まるで現実のような
一応恋愛なんですよ…。先は長いですがお付き合い頂けると幸いです!
「い、や、いた…い、から……」
──ある夜、宵闇に月がより一層綺麗に浮かんだ刻のこと。
「っあ、い、たい…っぅ…も、やめ」
月明かりが差し込む部屋に、少女の悲鳴にも似た細い声が響く。
その響きは、まるで月に吸い込まれるかの如く融けて消えていった。
涙声で訴える少女の視線の先には、月光を背に浴び、彼女に跨るヒトのような者。
少女の両手をベッドに縫い付けながら、顔をその首元に埋めている。
そしてその口元には、おおよそ人間のものとは思えない尖った牙が。
「ほん、と…も、やめ…」
無意識に呟いてもなお、目の前の『ヒト』は首筋に舌を這わせ、鋭く尖った牙を穿つ。
牙は少女の肌に深く突き刺さり、そこから響く水音と熱い吐息、そして少女の微かな泣き声だけがこの月夜を満たしていた。
ーー
「芽衣おはよ〜!」
天気の良い朝、まだ人通りの少ない高校の正門前で声をかけられ、相田芽衣は振り返った。その焦茶色の髪が強い春の風に揺れ、優しそうな印象を与える垂れ目かつ茶色の瞳は声の主を映す。
そこにあったのは走って来たのかゼエゼエと肩で息をする親友、若葉紗季の姿。おそらく走った影響だろうか、顔のすぐ下で切り揃えられた短い黒髪が乱れている。
「おはよ、髪すごいよ」
「ほんと!?っていうかどうしたの芽衣、今日元気ないね」
呼吸を整え髪を手櫛で整えた紗季がそう指摘する。側から見ても分かりやすいほどいつもの快活さがなりを潜め、どこか沈んだ様子を漂わせている芽衣。
「まあちょっと色々…」
曖昧に言葉を濁す。が、
「さては、あんまり寝れてないな!?目が腫れてるもん!!」
相変わらず、この親友は鋭い。なんでもお見通しである。そんな紗季に内心感心しつつ「とりあえず、教室行ってから話すよ」と彼女を促し、2人は校舎へと足を運んでいった。
芽衣たちが在籍する教室は、3階にある2年2組。
まだ始業時間より1時間ほど早いため教室内には伏せて寝ている者、読書をする者等が3、4人いる程度であり、時計の針の音だけが良く響いている。加えて電気も点けていないため、窓から差し込む朝の自然光だけが教室を包んでいた。
そんな静かな教室で、各々始業前の準備をする2人。
暫くして準備を終わらせた紗季が芽衣の前の席に腰掛け、後ろをくるりと振り返った。そうして開口一番
「んで、なんで寝不足なの?」
と、単刀直入に紗季がそう尋ねる。その質問に少し考えるような様子を見せたあと、頬杖をつきながら芽衣が口を開いた。
「最近夢見が悪くてさ。すぐ起きちゃうんだよね」
「夢?」
「うん。しかももう1回寝ようと思っても寝れないし」
「おばあちゃんじゃん」
「うわ、言うと思った」
そんないつもの軽口に、芽衣の表情が少し和らぐ。
「ごめんごめん、どんな夢なの?」
おそらく1ミリも思ってないだろうな。
そう思いつつ、芽衣は先ほどより声を顰めながら答えを返す。
「…実は、吸血鬼みたいなのが出てくるんだけど…」
「吸血鬼!?」
視界の端で伏せて眠っていた同級生がビクッとなったのが見えた。
「声でかいよ」
「えだって吸血鬼でしょ?あんなファンタジーの生き物って夢に出てくるもんなんだ。二次元の存在見れるってすごくない?」
一体どこに感心ポイントがあったのかは分からないが、紗季の瞳がどことなく輝いている気がするのは気のせいだろうか。
「まあ実際にいる生き物じゃないし、見たことなんて無いからあくまで『みたい』だけどさ」
「実際どういう感じかって分かんないもんね。ていうか、『最近』ってことは昨日だけじゃないってこと?」
「そうなんだよねえ…たまに見るんだけど昨日のが一番記憶に残ってるかな。直近だし」
話しているうち、じわじわと昨夜の記憶が蘇る。
「そんなに似た夢って頻繁に見るもんだっけか?」
「…さあ。全部が全部吸血鬼じゃないかも知れないし」
口ではそう答えたものの、芽衣には確信があった。
夢に出てきたあの生き物。あれは間違いなく吸血鬼だ。
なぜ頻繁に同じ夢を見るのかは分からない。心当たりがあるとすれば、最近授業の合間に読み進めている吸血鬼もののファンタジー小説ぐらいか。
本屋で見つけ、軽い気持ちで手に取ったのが先月の初め頃のこと。
夢に見た、音もなく現れては人に跨り生き血を啜る怪物。それはまさしく本で読んだ吸血鬼そのもの。
しかし、果たして小説がそこまで夢に影響するのだろうか?
