要注意人物
「2人で何してるの?もしかしてデート?」
(デっ……!?)
続けて降ってきた声の主を数秒遅れで理解し、ばっと顔を上げた芽衣。その大きく開かれた双眸の先には傾き始めた陽の光を背に浴び、笑みを浮かべてこちらを見下ろす翔の兄・和海の姿があった。
そして彼の口から飛び出した爆弾発言。揶揄する冗談だと思いつつも『ただの同級生』である翔の名誉のためにと、慌てて訂正しようとしたその時。
「そう思うなら邪魔をしないでくれ」
「へっ!?」
まさかの返しに素っ頓狂な声をあげ、信じられないとでも言うように見開かれた目は隣の男を見つめ続ける。呼吸音さえ聞こえないほど微動だにしなくなった様子に一瞥をくれると、翔はすぐにこちらから目の前の兄へと視線を戻した。
(なに言ってんの……!?)
「おっと、ごめんごめん。一緒にいたからつい」
楽し気な笑みを崩さずに口先だけで言ってのけた和海に対し、翔は呆れの混じったような視線を向けている。若干の温度差を感じさせる両者の態度に芽衣は益々困惑するばかり。
ややあって、ゆっくりと身体を背もたれに預け腕組みをした翔は
「海はいないのか」
と問うた。今朝は気に留める余裕がなかったのだが、どうやら彼は海斗のことを渾名で呼ぶらしい。
少なくとも下の兄弟との関係は悪いわけではないようだが、上の兄弟とはそうでもないのだろうか。
「ん?ああ、寝てたから起こさなかったよ」
表情ひとつ変えずに紡がれた返答を受け、翔は諦めたようにため息を漏らした。かと思えばそのまま睫毛を伏せて、珍しく深呼吸をする。
(そんな仲悪い?)
「そう気を落とすなよ。俺だけだと不満?」
「兄さん1人だと何をしでかすか分からないからな」
「海斗がいても変わらないと思うけどね」
芽衣にはよく分からない会話を交わした後、彼は拗ねた子供のように背もたれに肘を掛け、何もない明後日の方向を向いてしまった。
「ところで、芽衣ちゃん首どうしたの?」
不意にこちらを向いた和海にそう問いかけられ、翔に向けていた視線を和海に戻す。「ここら辺」と言いながら自身の首をトントンと指差し、芽衣の返事を待つ彼はどこか愉快そうに見えた。
咄嗟に虫と言おうとした芽衣だが、無意識に隣の翔を一瞥する。
しかし現状唯一首の跡の正体を知る彼は、どうやらその質問を気にも留めていないようだった。そっぽを向き続けるその様子に安堵と、僅かな心細さが混ざった感情が湧き上がる。
(まあでも、和海さん吸血鬼のことなんて知らないだろうし誤魔化せるよね)
逡巡する間も和海は静かに芽衣の返事を待っているようで、急かすことのないその姿勢がなおのこと返事を急がせた。
「えっと…これは」
「蚊に刺されたんだと」
言いかけた芽衣の答えを遮るようにして、横を向いたまま端的に吐き捨てた翔。その様子に和海は肩を竦めながら「芽衣ちゃんに聞いたんだよ」と眉尻を下げて笑っていた。
どうやら気に留めていなかった訳ではないようだが、依然として兄へと視線を戻す気配はない。
なにはともあれ場を乗り切った芽衣はほっと胸を撫で下ろし、見上げていた視線をやや下に落とした。
(あ、和海さんもネックレスしてるんだ)
彼の胸元まで視線が降りた時ふと、青い石のようなものが目に映った。透き通ったその小さい石はシンプルでありながら、彼にとても似合っているように思える。
あまり意味はないのかもしれないが、どちらも首に何かを飾っていることが特別なことのように見えた。もちろん気の所為だろうが。
(お揃い、ってわけじゃないんだろうけどさ。なんかいいね)
──そうして感心する芽衣を見下ろしていた和海の眼差しが、不意に陰険な色を帯びて細められる。が、彼女はもちろん視線を外していた翔も、次第に無機質になる瞳に気が付くことはなかった。
「へえ、『蚊』もマーキングするんだ」
「兄さんっ」
焦ったような翔が和海に視線を戻したのは、言い終わるのとほぼ同時だった。しかし明るく呟かれた言葉に理解が及ばず、ぽかんとする芽衣。
「マーキング?」
(ってあの動物がするやつ?)
そう思いつつ、自身の首元を指先でなぞってみる。和海は本当に蚊だと思っての発言なのだろうが、芽衣にとっての蚊は吸血鬼を意味する。
もしかして、あえて残されたかのようなこの咬み跡は本当にそういう意図なのだろうか?
(いやいやまさか。和海さんは蚊の話をしてるんだし)
そう納得しようとするが何故か、彼の発言はその後も頭の片隅に引っかかり続けた。
「芽衣ちゃん、もし吸血鬼いるよって言われたらどう思う?」
ビクッと、『吸血鬼』という単語を含んだ唐突な問いかけに肩が大きく跳ねる。
あまりにもピンポイントなその問いかけに、芽衣はまたも翔を一瞥する。しかし彼は驚いたように目を見開き兄を凝視するばかりで、こちらには気付く余裕はないようだった。
(なんで吸血鬼の話題なんて……もしかして気付かれた?)
