飢えた獣
翌々日の日曜日、真夜中のこと。
中間テストという目下の課題から解放された芽衣は、テレビから発せられる音を右から左へ流しつつ、自宅のリビングにて1人ぐるぐると考え事をしていた。
「月曜から調査再開できるのかな…」
紗季が不在とはいえ、翔と2人でも調査は出来るのだから大丈夫だと思っていた。だが金曜の彼はそれどころではないほどに顔色が悪く、月曜はもしかしたら欠席するかもしれない。
1人で調査をするには情報量が圧倒的に少なすぎるため、正体を探るには吸血鬼を見たことがある彼を頼る他ないのだ。
(自分から提案した割に静かだったけど。というか私の知らない相手だろうに…正体なんて分かるのかな)
そもそも、翔の言う『正体を探る』の定義は一体なんなのだろうか。
相手の名前などの素性を暴くこと?
それとも、誰かが持っている秘密を暴くこと?
顎に手を当てて考えてみるものの、曖昧に定義づけられたその言葉の真意はよく分からない。
(私の知っている人が実は吸血鬼でした、みたいな感じなら『その人の秘密』を暴いたことになるんだろうけど)
そんな仮定が浮かぶが、芽衣は否定するように首をぶんぶんと横に振る。
まさか、そんなはずはない。そんなことがあってはならない。
自身の日常に吸血鬼が潜んでいるなど、考えただけでもゾッとする。もしそうだとすれば相手は、今もなお何食わぬ顔で自身を欺き続けていることになるのだから。
(流石にそれは嫌すぎる。人間不信になりそうだし…そんなはずないじゃん)
しかし、現状それを無闇に否定できるだけの根拠もない。芽衣は相手の声しか知らないのだから。
いつも月明かりで隠れた吸血鬼の表情。まるで『わざと』隠しているようなそれを目にするまで、知らない人とは言い切れない。
だとすれば、この仮定はもしかして──。
(やめたやめた。ちゃんと調査しないと分かんないんだから)
どんどんと悪い方向に突き進む思考を引き戻すように、芽衣は大きく息を吸いこみ、そしてゆっくりと吐き出した。
兎にも角にも、翔がいなければ状況は進展しないのだ。今ここで悩んでいても仕方がない。
「翔具合良くなってるといいけどなあ。…そういえば、海斗くん達会いに行ってたりしないかな」
ふと脳裏に浮かび上がったのは、金曜日に出会った翔の兄弟を名乗る2名の姿。
あの日、海斗から翔の様子を聞かれた際『具合が悪そう』ということは伝えてある。もしかすれば彼の様子を見ようと、2人で会いに行っているのではないか。
(まあ電話してまで聞くほどのことでもないけど。っていうか、2人ともよく私のこと分かったよね)
感心しつつ、芽衣は自身の髪を一房摘み指先で遊んでみる。
確かに、生まれつき焦茶色の髪と瞳を持っている芽衣は良くも悪くも見つけやすい。加えて自身の制服のリボンは2学年を表す赤。翔も同じく赤色のネクタイをしているのだから、ある程度の目星はついていたのだろう。
近くで確認すればなおのこと──。
(…あれ、でも和海さんとの間にだいぶ距離あったよね?)
しかしあの時、和海はすぐに通り過ぎようとした芽衣を見つけていた。それも確信に満ちた様子で。
(あの距離で、生徒に囲まれながらこっち見てたってことでしょ?しかも私が通るタイミングをたまたま)
果たして、そんな偶然があるのだろうか。
考えれば考えるほど、言い知れぬ気味悪さが足元から這い上がってくる。自己紹介の時に感じた違和感とは別物の、湿気を帯びたような重い違和感。
だが最初こそ彼を警戒していた芽衣だったが、記憶にある彼との会話は終始和やかなもの。口調も柔らかく、無理に問い詰めようとすることもない寛容な態度は、どこかの誰かとは大違いだった。
だからこそ、彼女の中では気付かぬうちに和海に対する認識が変わっていた。
(まあ良い人そうだったし、あんまり変に疑うのも失礼だよね)
細かい違和感はあれど、それは翔も同じこと。そう考えた芽衣は、和海に対してのそれも頭の片隅に放り込み、そしていつしか忘れていった。
「ふぁああ…なんか眠くなってきたかも」
大きな欠伸をしつつ、ふと壁掛け時計に目を向けた芽衣。カチカチと音を刻む針は、ちょうど1時半を指している。
この短時間で、様々な出来事に対して思考を巡らせた彼女の頭は限界寸前だった。
「よく分からなくなってきたし、とりあえず寝よ」
そう呟きながら、ソファーから立ち上がる。そしてテレビと明かりを消すと、芽衣は暗闇が包む廊下を歩き始めた。
既に両親は就寝しているため、極力音を立てないように階段を登る。
そして2階の自室の前にたどり着くと、静かにドアを開ける。するとそこには白い月光のみが差し込む、紺碧の空間が広がっていた。
ちょうどその白線がベッドの上を照らす。
(最近全然現れないし、もう流石に大丈夫じゃない?)
