兄弟(side翔
中間テスト最終日、放課後のこと。
「じゃあ、私はもう行くけど、気を付けて帰ってね」
「……ああ」
芽衣と短い会話を交わした後、翔は自席に戻り伏せて寝る体勢をとった。
こんなに体調が悪いのは一体いつぶりだろうか。そんなことを考えつつ深呼吸をすれば、苦しさが少しばかり和らぐ。
しかしこめかみや手の甲には依然青い血管が浮かび上がっており、まだ回復したとは言い難い。
やはり、芽衣を先に帰らせて正解だった。
そう考えている間も、翔の耳は同級生達の気配を拾っていた。そのせいで眠ろうにも寝付けず具合は悪化するばかり。加えてその気配は彼に近づこうとして躊躇っていることに、当の本人は全く気が付かずにいた。
「……はあ」
ここにいても気が散るばかりで回復などしない。そう悟った翔は身体を起こすと荷物を手に取り、傾き始めた太陽の下を帰路についた。
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カンカンと、アパートの外階段を登る靴音が静かな空にこだまする。そうして角部屋の自宅に辿り着き靴を脱ぐと真っ先に居間へと足が向かった。無造作に荷物を置き窓際に設置されたパイプベッドにうつ伏せに倒れ込むと、それまで皺一つなかったタオルケットに波が出来上がる。
ようやく訪れた誰にも邪魔されることのない時間。緩く息を吐きながら瞼を閉じると、会話をするたびに表情がコロコロ変わる茶髪の少女が脳裏に浮かんだ。
「流石にもう…限界か」
あまりの疲れに朦朧とし始めた意識の中、消え入りそうなほど微かな声で呟く。それに合わせ、思い浮かんだ少女の姿も霞のように消えていった。
思考を放棄すれば心地の良い倦怠感が身を包み、次第に瞼が重くなる。それを感じながら、翔は少しの時間だけ眠りに落ちた。
ピンポーン。
どれくらい経っただろうか。不意に、静まり返った室内にインターホンの音が響いた。
「……誰だ…」
その音に意識を引き戻された翔は気怠そうにそう呟く。が、鉛のように重くなった身体を動かすことが億劫なためか一向に起き上がる気配はない。
何の気なしに窓の外を見やれば、意識を手放す前よりも太陽が地平線に近づいているのが確認できた。
日没が近いことを横目で確認し茜色の部屋に視線を移した時、次に玄関から聞こえたのはコンコンとドアをノックする音だった。
「……」
その行動で全てを察した翔が仰向けになると同時に、ガチャっと玄関の戸が開く音が続く。
「邪魔するよ」
「翔兄生きてる〜?」
廊下から響く2名の声に諦めたように、翔は右腕で目元を覆う。そうして居間の戸をガラガラっと開けて入ってきたのは自身の兄である和海と、弟の海斗だった。
少しばかり腕をずらして2名を視認した瞬間、はあ、と自身でも意図せずため息が溢れる。
「鍵閉めてただろ」
「ん?開いてたよ」
呆れを含んだ声で指摘すれば目の前の和海は薄い笑みを崩さずに、まるで何事もないかのようにそう言い切った。
──嘘つけよ。
そう言い返そうとしたが、どうせ兄には何を言っても無駄だと悟り飲み込む。その代わりに息を一つ吐くと、今度は別の疑問を投げかけた。
「……兄さん、わざわざインターホンを押してからノックするのは癖なのか」
「寝てたら入れないからね」
「起きていても十分不法侵入だがな」
何を言ってもはぐらかす兄との会話を諦め顔の上から腕を下ろすと、クマが薄らと刻まれた青白い顔が露わになる。途端海斗の口から「うわあ…」と小さな声が漏れた。
「翔兄ほんとに具合悪そうじゃん。さてはあんまり食事してないんでしょ。一人暮らしだからって食べなきゃダメだよ?」
ベッド横のローテーブル下に敷かれたラグに腰を下ろすなり、弟はそう声をかけてくる。
「分かってる…」
これまでもたまに食事を抜くことはあったが、最近になってここまで苦しいのは初めてかもしれない。原因は分かっているものの、こればかりはどうにもならない。
「……何しに来たんだ」
回復しきっていない身体も相まって心底面倒くさそうに呟けば、海斗の対面に同じく腰を下ろした和海が口を開く。
「さっき具合が悪そうって聞いたから様子見に」
言葉自体は聞こえたものの、翔の頭は言葉を処理することが出来ないほどに疲弊していた。そのまま天井をぼうっと見つめ続ける彼に構わず、今度は海斗に向かって和海は言葉を発する。
「翔相手もそうだけどさ、海斗は誰とでもすぐ仲良くなれて羨ましいよ」
「思ってないでしょ」
「思ってるよ。俺がさっき芽衣ちゃんに怖がられてたの見たでしょ?」
──芽衣?
唐突に聞こえたその名前に一瞬硬直する翔。途端、頭の霧が晴れていくのが分かった。
なんで、兄さんの口からあいつの話が出てくるんだ。
それに一度でも、芽衣の名前を教えたことがあっただろうか?
