夢か現か―Θάνατος―
ジメジメとした空気が頬を撫でて、ピチャン、ピチャンと不規則な雫の滴る音が聴こえる。それが鼻の上に落ちた時、ようやくエライアはパチリと目を開けた。
そこは、一面の闇。光という光を失った生き物の気配を感じない静寂。
「ここは…」
いつの間にここに来たのか、全く覚えていない。
「…“風よ”」
手を翳してみるが反応は無い。術が発動しないのだ。そんな場所が存在するのか、エライアは冷静に考えてみるが何処も思い浮かばなかった。
普段は風を頼りに移動をしている。片翼ではバランスが掴めずまず飛べない。しかし、どういう訳か今は足首の痛みを感じない。別に麻痺しているのでは無い。暗い中、試しに恐る恐る歩いてみると、いとも簡単に前へ踏み出せた。
きっとこれは夢だと思いつつ、取り敢えず探索する事にした。
こうして歩けるのはいつぶりかと思いながら、一歩一歩進んでいく度に伝わる足裏の感触が懐かしく感じた。これが明るければもっと喜べたに違いない。
時間の経過は分からないが、どれだけ歩いても同じ景色が広がるばかり。把握出来たのは、ここがとてつもなく長く、高さもある巨大な洞窟の様な所だという事。
「…光が欲しいな。夜目はあまり利かないし…」
朝なら太陽、夜なら月や星の光が道を照らしてくれるが、今ここには頼りになる明かりが無い。
「…久しぶりに使ってみるか。上手く出来るかな…」
エライアは指先に集中して、風とは違う力をそこに溜める。“この力”は右半身が人間だからこそ出来るもの。術の発動条件も少々異なる為、身体に負担も掛かる。多用は出来ない。
「…ひか──」
「余所者の匂い」
「──っ!?」
暗闇から男の声がして、エライアは指先を引っ込める。
「…何者だ」
声の主は完全に暗闇と同化しており、声だけが反響する。エライアは見えない威圧で身震いしそうになるが、何とか堪えながら静かに口を開く。
「僕は、エライア…」
「…あぁなるほど、エライアか。良い名だ」
「あの、ここは…どこ、ですか」
「…おかしな事を言う。ここは冥界だ」
ドクンと、エライアの心臓が脈打つ。
冥界。それは死後の世界であり、死者の国と呼ばれる場所。
どうしてそこに自分が居るのか、夢なのか現実なのか境が分からず混乱して頭を押さえる。
「…なるほど、迷い込んだか」
姿を現す事は無いまま、独りでに話は進んでいく。
「ここは夢の中であり、現実。だが安心しろ、お前は死んでいない」
「…え、何…どういう…」
夢であり、現実とはどういう事か。エライアはますます混乱する。
すると、突如背後から何者かに肩を掴まれた。慌てて距離を取ろうとするが、ローブに足を取られて思い切り転んでしまい、頭をぶつけてしまう。
「イテテ…」
額がジンジンと痛み、エライアは四つん這いのまま手探りで起き上がろうとすると、暗闇から白い手が伸びて彼に差し出してきた。
「間抜けな奴だな、大丈夫か?」
「え、あ、ありがとう…」
エライアはその手を反射的に掴んだが、顔を上げて我に返る。
中性的な容姿だが男だろうか、恐らく先程の声の主がそこに立っていた。雪の様に白い肌と緋色の瞳以外、髪や背に生えた両翼、衣服、全てが漆黒に染まっていた。不思議な事に、彼の姿がハッキリと見える。何らかの力が作用しているのか。
そして、どこか見覚えのある佇まいと威厳。そう、まるでルナの様な──。
「貴方も……神…?」
「ん、貴方も?」
「あ、いや…」
訝しげに眉をひそめる男に、エライアは目を逸らして誤魔化した。
下手にルナに関しての情報を口にして彼女に迷惑を掛ける訳にもいかない。
「私は死を司る神、タナトス」
鼻にかかる程の前髪の隙間から、緋色の瞳が覗いて妖しく光っている。
緊張と警戒でエライアは口の中が乾き、喉が痛くなってきた。
生きている間に、それも短期間で二人の神に出会うとは思っておらず、可笑しさから笑みが溢れてしまった。口を押さえるがもう遅い。
それを見たタナトスは、口端を吊り上げて鼻で笑う。
「フン、死を前にして動じず笑うとは、大した度胸よ」
「…いえ、あの…」
神の怒りに触れたのではないかと、些か不安になるエライアだが、タナトスは気にしていない様子だった。
死と言えば悪いイメージしか連想しない。寛大な神で良かったと胸を撫で下ろす。
かと思いきや、突然タナトスはしゃがみこんでエライアのローブを膝まで捲る。暗がりでエライア自身は見えなくても、相手には見えている。何とも言えない気持ちになった。
「…あの、な、何です、か」
「フム、これが鍵か…」
たじろぐエライアをよそに、タナトスは顎を撫でながら彼の足をじっくり見ていた。
「この呪いまみれの足はどうした。死臭が漂っているではないか」
「……呪い?」
「何だ、自覚無しか…」
エライアは意味が分からず首を傾げるばかりだ。
タナトスはローブから手を放すと、今度は全身を眺める。そして、何かに気づいた様に眼光が鋭くなった。
「…ん?貴様…月と会ったか?微かだが、あやつの気配を感じる…いや、気のせいか…?」
ルナの名前が挙がり、エライアの心臓がざわつく。
何か言えばすぐに見抜かれそうな、そんなタナトスの眼光に思わず身が竦んだ。
「…まぁ良い。ここに長居すると夢から出られなくなる。まだ冥界に来る刻では無い。早々に立ち去れ」
そもそもどうやってここに来たのか分からないままなのに、帰れと言われてもその方法が分からない。
