ご機嫌ななめ
そして月曜日。
「っはあ……ほんとやばい…遅刻する…!」
珍しく家を出る時間が遅くなった芽衣は、雲一つない青空の下を全速力で走っていた。6月の初旬ということもあり気温はそれほど高くはないが、額に薄く汗を浮かべた顔は遠目でも分かるほど赤く火照っている。
(あーもう!この跡さえ無ければ…!)
芽衣が遅れてしまった理由。それは彼女の首元に顕れた、主張するように赤く色付いた咬み跡が原因だった。
今朝、いつものように洗面台の鏡の前に立った時、真っ先に目に入った赤い肌。慌ててうなじと左脇腹を触って確認するが、ヒリつくような痛みを感じるのみで跡自体は消えているようだった。
それに対し首元のそれは触っても痛みはないが、皮膚を破られた痕跡は丸一日経った今も存在を主張していた。
──よりによって、何故人目に触れるところだけ消えていないのだろう。
それに現在肌に残っている咬み跡は、吸血鬼の存在を思い知ったあの日に付けられたもののみ。つまりそれ以前の跡は肌に残ることなく、綺麗に消えて無くなっていたということになる。
ならば、これはなんなのだろうか。
答えの出ない疑問が浮かび上がるが、芽衣はそれよりも重要なことに気が付いた。
それはいかにして、この悪目立ちする跡を隠すかということ。
急いで自室に戻りブラウスを手に取ると、芽衣はそのまま姿見の前に立ち試行錯誤を開始した。
まず初めに、とりあえず第一ボタンまで留めてみる。しかし咬み跡は襟より上に位置しており、赤い肌を覆うことは出来なかった。ならばと絆創膏を取り出してみるが、普段怪我をするような場所ではないためにとても不自然に映ってしまう。これならば貼っていない方がマシだった。
母のスカーフや包帯も頭を過ったが、学校へ行く手前とても現実的な策ではない。
結局その後も案が浮かばないまま学校へと出発することになってしまい、芽衣の試行錯誤は朝の貴重な時間を浪費するだけに終わってしまった。
(虫に刺されたってことでなんとかならないかなあ……)
ベタな言い訳を考えながら無我夢中で足を進めているといつの間にか、生徒が続々と吸い込まれていく正門が目前に迫っていた。
走ったおかげで予想よりも早く到着することが出来た芽衣は胸を撫で下ろすと、気持ちの良い風に吹かれながら歩いて校舎を目指した。
(大丈夫かなこれ……)
教室に近づくにつれ、自然と手が首元を覆い隠すように添えられる。気にしすぎだと解ってはいるが、そうせざるを得ないほどに首元のそれは不自然に目立っているのだ。
(ま、なんとかなるでしょ)
大きく深呼吸をし、意を決して引き戸を開け教室に足を踏み入れた時。
ふと、黒板前の紗季の席に女子生徒が4、5人集まっているのが目に入った。不思議に思い凝視していると不意に、その集団の1人がこちらを振り返りぱちっと目が合った。
次の瞬間。
「「「芽衣!!」」」
突然勢いよくこちらを振り返った集団は声をあげると、前のめりになりながら芽衣の元へ走ってきた。
(なになになに、怖いって!)
狼狽するあまり、無意識に足が1歩後ろへと進む。そんな急展開に困惑する芽衣をよそに、目の前で止まった同級生の1人が興奮気味に口を開いた。
「芽衣、あのイケメン2人誰!?兄弟?」
そう早口で捲し立てた同級生に対し「芽衣は一人っ子だからそれはない」と紗季が素早く補足する。
(2人…って、もしかしてあの人たちのこと?)
一瞬ピンと来なかった芽衣だが、次に脳裏に浮かんだのは黒髪の男性と茶髪の少年。金曜日に出会った、翔の兄弟達だった。
そういえばあの時、彼らを遠巻きに見ている集団の中には同級生の姿もちらほら見えていた。きっと芽衣が会話しているところもばっちり見えていたのだろう。
「え〜じゃあ誰?もしかして彼氏!?」
「どっちと!?」
次々と変な方向へ進む憶測を耳にしながら、芽衣は心のどこかで安堵していた。
(首のこれには気付かれてないっぽい?)
