。それどころか不意に潤んだ眦に唇を寄せるとちゅっ、と音を立てて口付けた。柔らかく冷たい唇から覗いた舌先が雫を舐め取れば「甘いな」と、おおよそ涙に対する感想ではない言葉が聞こえる。
その舌はやはり滾ったように熱く、目の淵から涙の跡を上書きするように熱を残していった。
「っん、ぅ」
最早抵抗する気力も体力もない芽衣はされるがままに受け入れていると、前触れなく目元から体温が遠のく。窓から吹き込む夜風が湿った頬を撫で、その温度差が彼の体温をより一層名残惜しいものにした。
「殺さねえよ。もう言わねえからな」
鎖骨に額を擦り付けるように頭を左右に動かしながら、吸血鬼は芽衣の後ろに回した両の手で強張った身体を緩く抱きしめる。片方が背に、もう片方が後頭部に回った手は安心感を感じさせるほどに大きかった。
ベッドと自身の身体に挟まれるようにして滑り込んだ彼の体温と、『殺さない』と彼自身の口から紡がれた言葉。その言葉が耳に届いた途端ふっ、と全身から力が抜けていく。
「っ、ほん、と」
無意識に溢れた問い。それに答えることなく自身の肩口に顎を置きベッドに顔を埋め、吸血鬼はふうと一つ息を吐いた。首にふわふわとした髪が触れくすぐったさに思わず顔を逸らそうとするが、後頭部に回った手がそれを阻む。
それと同時に温かく、それでいて男のものだと実感する骨ばった手が背を大きく撫で下ろした。安心感とはまた別の感覚に声が漏れるが、芽衣にはどこか遠くから聞こえたように感じられた。
いつもなら全力で押し返していたであろうの彼の身体。しかし、この時ばかりは温かいその重さがとても心地良かった。
(なんで、こんな近く)
沈みかけていた思考が再浮上すると同時に、彼の吐息と体温が肌から脳へ伝わる。今更ながらに状況を少しずつ飲み込み始めた芽衣の頭は、彼の行為に対する疑問を朧げに生み出し始めた。
問いが浮かんでは煙のように消えていく。それを繰り返していた時、不意に彼の吐息が首筋を掠める。ぞくっとした感覚に身構えるものの、なぜか彼は吸血行為に及ぶ気配を見せない。腕に囲われたまま密着した胸板から彼の体温がじわじわと移り、氷のように凍てついた体を溶かしていった。
まるで、本当に芽衣を安心させるためだけに抱きしめているような。
小さな子供を寝かしつけるような彼の行動に対する疑問は留まることを知らないが、浮かんだところで『何故か』を考える力は残っていない。そうして同じ問いがまた脳裏に浮かんだ瞬間、再び視界が闇に包まれた。
「っ!!」
目元に感じた体温。一気に先ほどまでの恐怖が蘇るが、それが思考を覆う前に吸血鬼は自身の耳元に冷たい唇を押し付ける。そのまま耳から脳へ直接届くように「何もしない」と、一言だけ言葉を注ぎ入れた。
その言葉を証明するかのように彼は動かず、加えて肌に牙が突き立てられる気配は一切感じない。
(っあ…)
ポンポンと、彼の手が再び一定のリズムで側頭部を軽く叩き始める。大きな安心感のある手と緊張の糸がプツッと切れたことが相まって、芽衣はだんだんと心地良く、それでいて抗い難い倦怠感に包まれた。
自身を恐怖の底に突き落とした相手に寝かしつけられている。その奇妙な事実をすんなりと受け入れられるほどに、沈み始めた芽衣の思考は形を留めていなかった。
「全く……宥めるのも一苦労だな」
微睡の中、ぶっきらぼうに言い捨てられた言葉は僅かな優しさを残して宵闇へと融けていく。
数えるほどにしか耳にしていないはずの吸血鬼の声は、何故かとても聞き慣れているような気がした。
**
「うわぁ…」
翌朝、いつものアラーム音で目を覚ました芽衣。しかしパンパンに腫れ上がっているだろう瞼は重く、目尻のヒリつきを感じながら無理やり持ち上げれば朝日が目に飛び込んできた。
(なんか吐きそう)
昨夜の極限のストレスのせいだろうか、頭がズキズキと痛み心なしか頬が熱い。そうして重い身体を動かし窓の手前に置いてある姿見まで這うようにして行けば、やはり思った通りの酷い顔がそこにある。
どうやら熱を出してしまったらしい。
「最悪すぎる……今日も学校なんだけど」
思わず独り言ちながら目元を触れば、ぷよぷよと腫れ上がった感触が指先に伝わる。そのままカサつく目の周りに指を滑らせればちくっとした痛みが走った。
涙もろい方ではあるが、果たしてここまで泣いたことがあっただろうか。
「はあ、っはは」
嘆息混じりの乾いた笑いが漏れる。それほどまでに鏡の向こうの人間は酷く疲れた顔をしていたのだ。それと同時にこんな顔をみんなの前に晒すなどごめんだ、という焦りにも似た感情が湧き上がる。
(ま、腫れちゃったのは仕方ないとして。頭痛いのどうにかならないかな…)
そうしてふと時計を見やれば、先ほどよりも確実に針が進んでいる。このまま考えていても埒が明かないことを悟った芽衣はとりあえずいつもどおりに部屋を後にした。
「うちの階段こんな急だっけか?」
いつもなら軽く降りられるはずの階段も、今日に限ってはとても長く感じられる。ゆっくりと足を一段下ろす度に引っ張られるような錯覚を覚えた。
「あら、芽衣おはよ〜…って、すごい顔ね?」
「すごいって…褒めてるの?」
「褒めてる褒めてる。で、熱ある?」
リビングに入るや否やカウンターキッチンに立っていた母が顔を上げ、朝の挨拶が飛んでくる。しかし一瞬で発熱を看破されたあたり、やはり側から見ても具合が悪いことは一目瞭然だった。
開かないほどに腫れ上がり重量の増した瞼に、酔っているかのように上気した頬。気付かない方が無理かもしれない。
そして何より、自身は熱を滅多に出さないくらいには丈夫だという自負がある。だからこそ、久しぶりに感じる悪寒を伴う暑さは余計に辛いものがあった。
「学校これ行けるかな」
「休んだら?熱あるのに無理しても良くないし」
母の提案は至極真っ当なもの。しかし、なまじ丈夫な芽衣は欠席をあまりしたことがないためにそわそわとして落ち着かない。気が付けば、不快感の中に罪悪感という棘が生まれていた。
だが、日頃の息抜きと考えればたまには悪くないかもしれない。
(吸血鬼め…)
「……そうする」
不本意な3連休となってしまったが仕方ない。そう割り切った芽衣は再び重い足取りで2階の自室を目指した。




