転校生
思い出したくもない記憶と感覚が一気に蘇り、芽衣は慌てて首を振る。
しかし、脳裏にこびりついたそれは簡単に忘れられるものではなかった。
今思えば、目が覚めた時から少しずつ気にはなっていたのだろう。
今朝だってそうだ。顔を洗おうと鏡の前に立った時、なんとなく左の首元が気になり視線を落とした。
分かってはいたが、やはりそこには何も異常は見られない。
赤みを帯びているわけでもなければ、皮膚に咬み跡のような穴があるわけでもなかった。
それなのに。
夢で咬まれたであろう首筋が何故か疼く。
まるであの感覚を忘れさせないかのように、いつまで経ってもその疼きが消えることはなかった。
なぜだろう。
何回も見ているはずなのに、なぜ今日に限ってこんなに気になるのだろう。
そういえば、あの夢を最初に見たのは一体いつだったか。
記憶の糸を手繰り寄せた時、ふとある事実に辿り着く。
そうだ。あの夢を最初に見たのは、先月にとある生徒が転校してきた翌日だった。
**
進級して間もない4月の中旬、月曜のこと。
その日は、朝からとても騒がしかった。
ことの発端は先週の金曜日、帰りのHRで担任が放った一言。
「あ、そうだ忘れてた。来週月曜に転校生が来るからそのつもりで」
あまりにも軽く告げられた言葉に、一瞬にして教室内が大きくざわめく。
「今それ言うんですか!?」
男子の素っ頓狂な声が響いた。
担任はやれやれ、という顔をしたあと
「仕方ないだろ、忘れてたんだから」
と、またも軽く言ってのけた。
その様子に、大半の生徒はええ…、と困惑と呆れの表情を浮かべている。
「そんな大事なこと忘れる…!?」
「先生も歳だからな。でもまあ、新しい仲間が増えるんだからもっと喜べ」
「35はまだ若いでしょうよ…」
「お前らもいつかはこうなるんだよ。分かったらほら、帰りの挨拶してとっとと帰れ」
突如投下された爆弾発言に驚く生徒たちをよそに、担任はその場を強制的に収める。
しかし帰りの挨拶をし終えた後も、教室のざわめきはしばらく止まなかった。
そして月曜。
HRが始まる前の教室は転校生の話で持ちきりであり、何人かの男子は職員室まで偵察に行っているようだった。
教室内には、これから来るであろう人物に対する憶測と願望が飛び交う。
「男子かな女子かな」
「そりゃあ男子でしょうよ。というかそうであってほしい」
「いーや女子だね。可愛い子だといいな」
「ほんと顔しか見てないよね男子って。ヤダヤダ」
「女子だって顔しか見てないだろ!?頼むから女子であってくれ。男に興味はないんだ」
「なんでもいいけどイケメンであって欲しい」
などど、自身の願望を余すことなく口にする生徒の声で大変賑わっていた。
芽衣はといえば、つい先日購入した小説を読むのに気を取られ転校生どころではない様子。
いつもなら周囲の会話に加わって話している頃だが、最近はその余裕がない。それほどまでに熱中していたのだ。
表紙とあらすじに惹かれた吸血鬼が題材の小説。しかし少し際どい表紙のため、ブックカバーは必須である。
別に、転校生のことが気になっていないわけではない。
どうせならかっこいい人だったいいな、程度に考えつつ小説を読み進める。
その時、廊下からバタバタと走る音と「やばいやばい」という声が聞こえてきた。
音がすぐそこまで近づいたかと思うと同時に、ガラガラっと勢いよく教室の後ろの扉が開く。そこにいた偵察部隊は何やら興奮した様子で目を大きく見開き、肩で息をしているようだった。
一気に教室中の視線がそちらに集まり、一瞬の静寂が訪れた。
「男子女子どっち!!?」
沈黙を破り、誰かがそう尋ねた。
その声に対し、偵察部隊の1人が大きく息を吸ってから早口で捲し立てる。
「男子男子!!それはいいんだよそれは!そうじゃなくて顔!顔!」
言いたいことをまとめる余裕が無いのだろう。転校生を目撃した男子が息を切らしながらそう答えた。
男子、という言葉に反応した一部の男子諸君は「う〜っ」という奇声を上げながら机に頭をつけて項垂れる。
側から見てもがっかりしていることは一目瞭然だった。
「落ち着け落ち着け。とりあえず詳しく」