ベッドに腰を下ろしつつ、芽衣はそう考えた。
吸血鬼の存在を思い知った日から1週間。あれから一度も現れないことを見るに、こちらへ来ることを既に諦めたのか。
(私以外にもターゲットはいるだろうし。まあ、反撃の方法を考える必要もなくなったということで)
安堵したのか、全身の力が緩く抜けていく。
そうしてベッドの上で大の字になりながら、紺色に染まった天井をぼうっと見つめた。
その時だった。
──コンコン。
「っえ?」
突如、室内にノックの音が響く。反射的に上体を起こした芽衣の首筋を悪寒が走り抜けた。
ざわざわっと全身に鳥肌が立つのを感じながら、目だけが辺りを見回そうと素早く動く。
そして、芽衣の視線はある一点に固定された瞬間、動きをぴたっと止めた。
視線の先にある掃き出し窓。その向こうには、月光を浴びながらベランダに佇む吸血鬼。
「ひっ!?」
瞬間的に呼吸が止まり、鼓動が早まる。しかし彼女の頭はすぐに冷静さを取り戻した。
もう幾度となく目にしたこの光景。不本意ながら、芽衣はこの状況に若干慣れ始めていた。
だとしても、肌に牙が突き刺さる鋭い痛みだけは慣れることはないだろう。
(流石に入っては来れない…よね?)
鍵がかかっている窓の向こうで、微動だにせずただ立ち尽くす吸血鬼。その様子に疑問と僅かな安心感を抱きつつ、急いでベッドから降りる。そして部屋から出ようと、自室のドアの前に立った時だった。
カララッ。
(…?)
今の音は、一体。
聞き慣れているようで、すぐには記憶と結びつかないその音。
一瞬行動が止まった芽衣はゆっくりと、音がした方を振り返る。直後、その目には『彼女にとって最悪の光景』が映った。
(窓が、開いてる?……っ開いたの!?)
カヒュッと、喉から息の詰まる音が漏れ鼓動が激しく脈打つ。
目の前には夜風に靡くレースカーテンと、開放された掃き出し窓。
そして、先ほどよりも鮮明に浮かび上がる吸血鬼の姿。
(嘘でしょ…!?)
そんな馬鹿な。確かに鍵は閉まっていたはず。
しかし部屋と外を隔てる唯一の扉は、まるで最初から開いていたかのように壊された形跡もない。
だとしたら、一体何故。
逃げなければ。この場から、今すぐに。
頭の中に警鐘が鳴り響く。しかし、芽衣の身体は金縛りに合ったように動かない。
瞬きひとつ出来ずに見開かれた目は、こちらに向かって走ってくる吸血鬼をスローモーションのように捉えていた。
「っ!?」
瞬間、弾かれたように我に返った芽衣。反射的に震える手でドアを開け、部屋の外へ1歩踏み出したその時。
「わっ!?」
突然前に回り込んだ右腕に左肩を掴まれ、グイッと引き寄せられた身体が吸血鬼の胸板に勢いよくぶつかる。
何が起こったかを理解する間もなく、目の前のドアがバタンと音を立てて閉められた。
(う、しろに、いる…?)
