警戒心
(あっ)
目が合ったかと思えば、翔はゆっくりと身体を前に倒しながら席を立った。久しぶりに思えるその姿に安心感のような温かい感覚を覚える。
今日は体調が良さそうなことに対する安心感なのか、はたまた彼の存在そのものに対するものなのか。
そんなことを考えている間にも、まだ生徒がまばらな教室内に彼の軽い足音が響く。その音がだんだんと近づくのを耳で確認しつつ、芽衣は机上のリュックサックへと視線を落とした。
そうしてチャックを開けペンケースを取り出した時、いつものように足音が目の前で止まった。
「おはよ、翔」
すぐ近くに感じた気配に顔を上げれば、相変わらず気怠そうな黒い瞳が目に入る。しかし一瞬視線が合ったのも束の間、翔は珍しく芽衣の前の座席に腰を下ろすと彼女の机に右手で頬杖をついた。
長時間居座る気かと視線を下に移せば、いつも見上げていた彼の黒髪のてっぺんが目に入る。見たことがないその光景に、なんとも不思議な気持ちになった。
(なんか、用事でもあるのかな)
不思議に思いつつふと視線を前に戻せば、彼の背後からまたしても生徒の視線が突き刺さる。が、もう幾度となく同じ状況を経験してきたために不本意ながらも、芽衣はその光景を気にしないだけのスルースキルを培っていた。
「今日は元気そうでよかった」
翔の前でリュックサックから物を取り出しつつ、芽衣は明るい声で目下の彼へと言葉を紡ぐ。週の始め、それも吸血鬼による寝不足もないために彼女の身体も気分も跳ねるほど軽いものだった。
対して無言を貫く彼から返事はないが、口数が少ないのは別に今始まったことではない。
ひとしきり準備を終え着席すると、ぼうっとこちらを見つめる目線と高さが合う。そうして茶と黒の瞳が交錯した後、目の前の男はおもむろに口を開いた。
「一昨日、兄さんが珍しく電話をしていたんだ。心当たりはあるか」
(!?)
ドキッと、心臓が音を立てて跳ねた。それと同時に先ほどまで軽かった胸の辺りが鉛のように重くなる。
あいにく、芽衣にはその問いに心当たりしかない。加えて一昨日という正確なタイミングまで言い当てられ、心なしか鼓動が早くなった気がする。
まだ芽衣だと断定しているわけではないようだが、『関わるな』という言葉を意図せず無下にした罪悪感が再度湧き上がり、それが鈍色の雲となって心を覆った。
しかし別に罪を犯したわけでもないのだから、わざわざ言う必要もない。翔には悪いが、黙っていればバレることはないだろう。
と、僅かに視線が泳いだ瞬間。
「……やっぱりお前か。人の忠告も聞けないのか?」
「えっ」
次に耳朶を打った言葉に、ハッと無意識に息を呑んだ。
何故か、考えたことが見透かされている。まだ何も言っていないのに。などと驚いていると今度は呆れを含んだような声色が耳に届く。
「この際だから教えてやる。お前、いつも顔に全部出てることに気付け」
「うそ!?」
その事実に素っ頓狂な声を上げ、芽衣は慌てて自身の頬をギュッと両手で押した。信じられないと言わんばかりに手があちこちを触るが、当然感情が出ているかなど分かるわけもなく。
そんなこと、ただの一度も言われたことがない。
しかしまさか、今まで自身の感情は外にダダ漏れだったのか……?
無意味な行動を繰り返しながら軽く混乱していると、ジトっとこちらを睨め付ける漆黒の瞳が視界に映った。
「気付いてなかったのか。そんな無防備な状態でよく生きてこられたな」
落ち着いたように、それでいて呆れたように紡がれた言葉。相変わらず単調な言葉に、幾分かの落ち着きを取り戻す。
だが、言外に『警戒心が無い』と言われている気がした。以前2回ほど口に出して言われたことがあるが、やはり芽衣にはピンと来ない。
つまり感情が全て顔に出るのは無防備、と言いたいのだろうか。
「そりゃあ、周りがみんないい人だから……」
警戒する必要がない。と続ける前にはあ、とあからさまなため息が聞こえた。そして翔は何かを考えるように横を向いてしまい、それまで合っていた目線が逸らされる。
事実、今まで芽衣は人から過剰に攻撃されたこともなければ、人のことを特別嫌いになったこともない。そのため、知っている相手に対しては基本的に余計な疑いを持つことがなかった。
しかし、翔にしてみればそれが癪だったらしい。
不意に、机の上で組まれた腕の片方に彼の左手が伸ばされる。一瞬の出来事に反応が追いつかず視界の端に映ったそれを見ていると、次の瞬間には手首に明らかな重さを感じた。
「っ!?」
彼に手首を握られていることを理解したのは、ほんの数秒後のこと。反射的に手首に落とした視線を彼に戻せば、感情が抜け落ちたような瞳がそこにある。
「翔…?なにして──っわ」
言わんとすることを遮るように、掴まれた腕がグイッと引っ張られる。それと同時に明らかな圧力を感じ、芽衣は思わず眉を顰めた。
しかしそんな状況とは裏腹に、彼女の胸中は至極穏やかなもの。
どういう理由で腕を掴んだのかは分からない。しかし彼ともあろう人が、まさか自身に危害を加えるはずがないのだから。
(別におっかない人じゃないし。でもどうしたんだろ)
その考えこそが彼の気に障ることだとは、この時の芽衣には理解出来なかった。
ただ事ではない雰囲気に、2人を驚いたように凝視する同級生が目に入る。そのことに対して気まずさと恥ずかしさを覚えることが出来るほど、芽衣の心にはまだ余裕があった。
「振り払ってみろ」
短く、それでいて高圧的な言葉が聞こえた。我に返り声の主にピントを合わせるが、真一文字に引き結ばれた唇からそれ以上の言葉が紡がれる気配はない。
(振り払うって、腕のことだよね。簡単でしょ)
聞こえたままに言葉の表面だけを汲み取り、とりあえず腕を左右に振ってみた。否、振ったつもりだった。
(……あれ?)