立て直すように続きを促す声に対し、さらに大きく深呼吸してから口を開く男子。
「ごめんごめん、俺さ、職員室の扉についてるあの小窓あるだろ?あれ。あそこから中見たんだよ。したらうちの学担の背中しか見えなくてがっかりしてたんだけどさ、その奥にいたんだよ転校生。男だったな…。そしたら担任が振り返って…」
「分かったから結果早く!」
なかなか結論に至らない回答に痺れを切らしたのか、興奮冷めやらぬ様子の男子に対し女子から怒りの催促が。
それを受けて、別の偵察部隊の男子が言葉を紡いだ。
「結果からいえば、転校生マジでイケメンだった。男の俺でもびっくりするぐらい。あれは認めるしかないわ」
その言葉に、今度は『イケメン』というワードに反応した女子がどっと沸いた。
皆の目が一斉に輝き始める。とても分かりやすい。
少し間を置いて呼吸を整えた偵察部隊はようやく席につき、各々が転校生のことを周囲の生徒に熱弁していた。
「か〜っ、やっぱ顔じゃねえか。美少女じゃなかった俺の気持ちが分かるか」
項垂れていた男子が顔をあげ、そう野次を飛ばす。が、
「あんたも顔じゃん」
と、一瞬で斬り捨てられていた。
その光景を横目に、読書を再開した芽衣はなおもページを捲る。
ちょうど吸血鬼が登場し、物語が始まろうとしていた。
続きが気になり、またページを捲ろうとしたその時。
ガラガラと今度は教室の前の扉が開き、担任が入ってきた。
「静かにしろー。お前らが待ち望んでいる転校生が紹介出来ないぞ」
しかし、興奮しきった教室が完全に静かになる訳もなく。
騒々しさはある程度落ち着いたが、空気は冷めることなく、むしろ先ほどよりも高潮していた。
「やればできるじゃないか。おい転校生、もう入っていいぞ」
担任がそう促す。
教室内からゴクっと、緊張の唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
小説から目を上げた芽衣も、少しばかり緊張した面持ちで扉の方向を見ている。
そうして、例の転校生はついに姿を現した。
──刹那、教室内は水を打ったように静まり返ったのを覚えている。
次の瞬間、「うええあああ」と叫声とも悲鳴ともつかない声が廊下まで響き渡った。
先ほどよりも大きな衝撃と喧噪に、教室は一瞬のうちに包まれる。
机に額をつけながら項垂れていた男子たちでさえ、目を見開き口をパクパクとさせて固まっていた。
芽衣も例外では無く、驚きのあまり一瞬目を見張っていた。
それもそのはず。入ってきたのは、まるで絵に描いたように『全て』が整った男子だったのだ。
切れ長の目は二重で堀が深く、鼻筋はスッと通っている。重量を感じさせないフワフワとした黒髪は、少しばかり目にかかる程の長さ。その髪が色白の肌を際立たせる。加えて身長もそこそこ高く、175cmは超えているように見える。太っているわけでも、かといって痩せすぎているわけでもないのが見てすぐに分かった。
そんな教室内のざわめきをよそに、担任が口を開く。
「ほら涼崎、自己紹介」
その一言に、教室が少しの間静寂に包まれる。
担任に促された転校生は、感情が読み取れないほどの真顔で
「…涼崎翔です」
と、名前だけの簡単な自己紹介をした。
その言葉に、一部の女子から「へっ!?」と驚いたような声があがる。
芽衣も声をあげそうになり、慌てて口元を片手で覆った。
理由は簡単。彼の名前は現在休業を発表している俳優と同じものだったため。
まさか本人!?、とありもしない考えが女子たちの頭をよぎった。
それを察したのだろう。
「分かってるとは思うが、この涼崎は高校生だからな。お前らと同じ10代。23歳の俳優とは違うから」
と、転校生の右肩を軽く叩きつつ担任からの補足が入る。
しかし、だからといって落胆する者はいない。俳優よりも身近な彼は、もう既に十分目の保養になっていた。
ところで、芽衣にはどうしても気になることが1つだけあった。
それは、転校生の首元に飾られた黒く太いチョーカーのようなものについて。
芽衣の記憶が正しければ、この学校はアクセサリーの類は禁止だったはず。
なのにどうして、同級生は誰も指摘しない?皆そこを見る余裕もないほど興奮しているのだろうか?