謎のイケメン2人に大盛り上がりを見せる同級生達には、芽衣の首元の異変に気が付く余裕はないようだった。
(それはいいとして……翔の兄弟だって言っちゃってもいいのかな)
「あの背の高い方カッコ良くない!?」
「隣の茶髪の子も可愛かったけど?兄弟なのかな」
なおも興奮しながら口々に憶測を飛ばしあう同級生達。その光景に眉尻を下げつつ、芽衣は話があらぬ方向へと進む前に訂正するべきか迷っていた。
(でも勝手に言うのもなんだかなあ……)
「どうなの!?め──」
せき立てるように、上気した顔が一斉にこちらへ向けられた時。急に、同級生の顔から笑顔がストンと抜け落ちた。
かと思えば、目が見開かれたままに視線が芽衣の後ろに固定される。
(えっ、なになに怖いんだけど)
大きく見開かれたその目はまるで、幽霊でも見たかのような……。
「芽衣、ちょっと来い」
突然背後に感じた気配に名前を呼ばれ、思わず肩が跳ねる。そして瞬時に、同級生が固まった理由を察した。
会話を重ねるうちに耳に馴染んだその声。
後ろを振り返るとそこには、いかにも不機嫌だと言いたげな表情を浮かべ、引き戸の框にもたれかかる翔の姿があった。
(ちょうどいいタイミング…なのかな)
落ち着いている芽衣とは対照に、同級生達は思わぬ人物の登場に固まりつつも目をキラキラとさせている。
「何の話をしてたんだ」
その視線に気が付いたのか、翔は芽衣に向かってそう問いかけた。彼の兄弟と会っていたことを、果たして本人は知っているのだろうか。
「金曜日に誰と会ってたの?って」
「誰かと会ったのか?……ああ、そういうことか」
問いかけ、次の瞬間には自己完結した様子の翔。そしておもむろに口を開いた彼はぶっきらぼうに、同級生の疑問に対する答えを提示した。
「あれは俺の兄弟だ。この答えで満足か」
「えっ!?」と目の前の集団から一斉に驚声が上がる。集団に加わっていた紗季も例に漏れず、目を見開いて翔と芽衣を交互に凝視していた。
対する芽衣は、翔が金曜日のことを知っていた事実に驚愕した。おそらくあの後2人とも、翔に会いに行っていたのだろう。
そして兄弟を名乗る2人が本当に実の兄弟だったことも分かり、僅かな懸念が頭の片隅から払拭されるのを感じていた。
(良かった……怪しい人と翔の話をしたわけじゃなくて)
芽衣が人知れず安堵している間も、同級生達はそわそわとしながら翔の顔色を窺っている。
彼が質問に答えてくれたことで勢いづいたのか、同級生は更に質問しようと試みていた。が、纏う不機嫌な空気に気圧されたのか、誰も質問を口にすることは出来ない。聞きたい言葉が喉元まで出かかっているのが、こちらまで伝わってくるようだった。
(まあちょっと怖いもんね。今日特に機嫌悪いっぽいし……)
言いたくても言えないような、歯痒くもどかしい沈黙が場を包む。
そしてしばらくの膠着状態の後、同級生達は2人の正体が分かっただけでも満足とみなしたのか、おもむろに元いた場所へと戻っていった。
(えっちょっ待っ、こんな状態の人と2人にする気!?)
その場に残されたのは無表情から不機嫌が滲み出ている翔と、ただただその気配に固まる芽衣。
振り返り後ろを見やると、心なしか先ほどよりも眉間の皺が濃くなったような翔と目が合う。じっと見下ろす視線から逃げるように、芽衣は咄嗟に前に向き直る。
(私なんかしたっけか?)
流石の彼女も雰囲気に圧倒され、静かに、そして自然にその場を去ろうとした。
しかし。
「荷物を置いたら来い。話がある」
思いも虚しく後ろから聞こえたその声は、有無を言わせないような力強いもの。
(これ、行かないと更に不機嫌なままなんじゃ……)
断る、という選択肢さえ与えられないことを悟った芽衣がそのまま自席に向かい荷物を置くと、「ほら、行くぞ」と間髪入れずに声が掛かる。
おそるおそる彼の方を向くと、腕組みをしながら「早くしろ」と言外に訴えている姿が目に入った。
(ほんと何もありませんように……!)