「あの、戻り方が分からない場合はどうすれば…」
「ならば、私が導いてやろう」
タナトスが黒衣を広げると、そこにはエライアが見慣れた景色が広がっていた。
「…聖域」
「本来、これは私の仕事では無いんだがな。高くつくぞ」
溜め息を吐きながらそう言うと、タナトスはエライアに向かって飛び掛かってきた。そのままエライアは黒衣に包まれると、まるで水の中で溺れる錯覚に陥る。眩しさで目を瞑り、息苦しさで藻掻き喉元を押さえる。
徐々に頭がぼんやりしていき、エライアの意識が途切れた。
「──…うっ…ゲホッ、ゲホッ…」
激しく噎せ返り、目を覚ます。
木々から射し込む太陽の光。澄み切った空気。遠くから聴こえる川の河音。いつもの場所だ。
エライアは塒で横たわっていた。背中が冷たい。寝汗を掻いて、びっしょりと濡れていた。
「ゆ、め…だった…のか?」
エライアは仰向けになり、額に浮かんだ汗を拭う。そして、呼吸を整えてゆっくりと起き上がった。
「…タナトス、か…」
妙にリアルな夢だった。それも断片的なものでは無く、はっきりと覚えている。
エライアはまた会えるだろうかと思いながら、彼が死の神であるという事を思い出して苦笑した。
水浴びでもしようと思い立ち上がろうとすると、森の奥からガサガサと草を掻き分ける音がする。村がある方角だ。
村人だろうか。聴覚を研ぎ澄ましてみるが、殺気は感じられない。やがて、顎髭を蓄えた初老の狼の亜人が出てきた。
「おぉ、ここに居たか」
聖域に一番近い村の長だ。どうやらエライアを探していたらしい。顔合わせする機会は滅多に無いものの、用事があると一番関わってくる重要な人物だ。何より、半身人間である彼を恐れず平等に接し、堂々としていられるのは亜人の中でも彼くらいだった。長としての貫禄も申し分無い。エライアも村長に対しては好感を持っている。
「…村長。お久しぶりです、どうかしましたか?」
「いやな。最近夜中になると、聖域側から怪しい光が見えると村の者が言って怖がるものでね。何か心当たりは……」
エライアの顔を見ると何か勘付いたのか、村長は話すのを止めた。琥珀色の瞳が微動だにせず、食い入る様に見つめている。
「…顔色が悪そうに見えるが、大丈夫か?」
「……酷い夢を見たので、きっとそのせいでしょう」
夢を通じて冥界に行っていたと言っても、にわかには信じられないだろう。言い方には語弊があるかもしれないが、あながち間違ってもいない。
「そうか…。あぁ、さっきの話に戻るが、何かあったら教えてくれ。休んでいるとこ邪魔して悪かったな」
シルバーグレーの立派な尻尾を雄々しく揺らして、村長は手を挙げて去っていった。
怪しい光というのは、即ちルナの事を示している。神との繋がりを独占するつもりで無くても、彼女の事を教える訳にはいかなかった。
川までの移動中、エライアは足首の痛みを気にしていた。風で揺られて痛いのかと思ったが関係無く、時間が経過するにつれてそれは増していった。
人目の無い浅瀬に着いてローブを脱ぐ。普段隠されている片翼が解放されて、バサバサとぎこちなく羽ばたくと、風に煽られて水が跳ねた。
腰巻きだけの姿になり、素肌を晒す。持ってきた布を水に浸して、汗ばんだ体を上から拭っていく。ひんやりと冷たくて気持ちが良い。エライアはふぅと息を吐きながら、ふと川の色が下流に向かって変色しているのに気づく。上流を見るが、そちらは濁りも無く清いままだった。
変わっていたのは、彼の足元から。
「…な、に……」
どす黒い液体が、透明な水と混ざり合っていくと、下流で泳いでいた魚がプカプカと浮いてくる。また、水草は枯れて、周囲の土もボロボロと崩れていった。
目を擦って再び確認するが、その景色は変わらない。現実に起こっているのだ。
それを見たエライアは、夢で言われたタナトスの言葉をハッと思い出す。
『この呪いまみれの足はどうした。死臭が漂っているではないか』
足枷が元で傷になり、いつの間にかただの傷ではなく呪いに変わっていたのだ。それが本当なら、ある日を境に痛みが増している。思い当たる節はあるものの、そうでは無いと信じてエライアは必死に頭を振る。
「…駄目だ、止めなきゃ」
下流には、先程の村長が纏めている村がある。水は生命の源に関わる大切なもの。これを触れでもすれば、魚達と同じ末路を辿るのは目に見えていた。それだけは何としても避けなければならない。
「……結界を…張らない…と…」
恐怖と動揺で歯がガチガチと鳴り、舌もまともに動かず上手く術を唱える事が出来ない。
「…ル、ナ──」
どうしてこうなってしまったのか。後悔に苛まれながら、エライアは最後の力を振り絞って女神の名を口にした。
最愛の者の声が波紋の様に頭に響き渡って、女神は静かに目を開けた。
地上に降りるといくら夜と言えども神の土地とは作りが違う。それを連日と続けているのだ。守護石を用いても神力は消耗してしまう。そんな中、まだ回復しきっていないのに中途半端に目覚めてしまい、頭がぼんやりとしていた。
「……ん…」
ルナは上体を起こして、寝ぼけ眼で辺りを見回す。側に彼が居るはずも無く、どうして声が聴こえたのかと首を傾げる。
「…エライア?」
完全に覚醒するまでには、まだ時間と力が足りない。それでも、胸のざわつきは治まらず不安ばかりが募った。
ルナが与えた“加護”と“呪い”が、エライアを意図せず縛り付けていた事に気づくのは、そう遠くない未来だった。