そう思い至ったところでガバッと、翔が勢いよく上体を起こした。そうして信じられないとでも言うように見開かれた黒い目は、乱れた前髪の隙間から真っ直ぐに兄を捉えている。
「まさか、兄さん」
その言葉の意味に気が付いたのだろうか、兄はいつものように笑みを浮かべながらこちらへ視線を寄越している。その目はまるで愉快だとでも言いたげに細められており、それがなおのこと翔の驚きを大きくさせた。
先ほど『体調が悪いと聞いて』と言った時点で、誰が言ったのかに気が付くべきだったか。
その様子を見ていた海斗が、思い出したようにこちらへ向かって口を開く。
「そうだ、僕芽衣さんから連絡先教えて貰ったんだよね。翔兄も持ってるでしょ?」
「……誰の連絡先だって?」
「芽衣さんの。貰ってないの?」
そんなもの貰っていない、と答える代わりに両者を交互に見やれば「そんなに睨まないでよ」と揶揄うような声が聞こえた。
自身でも気が付かぬうちに眉間に皺が寄り、刻まれたクマもあってかとても不機嫌そうになった顔。
まるで、先に見つけた玩具を横取りされたような。そんな不快感が翔を襲う。
そしてその不快感の矛先は弟ではなく、目の前で笑みを貼り付け続けている兄の方に向かった。
海斗はともかくとして、和海は自身でさえ何を考えているのか分からない。言い換えれば何をしてもおかしくはないのだから用心するに越したことはない。
「芽衣は俺が先に見つけたんだ。手は出さないでくれよ」
僅かな苛立ちと牽制の意味を込めてそう言えば、和海は益々楽しそうだと言うように眉を上げてこちらを見るばかり。
「さあ、どうするかな。翔は芽衣ちゃんのことなんとも思ってないんだから別にいいでしょ?」
「兄さん」
「冗談だよ。可愛い弟の頼みは聞いてあげないと」
口先ではそう言っているが、おそらくこのまま黙っているわけはないだろう。加えてこの兄は思ってもいないことをいとも容易く口にする。
それに、『なんとも思っていない』からなんだと言うのか。そういう問題ではない。
この人に目を付けられるとは、俺も芽衣も運がない。諦観しつつこれから起こるだろうことを予測できないまま、翔は大きなため息を一つ吐いた。
「もうすぐ日も沈むし、泊めてくれるでしょ?」
テレビを付けながらそう尋ねてきた海斗に対し、最初からそのつもりだろうと返そうとする。が、重くなった身体がそれを邪魔した。
「好きにしろ」
言い終わるが早いか再度ベッドに背を預け、茜色に染まった天井を見つめる。
「うわ…ここまで具合良くないの珍しいね?水持ってこようか?」
「……頼む」
「OK〜」と言いながらキッチンへ向かった海斗から視線を外し目を瞑ると、不意に和海から声がかかる。
「我慢は身体に毒だと思うけど」
そんなこと、自分でも分かっている。しかしまだ我慢しなければ。
「そういえばあの『調査』、またやってるの?」
「……だったらなんだ」
睫毛を伏せたまま肯定すれば、感心したように和海は言葉を続ける。
「物好きだよね、今まで一回も吸血鬼の正体なんて暴けたことないのに。あ、だから続けてるのか」
確かに、初めて『調査』というものを開始してから今までただの一度も、吸血鬼の正体に辿り着けた者はいなかった。
そうしてもう何度目になるか分からない今回。早々に諦めれば良いことくらいよく解っているつもりだが、翔は自身でも気付かないうちに心の奥底で淡い期待を抱いていた。
もしかして、他と違う彼女なら、と。
「お、海斗見て見て、ドラマの再放送やるって。今夜だよ」
ちょうど戻ってきた海斗から翔が水を受け取ると同時に、番組表を見ていた和海が声をかけた。
「へえ、誰出るの?」
「ん、涼崎翔だってさ」
ピクッと、その名前に翔が僅かに反応する。しかし特に何を言うわけでもなく空になったコップをテーブルに置くと、兄弟に背を向けベッドに横になった。その様子を面白がったのか和海が追随するように声をかけてくる。
「名前が同じ俳優だよ。見れば?」
「興味ない。それと、俳優と同姓同名なんて珍しくもないだろ」
ぶっきらぼうに返事をすれば「そう?」と軽い声が返ってきた。
「『涼崎』なんて名字、そうそういないと思うけどね」
しかし次に聞こえたのは、まるで冷やかすように、それでいてどこか感心したような和海の声。
だんだんと紺色に染まる空に映えた月を見ながら上体を起こし、肩越しに振り返った翔は兄を見据えたまま口を開く。
「……何が言いたい」
「別に〜?」
一段と低くなった翔の声をものともせず、兄は飄々と受け流した。彼の隣の海斗はテレビに夢中になっており、2名のやりとりは気にも留めていない様子。
「はあ……」
本日何度目になるか分からないため息を漏らした後、ちょうど沈んでいく太陽を見ながら翔は紺色のカーテンを閉める。そうしてテーブル上のリモコンを手に取ると、暗くなった部屋に光を灯した。
久々に揃った三兄弟は各々の時間を過ごしながらも、夜は同じく刻々と更けていった。