「ほえ〜、でもファンタジーでしか会えない生き物に会えるとか楽しそう」
「まさか。めちゃめちゃ怖かったんだから」
依然として目を輝かせる紗季とは対照的に、夢を思い出した芽衣の顔はいつになく曇っていた。
──正直、もう見たくないと思うほど怖く、とてもリアルな夢だった。
昨日のは特に。
窓から差し込む月明かりの眩しさ、頬を撫でるぬるい夜風、耳元に届く荒い息遣い、首筋に感じた鋭い痛み。
そして、得体の知れない者に対する底知れない恐怖。
そのどれもが、今まで見てきた夢とは比較できないほど現実に近いものだった。
浮かんでは消えるあの光景。思い出さないよう、別のことを考えようとする。
そうして意識から遠ざけようとすればするほど、昨夜の夢は鮮明に脳裏に蘇ってきた。
**
夜、自室で眠っていた時のこと。
ガタッと、物音が耳に届き目を覚ました。
意識が覚醒し切らないまま天井を視界に入れ、そのままボーッとした目で周囲を見渡す。
「……っ!?」
刹那、彼女の目は大きく見開かれ、驚きに染まった瞳はありえないモノを捉えた。
部屋の対角線上、ベッドの足側に位置する掃き出し窓。
そこから吹き込む夜風を受け、靡くレースのカーテン。
その向こう、ベランダに『あるはずのない』人影を見た。
月明かりを背に受け夜に浮かび上がっているのは、紛れもなく人の形をしたモノ。
瞬間呼吸が止まる。そして自分の周囲の時までもが止まったかのような錯覚に陥った。
「ど…ろぼう…!?」
考えついた言葉が脊髄反射で口を衝く。
瞬時に目の前の状況を察した頭はパニック寸前だった。
一瞬にして、身体が鉛のように重くなる。
考えを巡らせようにも、目の前の非日常的な光景に思考が追いつくことを拒んだ。
心臓が激しく脈打ち、ドクドクと鼓動の音が耳に届く。
額からこめかみを伝って、気味の悪い冷や汗が流れ落ちた。
息が詰まり、上手く呼吸が出来ない。
手足の末端が氷のように冷えていくのを感じながら、どうにか崩れそうになる思考を保つのに必死だった。
混乱する芽衣にはお構いなしとばかりに、人影の右足が自室の床を踏み、こちらへと迫ってくる。
その光景にさらに焦りを覚え、ジワッと涙が滲み視界がぼやける。
それでもなお、月明かりに照らされた人影から目を逸らすことが出来なかった。
──殺される!!