なぜか、掴まれた腕はびくともしていない。不思議に思いつつ腕を手前に引っ張ってみるが、彼の手が離れることはおろか同じ位置から腕が動かない。
手首を捻ろうとしても叶わず、再度肘を曲げようと試みるものの手首から上が引っかかって思うように引き抜くことが出来ない。
「えっ、うそ」
何をしても手応えが感じられないことに、だんだん焦りと腕の痺れを覚え始める。しかし翔は表情ひとつ変えずにこちらに視線を送るだけで、一向に解放する気がないらしい。
一体何を考えているのか分からないまま、不安だけが少しずつ募っていく。
(こんなに力強いの!?)
すぐに離れるはずだった彼の腕。なおも振り解こうと眉にシワを寄せていると、目の前の男は緩く瞼を伏せて息をひとつ吐いた。
「なんだ、こんなものか。ここまで非力なくせによく無防備でいられるな」
言い終わるが早いか、急に手首がふっと軽くなった。突然離れた体温に驚きつつ咄嗟にそこを見やるが、赤くなるなどの異常は見られない。
つまり、それほど強い力で掴まれたわけではなかったのだ。
(っ……)
自身の考えの甘さを思い知ると同時に、芽衣は改めて痛感した。
吸血鬼でも人間でも、男性は明らかに女性より力が強いのだと。
「俺が軽く掴んだだけでこの有様だ。これでも俺は警戒するに値しないのか」
「え?」
その言葉に意識を引き戻されるが、言われたことの意味がよく理解出来ない。
なぜ、翔はそこまで警戒心を繰り返し説いてくるのだろうか。
力の差は痛いほどに理解したが、彼の教えようとした真意までは汲み取ることが出来なかった。
そうして芽衣が次に紡いだ言葉は、至極楽観的なもの。
「知らない人だったらあれだけど翔だし。知ってる人警戒してたら疲れるよ」
それこそ初対面の男性なら恐怖心が芽生えるだろうが、目の前にいるのは自身に協力してくれている翔。心強い存在を怖がる必要はどこにもない。
そう意味を込めて自身の考えを伝えれば、翔は諦めたように「何を言っても無駄か」と言い捨てた。
「お人好しとはこのことだな……。次に吸血鬼が来た時の自衛策でも考えておけ」
(……あ)
そう言われ、芽衣の口からは先日思いついたあの策が反射的にこぼれ落ちそうになった。
しかし。
もし、吸血鬼の顔を見ることが出来たら。翔は一体どんな反応をするだろうか。
次にあの策が成功した暁には、鼻高々に自慢してみたい。無表情な彼のリアクションを、その表情を見てみたい。
驚いた顔をするのか、それとも前のように笑顔を見せてくれるのか。
その考えが頭をよぎり、芽衣は言いかけた作戦を飲み込んだ。
そうして自衛策の代わりに別のことを一緒に考えてもらおうと、口を開きかけたその時。
「あ、え、翔くん……?」
不意に、右手側の入り口付近から女生徒の声が聞こえた。その声に反応したのは翔本人ではなく芽衣の方。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み振り向けば、彼が拝借している席の主が立ち尽くす姿が目に入った。その表情は驚いているようにも、放心しているようにも見える。
そんな女生徒には目もくれず、翔は無言で芽衣の横顔を見続けていた。
そうして同級生を見ていると今度は左側からガタッと、椅子を引く音が耳に届く。反射的にそちらを見やれば、丁度席を立つために前屈みになった翔が目に入った。
一拍置いて立ち上がった翔の背中を見送った後、前の座席の同級生のソワソワとした様子に視線を移す。
「芽衣のおかげで翔くんに座って貰っちゃった……!」
側から見て分かるほどに目がキラキラしている同級生は椅子に中々座る気配を見せない。まるでアイドルと握手をした後、手を洗わないと宣言しているファンさながらに浮き足立っていた。
(まあ、転校してきたばっかりの時は私も似たようなもんだったけどさ)
しかし会話をするうちに、彼は他と変わりない同級生なのだと認識を改めた。だからこそ、彼の方から積極的に周りと交流を深めればいいのに。
(ヒント一緒に考えて欲しかったけど……そういえば内緒って言われたっけ……)
先ほど、結局言えずじまいだった『ヒント』。しかし彼の兄からのものだと分かれば、また不機嫌になりかねないことに後から気が付いた。
和海からのヒント、ということを伏せて今度それとなく聞いてみよう。加えて吸血鬼への反撃が成功したら、それも合わせて彼への良いプレゼントになるかもしれない。
胸の内にサプライズを隠した芽衣は高鳴りを感じつつ、口角が自然に上がるのを抑えられずにいた。
**
──カラララッ……。
宵闇に響くその音で目が覚めた。ぼうっとする頭を起こして開き切らない目を擦れば、いつかのように閉めていたはずの掃き出し窓が開いている。
そうして靡くレースの向こうに立っていたモノ。それは相も変わらず月明かりを背に浴びた人影──、吸血鬼だった。