まるで罪人にでもなったかのような気分で、芽衣は翔の後に続いて廊下へと出て行くことにした。
そうして少しばかりの距離を進んでたどり着いたのは、廊下の突き当たりにある空き教室の前だった。
壁の手前で立ち止まったかと思えばこちらを振り返り、じっと目を合わせながら口を開く。
「金曜の放課後、兄さん達に会ったのか」
普段よりも低い声に改めて尋ねられ、思わずひゅっと息を呑む。
先ほどの会話の流れからだろうが、会ったことが面白くなくてこんな調子なのか。向こうから声を掛けてきたというのに。
(会ったけど、それがどうかしたのかな)
口に出して聞きたいが、彼の表情を見ていると言葉が喉奥に引っ込んでいく。
そして、何も言えずに黙り込んだのも束の間。
「兄さんとは関わるな」
眉間に皺を寄せた鋭い目でこちらを見据えたまま、翔は語気を強めてそう言い切った。
「え?」
対する芽衣の口からは思わず声が漏れる。言葉自体は耳に届いたものの、内容がよく理解できない。
碌なことがないんだ、と付け加えた翔は顔を逸らしていたものの、苦々しい表情をしているのは一目瞭然だった。
(和海さんと関わるなって言ったの?別に会うつもりもないけど……)
やはり翔の兄弟と会ったことが不満だったのかと理解はしたが、それにしてはどこか引っかかる。
翔の口ぶりから察するに、海斗は含まれていない。つまりは『翔の兄弟』ではなく、単純に『和海個人』と関わってほしくないのだろう。
(仲悪いのかな)
しかし、彼らは翔について聞きたがっていたのだから芽衣を訪ねた。不仲な兄弟はわざわざそんなことをしないのではないか。
「大丈夫だよ。あれから会ってないし」
そんな芽衣の呑気な返事を聞いた翔は、珍しく溜息を吐きながら、いつかのように芽衣の両肩に手を乗せると
「お前な…少しは警戒心を持て。あんな連中に付いて行くなんて正気か?」
呆れ返ったようにそう呟いた。
「ええ……」
(あんな連中って……そこまで言う?)
別に、芽衣だって最初から心を開いていたわけではない。むしろ、やり過ぎなくらいに警戒していたほどだ。
だがいつのまにか、特に海斗の方に絆されていたのも事実で……。
指摘されたことに心当たりが全く無かったわけではないことに気付き、芽衣が気まずそうに視線を逸らしたその時。
「というかお前、兄さんと海に連絡先を教えたらしいな。俺には何もないのに」
突然不快感を露わにしながらそう詰められ、返答に困る。肩に乗せられた手に力が篭ったのは気の所為だろうか。
(仲良いならまだしも個人の連絡先いる?グループチャットで十分じゃない?)
今のところ、翔の連絡先は特に必要としていなかった芽衣。調査は対面で行うだろうし、吸血鬼という共通の話題を除けばただの同級生だ。
「同級生の連絡先は特に必要ないかなって思って」
端的に理由を述べると、乗せられた手に痛いほどの力が篭る。
「その同級生の兄弟の連絡先はもっと必要ないだろ」
(確かに。でも翔だって私なんかの連絡先いらないでしょ……)
至極真っ当な返答に言葉を詰まらせた芽衣は、ただ黙って翔の顔を見つめることしか出来ずにいた。
そしてその時初めて、翔の顔色が先週よりも良くなっていることに気が付いた。
「具合良くなったんだね。よかったよかった」
ピリピリと張り詰めた空気を和ませるように、わざと明るくそう言ってみせる。するとその瞬間、それまで痛いほどに強く掴まれていた肩が解放された。
突然軽くなった身体に驚いた芽衣だったが、
「ああ、おかげさまでな。……ところで、今何時だ?」
そう問いかけられ、ふと左手首の腕時計に目を落とす。
そして目に入った文字盤。その上でカチカチと時を刻む秒針は始業時間2分前を指していた。
「やっばいじゃん!戻ろ!」
そう驚声を上げた芽衣は振り返ると早足で歩きだし、今度は翔が彼女の後ろを付いていく形で2人は教室へと戻って行った。
**
「芽衣、携帯を貸せ」
放課後、すっかり元の調子に戻ったような翔は芽衣の前に立つなりそう言った。
「携帯?」
「ああ。早く」
(顔色は良くなったけど機嫌はまだ悪いままなのかな……)
芽衣はそう考えつつも、朝の会話が本気だったことに対してはただただ驚嘆していた。