本能的にそう感じ取った。
恐怖のあまり、今にも叫び出して発狂しそうな思考をなんとか押し留める。
そうして、震えるあまり逃げることさえ放棄しそうな身体を奮い立たせた。
震える足をなんとか抑え、力の入らない腕で身体を支え上体を起こす。
マットレスが沈んだだけでバランスを崩しそうになる程、身体は極限まで強張っていた。
そうして四つん這いの姿勢のままベッドの淵から床を見やり震える左足を下ろそうとした、その時。
──ギシッ。
人影の膝がベッドを軋ませる音が無慈悲に響く。
芽衣が震える身体をいなしているうちに、人影はすぐそこまで迫っていたのだ。
途端全身の力が抜け、支えを失った上体はシーツの上に倒れこんだ。
反射的に指が食い込む程の力で両肩を抱き、身を守ろうと無意識に身体を丸める。だが、震えは止まらない。
横を向いた状態で酸素を取り込もうと必死になる。が、過呼吸寸前で呼吸もままならない。
茶色の双眸は恐怖と絶望に染まり、大粒の涙がシーツを濡らした。
次の瞬間、肩に手が触れたかと思うと同時にグイッと引っ張られ、視界が反転した。
見慣れた天井が目に映る。
しかし直後、その視界は人影の姿に支配された。
芽衣の顔の両側に手をつき、覆い被さる体勢の人影。
逆光に照らされ、影になった顔が覗き込む。
影になっているせいで、顔のパーツがどこにあるかも分からない。
それなのに、一瞬目が合ったような気がした。
先程よりも呼吸が浅くなるのを感じる。喉が焼け付くように冷たい。息が吸えない。苦しい。
身体が自分のものとは思えないほど冷たくなるのを感じながら、子供のようにしゃくりあげて泣くしかなかった。
「な…んで…おねがい…殺さないで……」
震える声で、無意識にそう呟く芽衣。
人影は、何も答えなかった。
数瞬の後、ゆっくりと人影の顔が近付いてくる。
恐怖に耐えきれず、芽衣はギュッときつく目を閉じた。
それを抵抗する気がないと捉えたのか。
人影の手が頭の後ろに回り、後頭部を軽く持ち上げた。
同時に、顔が左の首元に埋められる。
ひっ、と芽衣の口から小さな悲鳴が溢れた。
首筋を人影の吐息が掠め、左耳に息遣いが届く。
その音が耳朶を打つたびに、呼応するように芽衣の目からは涙が溢れた。
もう何も考えられない。
次の瞬間、
「っ!?痛っ…ああっ!」
突然首筋に感じた鋭い痛みに、芽衣は思わず目を大きく見開き、喉を反らしながら声を上げた。
痛い。ただひたすらに。
あまりの痛さに恐怖を一瞬忘れるほどだった。
足をばたつかせて身を捩るも、人影の顔は依然埋められたまま。
痛みから逃れようにも、後頭部を支える手それを阻んだ。
首元からじゅるっ、という水音が響き、時折吐息が混ざる。
鋭いものが突き刺さっているであろうそこには熱が宿り、ジンジンと周りまでもが熱くなる。
柔肌を切り裂いた痛みと首筋から感じる疼きに、今にも気がおかしくなりそうだった。
先程までとは別の恐怖が身体の芯から込み上げ、必死に人影の胸を押し返そうとする。
しかし、力で敵うはずもなく。
少しばかり首筋から顔を上げた人影から
「大人しくしていろ」
と、男のような低く心地のいい声が響いた。
その言葉に、抵抗が全て無駄だと悟ったのか、芽衣の腕から力が抜けた。
だらんと、顔の両脇に腕が垂れる。
人影はそれを一瞥すると、何も言わずに行為を再開した。
角度を変え、先程とは違うところを吐息が掠める。
されるがまま、顔を少し右に背け首筋を差し出した。
「っうう…!!」
プツッと、2本の鋭いものが皮膚を貫き、熱いものがこぼれ落ちる。
滴り落ちる前に、べろりと熱い舌がそれを拭った。
舐められた部分から、くすぐったさにも似た感覚が脳に伝わる。
今まで感じたことのない感覚の連続に、ただひたすら慄くことしか出来なかった。
──次第に思考がぐちゃぐちゃに溶ける中、芽衣はぼんやりと考えた。
鼻を掠める鉄の匂い。首筋から溢れるこれは、血ではないのか。
首筋に咬みつき血を啜る。それはつまり。
そこまで考えたが、意識は限界に近い。
だんだんと、今まで考えていたことさえ朧げになる。
頭がフワフワとし、指の隙間から溢れ落ちる砂のように思考が消えていく。
掛けられた体重も、首元に感じる体温も、そこから感じる熱い疼きも。
何もかも、現実離れしているようでどこまでも現実に近いもの。
──これが、夢であればいいのに。
その思考が消えたのを最後に、芽衣はついに意識を手放した。