そう理解した時には、もう全てが遅かった。
吸血鬼に後ろから押されるような体勢で、足が勝手に前へと進む。
そのまま顔面からベッドに投げ出された芽衣。ギシッと吸血鬼の乗る音が続く。
(息、くるしっ)
うつ伏せの状態でかろうじて顔を左に向け、はあはあと荒く呼吸をする。そうしている間に吸血鬼は芽衣の両手を彼女の背中で一纏めにすると、両手首を彼の右手で固定した。
これまでとは明らかに違う吸血鬼の行動に、芽衣はひたすら戦慄していた。
いつもは余裕すら見せていた相手がまるで何かに耐えるように荒く息をし、自身を固定する手に力を込めている。
その状況下で本能的に命の危機を感じ取った芽衣の呼吸はいつしか速く、そして細くなっていた。
不意に、芽衣の長い後ろ髪が吸血鬼の手で右に寄せられ、顔の横に焦茶の髪がサラサラと落ちる。
そうして左の肩をベッドに沈むほど強く押さえつけると、曝けだされたうなじに舌を這わせた。
「ひあっ…っうぅ…」
その舌は氷のように冷たかったが、時折混じる吐息は火傷しそうになるほどの熱を帯びていた。
恐怖とぞわぞわと這い上がる未知の感覚でぐちゃぐちゃになった思考に、ふと、とある考えが過ぎる。
(助けを、よばなきゃ…)
いくら眠っているとはいえ、ここで叫び声を上げれば両親は来てくれるだろう。
そうすれば、この何も考えられない状況から一刻も早く脱することができる。
もう、どうにでもなればいい。
無我夢中のまま息を大きく吸い込みながら前を向き、声を上げようとした、その瞬間。
「んぁっ!?」
芽衣の行動を察知したように、左肩を押さえつけていた手が口を塞ぐ。そのまま人差し指が口腔内に侵入すると、声を封じるように舌をぐりぐりと押し下げてきた。
「ぅ…ぁあ、ぇ」
言葉にならない声が口から溢れては全て、煌々と光る宵闇に消えていく。
「大人しく、していろっ…」
呻くような声が聞こえた直後、まるで飢えた獣のように乱暴な彼の牙が突き立てられた。
「ぅああっ!」
うなじに感じた痛みに思わず叫ぶが、それは声に成りきれないまま水音に掻き消されていく。
痛い、熱い、いたい。
荒くすぐに牙を引き抜きべろっと流れる液体を拭った舌は、先ほどの冷たさからは想像もできないほど熱く、赫くなった鉄のように滾っていた。
ややあって。
顔がうなじから離れると不意に、塞がれた口と両の手が自由を取り戻す。
(っお、おわっ、た?)
そう安堵したのも束の間、腰丈まであるカットソーの裾から吸血鬼の手が侵入する。そのまま背中の半分まで捲られたかと思えば、無防備な肌にひんやりとした夜風が当たった。
次の瞬間。
「痛っ!?」
左脇腹に感じた鋭い激痛。今までとは種類の違う衝撃から逃れようと身を捩るほど、牙はどんどんと奥深くに突き刺さる。
悶える芽衣の背筋をスッと、上から下へと指がなぞる。その手は反対の脇腹まで滑るように移動し、包み込むように繰り返し摩り始めた。
ぞわぞわと、恐怖とも嫌悪感ともつかない感覚が芽衣を襲う。それは吸血鬼に肌を舐られる度に感じた、あの未知の感覚と同じ。
「いや…ぁ…誰か…」
声を上げるのも忘れ、いつの間にか譫言のようなか細い声が溢れていた。
暫くしてから摩る手を止めた吸血鬼は顔を上げると、じんじんと疼く咬み跡に舌の表面をゆっくりと這わせた。
まるで、滴る血を一滴残らず飲み干すように。
(も、いやだ)
その後、ひとしきり舐め終わった吸血鬼は芽衣の肩を後ろから抱くと、くるっと仰向けにひっくり返した。
対する芽衣は最早抵抗する気力もない。加えて血液を多量に失った彼女の身体は鉛のように重くなっており、指一本ですら動かすことが出来なかった。
(うぅっ)
されるがままに天井を向いた時。ふと、今まで見えなかった彼の白髪が目に入った。
月明かりを受けてキラキラと輝くそれはまるで、銀糸のような神々しさを纏ったもの。
「きれい…」
眠りに堕ちていく時のような倦怠感に襲われる中、思考の浅瀬に浮かんだ言葉が溢れていく。
それを目にした瞬間だけは痛みも恐怖も、全てが何処かへと消えていた。
「…はっ」
吸血鬼の嘲るように笑う声が耳朶を打つと同時に、霞む視界が彼の右手によって奪われる。
「随分と…余裕だな」
そのまま、仕上げとばかりにゆっくりと、牙が喉元に突き刺さった。
(っぅ…っ…?)
だが、不思議と先ほどまでの激痛は感じない。確かに、牙は突き立てられているはずなのに。そこにいるのに。
その証拠に、どうしようもないほどの熱い吐息が芽衣の喉元を掠めていた。
(た、すけて…)
「かけ、る…」
遠のく意識の中、芽衣の脳裏に過ったのは両親でも紗季でもなく、何故か翔だった。
吸血鬼を知る彼に縋るような細く、今にも消えそうな声。
その声が小さく響いた途端、僅かに、芽衣の目元を覆う手に力が込められる。
「…っ、お前は、俺が先に──」
見つけたのに。
そんな掠れた最後の言葉は夜風に攫われてしまい、微睡む芽衣の耳に届くことはなかった。