しかも、先生だって職員室の時点で気付いているはず。
まるで自分以外には見えていないかのような状況に、芽衣はひどく違和感を覚える。
そうして不思議に思い彼の顔と首元を交互に凝視していると、不意に目が合った。
射抜くような視線に驚き、反射的に思わず視線を下に落とす。見過ぎたことで不快にさせただろうか。
だがどうしても気になる芽衣は、その後も転校生がこちらを見ていないタイミングでチョーカーを無意識に見ていた。
──あれが幻覚じゃないとしたら、きっとなにか特別な事情があるのだろう。
後で機会があれば本人に直接聞くのも良いかもしれない。いつになるかは分からないが。
そう自分を納得させることで、転校生に対して膨むばかりの疑問を無理やり払拭した。
**
「おーい芽衣、おーい、聞こえてる?」
紗季の声に、彼方にあった意識が一気に戻される。
「へっ?」
「お、気づいた。どしたの芽衣、ぼーっとしちゃってさ」
そう問いかけた紗季の顔からは心配の色が見てとれる。
どうやら頬杖をついたまま、色々考え込んでいたらしい。
気づけば教室には生徒が何人か増えていた。
「ごめんごめん、夢のこと考えてた」
「お、どんなこと?」
「なんで見るようになったのかな〜って。まあ多分吸血鬼ものの小説読んでるからなんだけど」
「ちょっと待って絶対それじゃん。それしかないじゃん」
だよね〜、と相槌を打つ芽衣。
「ちなみにそれってどんな本なの?」
「んーっとね、これなんだけど…」
そう言いながら、机の中から小説を取りだし机上に置く。
「これあんまりカバー外したくないんだよね…ラノベじゃないけど表紙際どくて」
「うわ、そんなもの学校に持ってこないでくださ〜い」
茶化すように紗季がそう言う。
「別にそんなんじゃないです〜。そんなに言うなら見せてあげようじゃないの」
教室内の人数はまださほど多くない。今外しても特に問題はないだろう。
そう思い、ブックカバーを外した時だった。
窓から吹き込んだ春風に煽られ、芽衣の手からカバーが落ちる。
そしてギリギリ手の届くところに滑っていった。
「やべっ」
小説をそのまま机に置き、椅子から身を乗り出して手を伸ばす。
今にもバランスを崩し、そのまま床に倒れそうな体勢だった。
後少しでブックカバーに届く、そう思った時だった。
不意に手が目の前に現れ、同時にカバーが誰かに拾われる。
突然のことに驚きつつ、礼を言おうと顔を上げた芽衣。そしてその姿勢のまま固まってしまった。
目線の先には、カバーを手にした転校生──翔の姿が。
しかも、彼の視線は机上に置かれている小説に注がれている。
数秒かけて状況を理解した芽衣の顔は、だんだんと羞恥で赤みを帯びていく。
…最悪だ。同級生にこの表紙を見られるなんて。
慌てて身体を起こし、さりげなく小説の上に腕を置こうとする。
しかしその直前、表情ひとつ変えない翔の口から紡がれたのは
「お前も、その本読んでるのか」
という、耳を疑うような問いかけだった。