「この前その話題になったから聞いてみただけ。いたら怖いでしょ?」
(あ、なるほどね)
その言葉で謎が解け、ほっと胸を撫で下ろす。しかし吸血鬼などという一見空想上の生き物の話題など、一体どこで出てくるのだろうか。
考えられるとすれば、翔が吸血鬼の話を兄弟にしているのだろうということぐらいか。
(……そう言われてみれば、別に吸血鬼の存在自体はあんまり。慣れちゃったのかな)
一方的に襲われる立場で慣れてしまうのも可笑しな話ではあるが、芽衣は存在そのものよりも、吸血鬼についてもっと恐怖を感じていることがあった。
「へえ、意外だね」
微かな呟きが、こちらを見据えたままの和海から溢れる。かろうじて耳に届いた声に首を傾げれば「なんでもないよ」と低く優しい声が降ってきた。
……今、心の声は口から漏れていただろうか?
独り言かと思うものの、どこか違和感を感じさせるその言葉。金曜に自身を見つけた時もそうだが、彼はどこか湿った違和感を感じさせる言動が多いような気がする。
(なんだろうこの感じ……)
自身でも気付かぬうちに警戒する芽衣の様子に気付いたのだろうか、今度ははっきりとした明るい声が降ってくる。
「そういえば気付いてた?芽衣ちゃんへの質問、全部翔が答えてるんだよね」
確かに、と言われて初めて気付いたその事実。
(……もしかして)
今朝の「関わるな」という言葉はこういうことだったのだろうか。弾かれたように隣の翔に視線を移せば、既に会話を放棄し兄を黙って見据える翔の姿が目に入る。
それに対する和海もまた、笑みを浮かべたまま無言で弟を見下ろしていた。
しかし弧を描く口元とは対照に、細められた黒い瞳からはなんの感情も読み取ることが出来ない。
あるいは、なんの感情も宿ってはいないのか。
(っ…)
そう認識した途端、ぞわぞわっと芯が冷えるのを感じた。今まで生きてきた中で、そんな明るく翳った表情など見たことがなかったから。
(まあ大人だし…私が子供すぎるだけだよねきっと)
そうしてこのまま続くかと思われた兄弟間の睨み合い。その刹那の時間に終止符を打ったのは、こちらを見下ろしたままの兄の方だった。
「じゃあ、俺は散歩の途中だからこれで。またね」
先ほどの表情が嘘のような彼は思い出したようにそう言うと、くるっと踵を返し出口へと歩き始めた。その様子に嵐のような人だと思いつつ、芽衣は彼が公園の外に出るまでを見送った。
(この前もそうだったけど、この時間帯に散歩できるってことは仕事なにしてるんだろ)
明らかに大人ではあるが、そういえば和海についての情報は何も得ていない。不必要だと言われてしまえばそれまでではあるものの、芽衣は彼の言動も含め気になるところが多かった。
「っていうか、和海さん何歳なの?」
「……26だった気がするが……忘れた。というか兄さんの話はどうでもいいんだ」
(どんだけ仲悪いの……)
少なくとも翔の方が一方的に警戒しているように思える。その証拠に、和海が立ち去った後の彼は少しばかり雰囲気が和らいだ。加えて芽衣の所感だと、和海も別に翔を邪険にしている訳ではないようだ。
一体、彼は何をそこまで警戒しているのだろうか。
「お前、吸血鬼が怖くないのか」
ぼーっと考える芽衣の耳に届いた問いかけ。
先ほどの質問の続きだろうが、そういえば明確に答えていなかったような。
そう思い翔へと視線を戻すと、いつになく真剣で、それでいてどうでもよさそうな彼と目が合った。
矛盾したその様子はまるで、何かを諦めているようにさえ思える。
(どうしたんだろ?まあ、正直に答えてもいいよね)
「いること自体についてはあんまり怖くないかも。それよりさ……」
「なんだ」
考えるだけで内側から冷えていき、思わず言葉に詰まる。途中で言葉を切ったことがもどかしかったのか、翔は鋭くこちらを見据えながらただ続きを待っていた。
芽衣が彼の存在よりも恐れていること。それは──。
「今はたまたま生きてるだけで、いつか殺されるかもしれないじゃん」
『慣れ』とは恐ろしいもので、芽衣はいつしか夜毎現れる彼の存在自体は受け入れ始めていた。
しかし。
吸血鬼の胸中など芽衣に分かるはずもなく。今は運良く生かされているが、そのうち殺される可能性もゼロではないのだ。
(得体の知れない者には変わりないし……吸血以外にされることなんて分からないんだよね)
それにもし抵抗できたとして、その場合は一体どうなってしまうのだろうか。そう考えると益々身体が冷えていき、芽衣は思わず両肩を摩った。
「……安心しろ、奴は人間を殺さない」
(っえ?)
しかし次に耳に届いた言葉は、身体の内の氷を溶かしていくように温かいものだった。
身体的特徴以外にも分かるのかと驚いたものの、何故言い切れるのだろうかと疑問が湧き上がる。しかし根拠はないが、翔の確信に満ちた言葉は何故かとても説得力のあるもの。
(…翔が言うならそうなのかな)
彼についてもまだまだ分からないことだらけではあるが、こういう安心感を与えてくれるところを見るに悪い人ではないのだろう。
「だから、お前は吸血鬼の正体を暴くことだけに集中しろ」
西陽に照らされながら続けて言い切った彼は橙色に輝いており、芽衣の目にはとても頼もしい存在に映っていた。




